人が一人通り抜けられるほどの生垣の隙間は寮生の間では公然の秘密だ。
寮母の目やこうこうと門を照らす明かりに姿を晒すことなく寮から抜け出すにたやすい。
息を殺し身をかがめて、闇夜に紛れてしましまえば向こう側には監視のない世界が待っている。
と思いきや、抜けた先には綺麗な仁王立ち。
「なにをしているんですか」
はにっこりとほほ笑んだ後、そのまま生垣の中へ後退しようとしたが、がっしと掴まれて強引に引っ張りだされた。あああと力なく発した悲鳴も観月の前には塵に同じ。
「笑って誤魔化そうったってそうはいきませんよ」
再び仁王立ちの姿勢を立てなおした観月は顎を少し持ち上げながら、刺々しい目線を投げた。
さきほど笑ったのは予想外の出来事に顔面がそう動いただけで、特に意味はなかった。しかしいま薄笑いを浮かべているのは確実に追及の手を和らげようとの意図によるものである。あまり功を奏してはいないが。
「ほら、にやにやしてないで。何か言いなさい」
「お、お晩です」
「そういうことじゃありません」
は盛大な溜め息を心中で吐くしかなかった。
数いる寮の関係者の中で、観月に遭遇するのはかなり上位の不運と言える。世話焼きである反面、寮母や教師と比較して遥かに口うるさく、こと規則破りに関しては誰よりも厳しい。面倒な展開は目に見えていた。
「こんな場所で何をしているんですかと聞いているんですよ」
「それを言うなら先輩こそ、」
「僕のことはいいんです」
「ええー……」
理不尽としか思えなくとも、年上の立場は強い。後輩の真っ当な疑問をねじ伏せて自分の問いだけを尊重する観月に、は腑に落ちないものの感じつつも渋々と答えた。
「その、ちょっとコンビニまで」
ちょっと?と聞き返し、わざとらしく腕時計に目を落とした観月は、大きく眉を動かして見せた。
彼お得意の回りくどいお説教の始まりだ。
さて問題です、寮の門限は何時でしょう?
嫌味な目つきで観月が問う。
九時ですね。
ややうんざりした顔でが返す。
おや知っていたんですね。
さも意外だといわんばかりの芝居がかった口調で観月が告げる。
「では今は何時ですか」
声と同時に、の目の前に文字盤が迫った。
「8時……55分です」
見た通り答えると勝ち誇ったように観月が頷いた。
「まだ門限じゃないなんて言うつもりじゃないでしょうね」
言うつもりだったので、の目は明後日の方へと泳いだ。
「歩いて10分のコンビニに行って5分で済むわけがありません。まったく姑息な」
小言を並べながら立ちはだかる姿に、あいつ意地悪な教育係みたいだーねという某部員の言が脳裏をよぎる。
制服でも部活のジャージでもない。私服らしき白いシャツに袖を通した観月は、下校途中でも部活帰りにも見えなかった。
「……先輩、本当にこんな時間に一体どこ」
「僕のことはいいんです」
「ええー……」
じいっとを突き刺す遠慮のない二つの眼に、一瞬別の色が差した。問い詰めんとする眼力とは異なる、伺うような種類の視線。がそれを感じ取った直後、誤魔化すように、ところで、と咳ばらいが響いた。
「こんな時間に抜け出す、何の用があったんですか。雑誌やお菓子なら我慢なさい」
「お菓子じゃないですけど、晩食いっぱぐれたんで何か食べるもの買いに行こうかと」
演技ではなく、観月は訝しげに首をかしげた。
「夕食はどうしたんですか」
「病院から戻った後に疲れて寝てたら、食事の時間過ぎてて……」
寝過ごすなんてだらしない、とここで小言の一つでも飛ぶのが常套。が、予想を裏切って、観月はそうですかと返事をしたきり黙ってしまった。
束の間の沈黙を通り過ぎる車のライトが照らしてゆく。
この隙に戻るべきなのだろうか。くぐってきた生垣をが振り返っていると、叩くような振動が肩に走った。
体中にまとわりつく葉の欠片を、両手を駆使してせっせと観月が払い落していたのだった。
その献身的な光景に思わず、
「おか」
「なんです?」
「いえ」
おかあさんみたい、をは飲み込むことに成功した。
「いつまでもこんなもの付けておくんじゃありません」
どうせまたすぐに生垣をくぐるのだからあまり意味がない気がしたのだが、そんな姿じゃどこにも行けないでしょうと観月は手を休めることなく言った。一瞬目を瞬かせて、行っていいのかという顔をしたに、ようやっと払い落して気の済んだ観月はひとつ小さく息を吐いた。
「ただし僕もついて行きます。夜の一人歩きはさせられません。あなたも一応女性なんですからね。一応」
必要以上に「一応」を強調されたせいか、は礼を言うタイミングを逃した。


ちょうど商品の搬入前だったらしく、コンビニの棚は寂しい品ぞろえだった。ぽつんと残っていた鮭のおにぎり一つと、半額シールの貼られた串団子、それから少し風が冷たかったので温かい缶の紅茶を買った。支払いは観月。別にたかられたわけでもが財布を忘れたわけでもないのに、なぜか彼は当然のようにして全額を出した。
不自然なほど明かりに満ちたコンビニから離れると、ところどころ街灯は切れ、シャッターが目立つさびれた商店街の通りには心細い暗さが落ちている。
一人で出歩かなくて済んだことに、は今更だが安堵した。もっと賑やかでも構わないのに、口を閉ざしたように夜の町は静かである。
何時間買い手がつかず温められていたのだろう。じっと持っているには缶の表面は熱く、温度から逃げるようにはころころと両手で転がした。歩きながら飲むなんてみっともない、と観月は何も買わなかった。
「観月先輩紅茶好きの割にあんまりこういうの飲みませんよね」
「僕は丁寧に茶葉で淹れた紅茶しか紅茶とは認めていません」
ナルホドソウデスカと心をこめた棒読みを返し、は紅茶として認められない紅茶のプルタブを開けた。唇に触れた缶の縁よりも幾分か冷めた温度が流れ込む。
「痛」
が発した短い悲鳴に観月が振り向いた。スチール缶を口から離して顔をしかめているところだった。
「傷にしみた……」
言葉少なに呟いて、は両手で持ち直した缶にふうふうと息を吹きかけた。
「口の中切ったんですか」
「え?ああ、そうみたいですね」
「そうみたいじゃないでしょう!」
ボリューム調整をしくじったかのような唐突な大声に、は缶を落としそうになった。見ればずいぶんと怖い顔をしている。かと思えば次の瞬間、声のトーンが急降下した。
「……痛いですか」
「はあ、まあ、それなりに」
には観月が突然怒り出した理由がわからなかった。そして今、なぜそんな萎れた目で見ているのかもわからない。わからないので正直に返事をするしかなく、するとわずか観月が俯いた。
「……今日のこと、すみません」

殴られた時や頭を強打した場面で星を飛ばす漫画の表現は実に正しい。痛みよりもまず先に感覚全部に電気が走って、視界がちかちかと瞬く。テニスボール直撃という体験によって、はそれを本日知った。
赤澤の球を、観月が返球し損ねたのだという。
顔を上げた時には既に目前で、どこから飛んできたかは知る由もなかったし不可抗力なのは明白だったので暴く気もなかったのだが、観月はずいぶんと申し訳なさそうに告げた。
が飛んできたボールを受け止めたのは、運悪く五体で一番上にある顔の部分。気絶こそしなかったものの、あまりの衝撃にその場に崩れ落ちた。
とはいえ、途中何本もの木々の枝を通過した球の速度はずいぶん落ちていたし、実際にぶつかったのは顎のあたりだったせいもあって、そう大事に至るほどでもなかった。
ただ遠目には、顔面に受けてぶっ倒れたように見えたかも知れない。群がり集まった部員たちは痛みにしびれて口をきくことができなかったの容態を案じ、たまたま通りかかった教師の車に押し込み病院へ搬送した。
その際「救急車を呼んで下さい!早く110番に電話を!」「観月落ち着け警察を呼ぶな」「117番!」「観月さん時報です!」と赤澤や裕太に諌められる等、頭脳派が頭脳派として全く機能していなかった件については、朦朧としていたの知らぬところである。
「いやあの別に」
骨に異常はなかった。ひびも無く折れてもいない。ぼんやりと赤く腫れた程度で、怪我としては大したことはなかったとの診断結果はすぐにテニス部へ知らされた。当然観月の耳にも届いている。
「事故みたいなもんですし。いやわざとだったら話は別ですけど」
わざとなわけがないでしょう、とすかさず火がついたような勢いで声が返る。わかってますよ声でかいですと慌てては近隣を見回した。どこかの犬が反応して遠吠えを始めてしまった。
「大したことなかったんで……ほんとに気にしてませんから」
観月はそうですけどとか、そういう問題ではとか、気にしないというのもどうなんですかとか、少しずれていたら大変なことにとか、独り言とも小言ともつかない事をぶつぶつと呟いていた。
返事もせずにただそれを聞きながら、は熱を失いつつある紅茶を恐る恐る口に運んだ。今度は痛みは走らない。ほのかに甘かった。
発光するように夜を照らす自販機を横目に通り過ぎる。以前、抜け出してここにドリンクを買いに来た男子部員が観月に見つかって大目玉を食らったことがあった。コンビニまでの距離は自販機より遥かに遠い。堅物な観月にとって今これを許しているのは奇跡にも近い譲歩だ。 
「先輩心配してくれてたんですねえ。一応女子ですもんね」
少し意地悪く笑ったを、じろりと睨んだ振りだけして観月はそっぽを向いた。
「そうですよ。あなたは女性ですから」
が意図して付けた「一応」を観月は取り払って返した。向こうを向いたまま、顔を見せようとしないのはせめてもの意地か。
どうしてピンポイントにあの抜け道の前に居たのか、はその理由について聞かずにおいてあげることにした。生垣を潜った先には女子寮しかない。うぬぼれでなければ、おそらく答えはが想像している通りだろう。
なんとなく早足になっている先輩を、後輩は歩みを早めて追い越した。
「顔に傷でもついたら先輩に責任とってもらうから大丈夫ですよ」
あははと笑い飛ばすつもりで言ったはずが。
覗きこんだ顔が夜目にもわかるほどにとんでもなく赤くなっていたので、の笑い声は途絶えた。
「じょっ、冗談で、そ、そんなことを言うもんじゃありませんっ」
片手で口を覆い、動揺を隠しきろうとする意思は見られるもののほとんど防ぎきれていない。
更に言えば「ありません」の部分が「ありましぇん」と若干噛んでいたが、指摘できる存在はその時どこにもいなかった。なぜならば顔色がそっくりにも伝線してしまったが故である。
結果、不自然に顔を背けて歩く人間が一人から二人へと増えた。ぎこちない声と動作がシンクロして更に不自然な汗を呼ぶ。
「す、すい、ません」
「べ、別に謝らなくても結構、です」
お互い一言喋る度にどんどんと歩く速度は速くなる。
「は、早く戻らないと点呼が始まりますよ」
「はいっ」
「わかってると思いますが今夜は特別ですからねっ」
「はいっ」
「…………もし、さっきの、冗談じゃなければ、」
「はいっ?」
「わあっこっち向くんじゃありません」
早足で歩き続けた二つの影は生垣の抜け道を華麗に通り過ぎた。