下へ下へとしたたり落ちる雫がいくつも川をつくって流れてゆく。
五分もさしていなかったはずなのに、いっそ絞ってしまいたいほどぐっしょりと重い。周囲の客に触れないようは濡れそぼった傘を身に寄せた。
覚悟はしていたものの、一本遅れのバスの中はひどく混み合っている。こんな日に寝坊なんてヘマもいいところだ。
しとしとなんてしおらしい表現では済まされない荒々しい雨粒が窓ガラスを一心にたたき続ける。
ゆうべからひっきりなしなのだから少しくらい遠慮しても良さそうなものだが、一向に雨足が弱まる気配はない。
雨は好きじゃない。
恵みの雨とはわかっていても、当たって濡れるのはやはり憂鬱だ。
肌に張り付く蒸し暑さがどうにも重苦しいし、一歩ごとに足先が水気を吸う感触は気持ちのいいものではない。
そう思っているのは大体皆同じようで、湿った空気が充満した車内には空模様をそのまま映した陰気な顔が並んでいる。
おそらく長雨になるでしょう。今朝の天気予報を反芻する。
長雨ってどのくらいの?と気弱そうに告げた予報士に心で問いながら吊り革を掴みなおした。
明日も雨だろうか。明後日はどうだろう。その次も降るかもしれない。
乾く暇ないかもと足元を見下ろす。それなりに履きこんだ黒の革靴は、既に湿り気を帯びていた。
溜息をついたが、落胆の出所は革靴でもそれを濡らした雨粒でもない。
一つのカーブと四つの信号を通り過ぎて、バスは次の停留所にとたどり着く。
暗澹とした気分で曇りかけたガラスをこすると、ずらりと並んだ傘の先頭、紺色の下の見知った顔と目が合った。
暗雲が一瞬で散った。

「おはようッス」
真っ先に乗り込んできた後輩は、人ごみの壁をするすると抜けてごく当たり前のように横へ滑り込んできた。
ひでえ雨、と犬のように身震いをひとつ。飛び散る水滴に周りの客が思い切り顔をしかめたのも気付かず、澄ました顔で吊り革を掴む。
無論、最も被害を受けたのは誰よりも近い位置にあったである。
「赤也くん赤也くん、傘」
「かさ?」
「とりあえずたたんだらどうかね」
びらびらと水気を含んだ傘布が雨の名残を振りまいている。更なる混雑が予想される車内でその状態にしておくのはあまり良い判断とは言えない。何よりさっきと同様、隣の自分が一番迷惑を被る。
いっけね、と赤也は慌てて傘を閉じた。
「先輩冷たくなかったすか?」
「大丈夫」
気遣う様子がいじらしかったので、先に顔へとぶっ飛んできた水しぶきの件は黙って許した。
雨の朝を走るバス内は乗客が増えて窮屈になる。
普段徒歩や自転車を足にしている人がこぞって乗り込むようになるからだ。横でくせ毛の広がりを気にしている後輩もまた、傘を片手に停留所に並ぶ。雨が降れば。雨の日だけは。
いつもひとつ前のバスで乗り合わせるから、今朝会うことはないと思っていた。現金なもので、こうなると寝過ごした自分を誉めそやしたくなる。
雨の日は嫌いじゃない。

それにしても、とは上から下まで赤也を姿をまじまじと眺めた。
何をどうしたらこんなに濡れるんだ。
むき出しの両腕はもちろん、シャツの裾、袖口、見るからに重そうなバックパック、それら全てが存分に雨を含み、果てはちりちりと縮れた黒髪の端々にまでいくつもの水滴。
特にひどいのは膝から下で、波打ち際で追いかけっこでもしてきたのかという有様である。この分では水害は靴下まで及んでいるだろう。
雨の日に傘を手に闊歩すれば足下に被害が集中するのは道理だが、それにしたって5分10分バスを待ってただけでこうも濡れるものだろうか。同じように停留所で並んでいた他の客と比べても抜きん出ている。
「傘……差してたんだよね」
「差さなきゃ持ってこないっすよ」
堂々とそう言い切られれば、こちらとしてもそりゃそうだと頷くしかない。どおどおと貫かんばかりの雨音。この雨で差さずしていつ差すのかという豪雨である。
首をかしげながらも、まあ日頃からやんちゃなことだから、大方肩に乗せるような横着な持ち方でもしてたんだろうと一人合点した。
「ちょい、じっとしてて」
鞄から引っ張り出したタオルを頭から被せる。本当は自分の為に持って来たのだが、今必要としているのは考えるまでもなく隣の濡れ鼠の方だろう。
ポンポンと撫でるように叩く間、赤也は大人しくされるがままになっていた。素直な反応が微笑ましくて、なんとなく子供の守りをしてるような心持ちでいたら、とても子供のものではない目がタオルの隙間から覗いて急に我に返った。
貸すのはいいとして何も拭くまで世話を焼かなくとも。
母親のつもりか女房気取りか、前者はともかく後者は気まずい。
いたたまれなくなって、あとは自分でとそそくさと手を離すと、赤也はえーと非難めいた声を上げた。
疎まれてはいない気配に少しばかり安堵する。
視界を窓に置いたまま、傘で床をコツコツと叩いた。
「傘差す時はさ、こう、ちょっと前方に持つと濡れにくいらしいよ」
「前〜?そんなんじゃ後ろノーガードじゃないっすか」
「それが不思議と平気なんだって。ひとつ騙されたと思っておためしあれ」
「先輩は試したんすか」
「いや背中濡れそうで」
「ひでえ」
ほんの少しの揺れを伴って、目に馴染んだ景色が一旦止まった。
ドアが開く音と共に雨の匂いが押し流れてくる。
乗り込む客と降りる客とが塊となって背後でせわしなく蠢いていたが、間に体を入れた赤也が全部引き受けてくれたおかげで衝撃はほとんどなかった。ありがとうと見上げたら、へへと照れ臭そうな、それでいて得意気な満面の笑顔で返された。
一瞬本気で長雨の予報が当たることを願いそうになった。
「この時間のバス、混むんスね」
再び動き出したバスの振動に合わせて、赤也は身をよじった。先ほどの停留所で多くの客を乗せたらしく、すし詰めとまではいかないが少し息苦しい。
一台のバスが速度の上がりきっていない達のバスを追い抜いていった。一瞬窓から見えた車内はこちらを更に上回る人の山。うわ、と揃って口から呻き声がもれる。
「すっげ。 降りる前に圧死するっつの」
「この分じゃひとつ前のバスもごった返してたかも知れないねえ」
「いやあ結構すいてたっすよ」
へえ、となんの気なく返事をしかけて、はたと止まる。
「え?」
思わず目を向けると、しまったという顔で赤也は掌で口を塞いだ。みるみる内に赤くなる。
青いスニーカーはつま先からかかとまでぐっしょりと。
色の変わったズボンの裾から今も床に向かって雫が降る。
不自然なほどその身に雨を吸い込んだ後輩。
右左と逃げ回るつり目を追いかけながら、容赦ないどしゃ降りの下、間に合ったはずのバスをただ見送る紺色の傘を、は瞼の上に思い描いた。

――― 雨の日を嫌いじゃないのは、自分ばかりではなかったらしい

傘の柄を握る手に知らず力がをこもる。
突き合わせた決まり悪そうな顔の片方が意を決したようにすうっと息を吸い込んだ途端、バスが急停車の悲鳴を上げて、押し寄せた人波にふたり仲良く潰された。