蓄 熱









産毛すらも震えるように冷え込んだ日だった。
寒い朝は布団から出るのが億劫を通り越して、穏やかなまでに潔く諦めの境地に達する。それにずるずると甘やかされたせいで、いつもより30分も家を出るのが遅れ、母の怒鳴り声を背に飛び出したから、よく覚えている。
下りないはずの踏切、見慣れない顔ぶれの乗客、そして人もまばらな通学路。
新鮮で目新しく、けれどそれを満喫できるほどの余裕はなかった。
走って、走って、心臓がパンクするほど走って。まだ丈の合わない、少し大きめの制服が膨らむほど走って。
結論から言うと、遅刻した。
始業の鐘が鳴り響くさなか、校門へと続く道を進むのは私ばかりではなく、前方に同じく制服に身を包んだ男子生徒がのらりくらりと歩いていたのだ。息も絶え絶えになりながら走っていた私に彼は振り向き、あかんあかんという風にゆるく首を振った。
「もう急いでもしゃあない、諦めも肝心や」
耳に馴染みのない気だるい関西弁は、張り詰めた全身の力を抜くには充分で。
葉の落ちた街路樹に囲まれた通学路をたっぷり時間をかけて贅沢に歩き、私と彼――忍足は、それぞれの担任に仲良くお叱りを受けた。
普通ならそこで終わるはずなのだが、どうも運が悪かった。
登校時刻をとうに過ぎてるにも関わらず慌てる様子なくのろのろ歩いていた不敵な後ろ姿を、学年主任に目撃されていたらしい。その放課後、がらんと空いた生徒指導室で反省文を書かされる羽目になった。遅刻はもう仕方ないとしてもせめて走れよ、というのが教師の立場からの言い分だ。
「朝からそない走って、体力使いたないやんなあ?」
遅れて室内に入ってきた、もう一人の遅刻者は私に賛同を求めた。いえ私は走ってたんですけどね。
当時初々しい一年生だった私は、初めて放り込まれた生徒指導室の硬質な空気にすっかりとしょげかえって、頭を垂れるように机に向かっていた。反省文は原稿用紙二枚分。
カリカリとシャープの先が走る音がして、止んで、また音がして。時折強い北風に揺すられてがたがたと窓枠が鳴っていた。
頬杖をついていた横顔が、思い出したように息を吐いた。
俺、皆勤賞とれんようになってしもうたなあ。
言葉とは裏腹な、真剣味の欠片もない、まるで惜しくなさそうな声音だった。
あまりのいい加減さに思わず喉元をくすぐられて「じゃあ高等部で狙おうか」と言うと、横顔はするりと正面になり「先の長い話やなあ」と蜂蜜を逆さにした時みたいに、彼はゆっくりと相好を崩した。
まだその頃、表情の端々には少年の面影がうっすら残っていたものの、人の意識を絡め取るには十分な値打ちがあった。

結局、遅刻は後にも先にもそれきり一回だ。
もともと私は不真面目な部類ではないし、校則を堂々と破る度胸も持ち合わせていない。でなけりゃ、あれほど必死に走ったりはしない。
俺かて遅刻なんてようせんわ、あの日たまたま目覚ましがならんかっただけや。彼の口からそう聞いたのは、春を迎えたしばらく後のこと。
進級して、忍足と私は同じクラスになった。
たった一度の遅刻を、共に分け合った仲である。特にこれといって感慨はないが、雀の涙ほどの連帯感くらいは持っていたかも知れない。
あれ以来、廊下ですれ違うたびに、目で挨拶くらいはしていたし、たまたま委員会で顔を合わせれば、お互い何となく隣の席を選んで腰を下ろした。友人ではないが、見知らぬ他人より近い距離にあった。
だからクラス替えが行われた二年の時、ほとんど初対面のクラスメイト達に比べて、すんなりと打ち解けることが出来た。
よろしゅうな、と云ったその声は前よりも低く、顔の位置は正反対に少し高くなっていた。

机を並べて時を過ごしている内にわかったことだが、忍足はずいぶんと感情に関して省エネな男だった。
最初の印象からして、せっかちな性分には見えなかったにしても、年の割に驚くほど腰が重い。人間味に欠けるとは言わないが、喜怒哀楽の起伏が穏やかな方だったのは間違いない。
学校なんてものは、成長にばらつきのある未熟な雛たちの群れだ。不安定な情緒と言動で、ささいな揉め事や喧嘩は日々絶えない。けれど忍足が渦中で他者とぶつかりあうことや、怒りをあらわにすることはなかった。彼はいつもそれを遠巻きに眺めるか、時にやんわりと諌めるくらいの役回りと決まっていた。
しゃあないやん、とは彼の口癖だ。
頬を真っ赤にして走っていた私を諭した時のように、忍足は何か腑に落ちないことやどうにもならない失態の度に、しゃあないやん、と云って私を、誰かを、そして自分を慰めていた。
調理実習の炊き込みご飯が妙に水っぽく仕上がった時も、しゃあないわ、と少な目に茶碗によそった。
体育祭が突然の土砂降りに見舞われた時も、周りがぎゃあぎゃあと大騒ぎで跳ね回っている中、かなわんなあと零しつつ、まあしゃあないな、と至極大人しくテントに避難した。
私がお弁当を忘れてさりげなく落ち込んでいる時も、忍足は忘れたもんはしゃあない、ひとつ貸しやな、と頭を撫でながら菓子パンをひとつ譲ってくれた。
しゃあないやん。まあええわ。どうにかなるやろ。
身を引くことも、逆立つ感情をなだめることも、忍足は常に巧みだった。相手に同調しているように見えて、決して外野の感情に引きずられることがない。むしろ、内包する熱を放出することに関して極端に惜しむような節すらある。
とるに足らないつまづきや摩擦に、蓄えておいたエネルギーを消費したくないのかも知れない。
その静けさと貫禄をはらむような独特の雰囲気は、周囲に溶け込みながらもどこか浮いていた。一目置かれるという意味で。
他に比べて、私達のクラスには少しばかりやんちゃで幼い男子が多かったのも、その存在を際立たせた一因かと思う。同級生の精神年齢の低さに辟易した一部の女子が、忍足君て大人で優しい、とつい彼に希望を見出してしまっても無理はない。
いつだかこっそりとその評判を伝えたところ、まんざらでもない反応を示すかと思いきや、忍足は困ったように笑うだけだった。
私が意外そうに目を瞬かせると、忍足は苦笑いを浮かべたまま「別に優しゅうしてるわけやないけどな」と言った。
私は何も考えずに「面倒くさがりだもんね」と頷いた。
苦笑いは消えていた。忍足にしては珍しく生真面目な顔で、独り言のように口元が動いた。
そうやない、一点集中型なんや。


木枯らしが唸りを上げている。
今年一番の寒さという予報士の言葉に嘘はなく、今朝は吐いた息が白く濁って消えた。日が高い内はその日差しで刺々しさを和らげていたが、夕暮れに近づくにつれ、凍てついた風が枯葉を揺らし始めた。
既に着込んでいる冬服に体を押し込めるようにして、前ボタンをはめ直す。入学式の頃、ひとつ折りほど余っていたブレザーの袖丈は、三年目の冬にしてようやく釣り合うようになった。
日当たりが悪いせいで、この場所は他よりも底冷えしやすいのだという。
踏み入れるのが二度目となる生徒指導室の空気はあの時と変わらず冷ややかで、けれど私はあの時のようにしょげてはいなかった。どちらかというと、途方に暮れていた。
パイプ椅子に背を預け、無為にぎしぎしと音を奏でていると、指導室の扉が控えめに開いた。
のっそりとその隙間から覗いたのはよく知るクラスメイトの姿で、私が首をかしげている間に彼はぺたぺたと足音を立てて、よいしょとばかりに横の椅子に腰掛けた。
「となりええかな」
「座ってから聞かれても」
基本やろ、と忍足も安いパイプ椅子の背もたれに体重を預けた。きい、と小さく軋む。
先述の通り、ここはどこよりも冷えるし椅子も古びてるし、おまけに薄暗い。快適にはほど遠く、単なる気まぐれで立ち寄るようなスポットとは到底思えなかった。
「どうしたの」
早速寒さが堪えているのか、忍足の両手はズボンのポケットにおさまったままだ。
「監督に呼ばれてな」
「榊先生に?」
「ん」
頷きは短かった。
束の間の沈黙の後、呼吸のついでに忍足が声を落とす。
「どうしたん」
そっくり同じ問いが返ってくるのは当然といえば当然だろう。私はうつむきがちに口を開いた。
「担任から呼び出し」
「なにしたん、遅刻やないやろな」
いつかの懐かしい話を蒸し返して、忍足は何か含むように微笑んでみせた。
状況も光景も、どこかあの日と似通っていた。
けれどそこに居る忍足そのものはあの日とは比べ物にならない。かろうじて纏っていた子供の名残は消え去って、猫背の気味の背丈も五感を撫でるような低音も、今や本物の大人のように備わっている。
ただ時折みせる笑い方は少しも変わっていなかった。
つられて私は少し口元をゆるめかけた。そして、それまで寒さと不安から組んでいた腕を解き、顔を静かに覆った。
「英語のテストが壊滅的で……」
、英語苦手やったな」
「うん……他はそこまで悪くないんだけど……」
「苦手なもんはしゃあないなあ」
忍足ならそう言うだろうと思っていた。彼はいつもその言葉で、私のささくれをさらりと剥ぎ取っていく。
「追試受けるんやろ」
「うんそうなんだけど。下手したら高等部進めないかも」
大きく身じろぎをしたのか、ぎぃっと荒々しく椅子が鳴った。
思わず横を見遣ると、忍足は身を乗り出して私を真正面から見ていた。机に腕を置いて、やる気なくポケットに押し込まれていた手は握りこぶしの形を作っている。
「外部受験するんか?」
「え、まだわからないけど」
普段ほとんど見ることのない厳粛さを伴う目の色に、私は小さくうろたえていた。動きの鈍りそうな口を懸命に動かして、そうなる可能性もあるかな、と曖昧に答えると、忍足は押し黙った。かと思えば、机に預けた両肘の間に顔を埋めて、そのまま弱ったように頭を抱えて。
「…………それはあかん」
それはな、あかんわ。と忍足は繰り返し呟いた。
常に彼と彼に関わるものを慰め、なだめすかし、手を引かせてきた「しゃあない」はその口から出ることはなかった。
、と呼びかけながら顔を上げた忍足は、どこか決意に満ちていた。
「自分、これから時間あるか?」
「え」
「英語な、俺が教えたるわ」
もう一度「え」と私が言う間もなく、忍足は携帯を取り出し、画面のカレンダー表示と向き合い始めた。追試までは一週間やな、その後の試験がキモや、ここでそれなりの点取ればなんとかなるやろ。
本人になんの了解も得ず、忍足はどんどんと私の予定を取り決めていった。私は呆気にとられることに忙しくて、言われるがままどんどんと予定表を埋めていった。
とても、私が知っている忍足の姿と結びつかない。受け流すことに長けた、放熱を厭う、あの生き物はどこに行ったのだろう。
よほど不可思議な顔をして見上げていたのか、忍足は視線から逃れるようにして机に目を落とした。

「……しゃあないやん」
皆勤賞、とれへんくなるやろ。

一瞬、忍足を形作っていた大人の膜が剥がれ落ちて、先の長い話やなあと笑った今より幼い彼の姿がよぎる。
それは今まで聞いた、どの「しゃあないやん」よりも頼りなく、決まり悪そうで、心臓が脈打つような体温がこもっていた。忍足が人知れず抱えていた、熱の一端に触れた気がした。
背筋がすっと伸びて、レンズの奥がふと強ばる。
けれどすぐに、白状するようにまたその肩が落ちた。
ほんまはな。

――俺ほんまは、あん時反省文書く必要なかってん
――足怪我しとったからとか適当言うて、お咎めなしや
――でもお前だけ呼ばれた聞いてな、あんなに健気に走っとったのにと思うたらなんや気が咎めて、足が自然に向いとった

今日みたいに。

その時になって、榊先生は昨日から出張だったことに、私はようやく気がついた。
木枯らしが音を立てて、枯葉をさらって行く。
いつか、忍足は優しいわけではないと答えた。あれがどういう意味なのか、私は考えたことがなかった。放熱の矛先が果たしてどこへ向いていたのか、見ているようで見えていなかった。
掠めていた熱は、やがて大きな手の形をして、私の指先に触れた。
それは三つ分の冬を溶かすほど、じわりとただ熱かった。