手 は 口 ほ ど に





遠い背後から、ぺたぺたとした足音とともに歌声らしきものが聞こえてくる。
恐らく無人であろう廊下によく反響して、の教室にも無防備に届いた。近付くにつれメロディーはだんだんと明瞭になってゆき、ご機嫌で奏でられているそれが、往年の歌謡曲だと思い当たるのにそう時間はかからなかった。
確かこれは山本リンダ。
どうにもとまらない、とノリノリで歌いながら教室へ入って来た千石は、振り向いたと目が合った瞬間、最後の「い」の部分を歌ではなく悲鳴に近い調子で締めくくった。
さんっ!?うわっごめん聞こえてたよねっうわっ」
飛びあがるほど驚いた後、千石は女の子のように両手で顔を覆った。おどけてこういう仕草をして見せることは多いが、今は本心、この場から逃げたい心境からだろう。確かによくあることとはいえ、これは恥ずかしい。経験上、気持ちはよく理解できるので、は少しでも彼の羞恥を和らげてあげたかった。
「だ、大丈夫だよ?そんなに聞こえなかったし、あと、その、うまかったし」
ただ、はあまり口が巧みではなかった。ますます千石の顔を隠す手は強くなった。
「やっぱり聞こえてたんだああぁ」
「あっあああごめん、でも本当にあの、大丈夫だから気にしないで」
矛盾に満ちた慰めはフォローとして機能しなかったものの、懸命さが通じたか、千石は両手を外して、そんな必死になんなくても、とふんにゃりとした笑顔を見せた。いつもの調子に戻りかけた微笑みにはほんのり安堵しつつも、今度は焦って声まで上ずらせた自分が恥ずかしくなった。
ささやかに口を尖らせて、だって千石君が……と恨みがましくも弱々しく告げると、千石は照れの名残を隠すようにして肩をすくめた。
「まさか聞かれるなんて思わなかったんだもん」
どうせ聞かれるならもっとカッコイイ曲歌えば良かったな、と割と真剣な顔で腕を組みながらぶつぶつと呟いているのを耳にして、はスカートが翻ってしまった女子の、やだあ、こんなことならもっとかわいいパンツ履いてくれば良かった、という文言をなんとなく思い出していた。両者ともちょっとそれは違うんじゃないかという後悔のずれ具合が似ている。
さんまだ帰ってなかったんだね」
どうしたの?という意図がその口調と眼差しから伝わって来たので、は苦笑いで応じた。
「笹山先生に用があるんだけど、いま職員会議やってるから終わるまで帰れないんだ」
が口を開く前から歩み寄っていた千石は、言い終わる頃にはすぐ前の席へと腰かけていた。続けて肩にかけていた鞄までするりと下ろしてしまう。は隣の机に投げるように置かれたそれを目で追ってから、不思議そうに千石を見た。
「帰らないの?」
千石は、うん?とわずかに首を傾げてから、もう一度、うん、と違うニュアンスで返し、そして思いついたかのように急に元気の良い、張りのある声を出した。
「そう、俺も、俺も笹ちゃんに用事があるんだよね!だから残らなきゃ」
その言動に、どこか腑に落ちない不自然さがあるのは否定できなかったけれど、軽薄なようで深い色を宿している瞳がこちらを向いていると思うと、そんなつまらない事を言う気には到底なれなかった。
女の子とじゃれつくのを何よりの生きがいと公言してはばからない人懐っこさ。たまに口をきく程度のクラスメイト相手に、こうして親しみを持って近付けるのはその愛嬌ゆえだろう。
けれど彼にとっては何でもない距離も、には水面が波立つに充分な風となる。さっきまで時間つぶしに目を落としていた雑誌がただの紙束に思えた。
ぺらり、と乾いた音を立てて紙束の頁をめくる。途端、紙面を覗き込んでいた千石の表情が、アンテナが立つように興味で輝いた。
「星占い?」
「うん、今週まだチェックしてないんだ」
目をきらきらとさせて字を追う様にくすぐられ、はくるりと雑誌を千石の方へと向きを変えた。ありがとう、と一度顔を上げてしっかり笑顔を見せてから、また文字に目を落とす。金運は星ひとつかあ。衝動買いに注意ね、俺ねえ先週これやっちゃったよ。買ったあと別の店寄ったら、同じやつが半額で売っててさ、って、ラッキーアイテム銀の靴って難易度高すぎじゃない!?なにこれシンデレラ?
うんうんと頷いたり笑ったりして、も頬づえをつきながら逆さになった星占いを見下ろす。
「あ、体調面に不安要素だって。風邪とか気を付けないとね。えっと、ラッキーデーは……今日じゃん!いいことあるかもよ!?」
千石が嬉々として読み上げている占いが、いつの間にか別の星座を指してるものだと気付いて、の声に驚きが混じった。
「知ってたの?」
「かわいい女の子の星座や血液型は一度聞いたら忘れないよ」
それが彼特有の挨拶みたいなものだとはよくわかっていたし、似たような文句はこれまで何度となく投げられてきたが、その度にはうまく受け流すことが出来ず、恥ずかしいような困るような嬉しいような、それを呑みこむのを失敗したような不可思議な微笑みを浮かべて、そっと下を向くしかなかった。
「……ね、さん占いは好き?」
千石の声は優しい。
きっとうまく反応できない自分に助け舟をくれたんだろう。
はそう解釈して、まだ少し頬の赤い面を上げる。うん、好きかな。曖昧さの拭えない頷きを、千石は晴々しく笑って出迎えた。
「いま俺、手相にハマッてるんだ」
ここ数日、教室の片隅で手相の本を片手に、級友や部活の仲間を巻きこんで千石がわいわいと騒いでいたのはも知っていた。
どうせなら女の子がいいのに、と不服そうな千石に練習台として付き合わされていた南は最初「仕事運は上々、南のくせに結婚は早い」との言葉に喜んで「50前後で大きな病気の恐れあり」に神妙な顔になり「32でハゲる」で、青ざめながらキレるという器用な芸当を見せていた。
「見てあげるよ」
さあどうぞとばかりに千石の手が待ち構えている。
「私の?」
きょとんと自分に指をさすに、千石はさんしかいないでしょ、とにこやかに言って、おいでおいでと手招きした。
決してごつく見えなかった千石の手は、実際に触れてみると皮膚が固いように感じられた。多分手のひらにはいくつも豆がある。小さな発見に感じた何かをは心だけに留めた。
「手相って、そんなになんでもわかるの?」
いつぞやの件をさしてか、千石はニヤッと口角を上げた。
「さすがにハゲるかまではわかんないけど」
でも、と意味深に声を落とした。
「なんでもわかるよ」
「なんでも……」
それは少し怖いような気がして、はぼんやりと繰り返した。
吹奏楽部によるものだろう、途切れ途切れのフルートの音色が耳の端をかすめる。細く高い音が続いたかと思えば次第にいくつもの楽器の音が重なって、ひとつの曲に姿を変えた。
なんでもわかると大口を叩きながら、千石は手のひらを見つめたまま、占いらしいことをひとつも言わない。手相を見ているだけのこととはいえ、手を取られたままじっとしているのはあまり落ち着くものではなかった。
時間の基準を時計として考えるならば、恐らく分針が一度身じろぎしたかしないか、その程度に過ぎない。しかしには坂を上るようにゆっくりと時が横切っていった気がした。
あの、とが遠慮がちに目線を上げても、千石はまだ手相を焼きつけるように見つめている。
やがてその口元だけが動いた。
「ほんとに、なんでもわかっちゃうよ?」
口調はいつもと変わらないのに、何故か言葉の重みが異なって響く。千石はふいに笑みを消し、手を握ったまま瞼を下ろした。
「君は俺がすき君は俺が好き君は俺がすき」
繰り返された言葉には息継ぎもない。
橙色の髪が揺れ、伏せられていた目が願うように持ち上がった。
「君は、俺が、すき?」
は息を呑んで、それから逃げ道を探すように視線が空を泳いだけれど、強く握られた手はびくともしないので、観念してまっすぐ双眸を向けた。
最初は慎ましく顎を引き、次はゆっくりと深く。
二度の頷きで応えると、捕える指に力がこもった。ぎゅうぎゅうと音が聞こえんばかり。
「俺の手も見て」
空いたもう片方の手が、伺うようにの前に辿りつく。
「わたし、手相、みれないよ」
うん、と千石は返事をしたのに手を引っ込めようとはしない。おそるおそる握る。
触れた手のひらの、その皺をが眺めるまでもなく、息継ぎのない声が落ちた。


「俺は君がすき俺は君がすき俺は君がすき」