なぜ人は咄嗟に偽ってしまうのか?

――――― 答え:後ろめたいから




突然はらはらと降り出した雨に否応なく追い立てられたその先で、珍しいものを見た。
水曜日の部室はしんと冷えて人気がない。
普段の練習が過酷な分、よほどの自主練バカでもない限り、基本的に部員達は休める時にしっかりと休む。加えて今日のこの空模様では、いよいよもってここに近づく者は少ないだろう。
薄暗くはあったが、すぐに出るからと電灯のスイッチには触れずに入った。
静まりかえった空気に居心地の悪さを感じながら、探し当てたのはここへ来た目的である古ぼけた傘。
共有の置き傘として部屋の隅に立てかけられていたそれは、殆ど利用されることなく寂しげに埃を被っていた。
いつから置かれていたのかも、そもそも使えるような状態なのかもよくわからない。手に取ってはみたが、いざ開いてあらかた骨が折れていました、という可能性もある。
傘か、はたまた燃えないゴミかを見極めるべく、は少しばかり明るい窓辺へと近付いて、ヒッと息を呑んだ。
暗がりにぼんやりうずくまった、不気味な塊。
出た!
心臓が豪快に跳ねて回って横転した。
だが、実際は「出た」は「居た」の間違いで、霊魂に見えた塊は机に人が突っ伏して眠っていたにすぎなかった。
人騒がせなと胸をなで下ろしたのも束の間、二度目の驚きがを襲った。
たとえば、この塊の正体が、居眠りの代名詞とも言える芥川慈郎だったとしよう。多少の疑問はあるにしろ、この寝太郎が!紛らわしいわ!と憤慨するくらいで、そう違和感は覚えずに済む。
しかし、机の上で崩れ落ちていたのは、それとは真逆の印象を持つ日吉という男であった。


これはまた稀な場面に出くわしたものだ。
鼻っ柱も警戒心も強いあの男が、無防備にも眠りこけている。こんな機会は滅多にあるものではない。
は、思いがけず宝箱を掘り当てたような幸運を感じた。
声を出してしまわないように、両手でしっかり蓋をして、おそるおそる覗き込む。
頬杖が崩れたのか、投げ出された右腕を枕にする格好で、日吉は横顔を晒していた。規則正しい寝息が聞こえてくる。
知らなかったとはいえ、物音に頓着せず部屋に入った自分を思い出し、起こさず済んだことには今更だが安堵した。
目を覚ます気配がないと知るや、立ち去るのも揺り起こすのも惜しい気持ちが頭をもたげる。
誘惑に勝てず、そもそも勝つ気もなく、は薄氷に触れるのに似た慎重さで隣に腰を下ろした。
それで初めて、彼が下敷きにしているノートの存在に気付き、更に彼がここで眠った理由をも知ることが出来た。
効率的な基礎運動と筋トレの組み合せ、ウィークポイントの克服や無駄のない時間の配分など、考え抜かれた練習メニュー案がいくつもいくつも生真面目な文字で書かれている。
日吉個人の、ではない。それはテニス部全体の、であった。

日吉が跡部から次期部長として指名されたのはつい先月のことだ。
正式に引き継ぎを終えていないものの、部内での立場はすでにただのレギュラーではない。自覚を持って指導を受け、また指導を施しているのはも知っていたが。
ろくに筆も持てなかった幼子が、初めて文字を書いたのを目の当たりにした年寄りのような。いやなんかちょっと違うような。でもそれに近いような、だいぶ遠いような。まあ面倒くさいからもうそれでいいような。
とにかくそういう類の感極まった思いが訪れ、は日吉の頭をぐっしゃぐしゃに撫で回して胸にかき抱きたい衝動にかられた。
が、行動に移した場合、起きた日吉から伝統ある古武術の技をお見舞いされるか、通報を受けた警察から事情を聴かれるかのどちらか(もしくは両方)の道が待っている気がしたのでやめておいた。
代わりに、普段は間近に迫ることのない相貌を見つめる。
当たり前だが、いくら眺めても日吉は拒まない。怒らない。睨まない。
おかげで、睫毛の長さ、その一本一本の違いすらよく見えた。
現部長の存在感が規格外のゴージャス大盤振る舞いなだけに、あまり目立たずにはいるが、改めて見ると日吉は整った顔立ちをしている。ヒョウ柄ラメ入り薔薇模様とはまた別の趣の、奥ゆかしい清冽さとでも言おうか。加えて、今の姿は可愛らしくもある。
威嚇を常とする刺々しい後輩が、こうして目を閉じているだけで、あどけなくさえ見えるのだから寝顔の威力とは凄まじい。
まさかこの無邪気な寝息と同じ箇所から、人を小馬鹿にするせせら笑いが吐き出されるなんて悪い冗談としか思えない話である。
額を滑るようにして、日吉の前髪がひと房流れた。
瞼を撫でたのか、穏やかだった眉がぴくりと震えた。
はっと我に返る。
身じろぎする日吉を見て、は見惚れていた自分にやっと気がついた。
ど、どどど、と胸中で「どうしよう」の単語を18回ほど噛んだ。
瞬時に身を翻して逃げるべきだったのかも知れない。
しかし椅子なんかにどっしりと腰掛けてしまったがゆえに、咄嗟に動くことが出来なかった。下手に立ち上がって、その物音で本格的に起こしてしまう事態を恐れたからだ。
結果、に何ができたかといえば、居眠りには居眠りで対抗するという実に姑息かつ底の浅い手段だった。
慌てふためいたせいで、突っ伏す際に机で顔面を強打した。ゴンと鈍い音がした。
すぐ横での蠢く気配。けれどもう目を開けて動向を確認することはできない。

願わくば、
そのまま日吉が再び眠りの淵へ落ちん事を!

の祈りは天に届けられることなく、隣からパイプ椅子が大きく弾んだ音がした。

驚いたのは目覚めた日吉である。
眠りから覚めて、朦朧と意識をかき分けながら顔を上げたら、見知った女性の寝顔があるのだ。一瞬で眠気が飛んだ。体も少し浮いたような気がした。その拍子で軋んだ椅子が鳴き声を上げ、日吉は思わず体と呼吸の動きを止めた。
いつから、なぜ、と必死で思い出してみても、眠る前の記憶に彼女の姿はない。しばし固まったのち、そうだ、ここには居たのは自分だけだったとようやく結論に辿り着いた。
そうなると余計に、「なぜ」の思いは強くなる。
マネージャーという立場を思えば、ここに出入りすることに不思議はない。
ただ、傍らで眠る意味がわからない。
用があるなら起こしてくれればいいものをとか、起きるまで待っててくれたのだろうかとか、もしかしなくても寝顔を見られたのではとか、ぶつ切りに思考して日吉は最後の部分で赤面した。
負けず嫌いも手伝って、こう思ってしまった。
――― 意趣返しに、寝顔のひとつでも観察してやろう
実際のところ寝顔の偽物をつかまされているにすぎないのだが、事情を知らぬ日吉が気付くわけもない。
優越感にひたりながら、瞼の下りたの顔を見やる。
ひとつ年上という事実のみで先輩という肩書を勝ち得た、粗忽で騒々しい人の、物静かな寝顔。
眠っているのだから、やかましいわけがない。
けれど、大人しく丸まってる姿がずいぶん小さく映った。
そう見えるのは、自分の体の成長がをとうに追い越したせいであると、今頃気付く。
ほら、たった一年の歳月の開きなど、なんの意味も制約もないよ、と囁かれている気がしてぎくりとした。
うっすらと暗がりに差し込む光が頬を白く照らしている。
体の構造は誰しも同じはずなのに、日吉にはその肌が恐ろしく柔らかに見えた。
無意識に、手が伸びた。
自分が何をしているか知ったのは、まさに指先が触れようとしたその時で、腕の筋肉がちぎれんばかりに己の手を引っ込めた。声なきアクションに付き従い、椅子がまたしても悲鳴を上げた。

一方、狸寝入り絶賛継続中のもまた、心穏やかではなかった。
自分のまいた種とはいえ、このもどかしい時間をどうしてくれようか。
てっきり日吉が覚醒した時点で、なに寝てるんですか邪魔ですと叩き起こされるものと思い込んでいたのだが、いくら待てどもひとつもお声がかからない。むしろ、起こさないよう注意を払っているのが空気でわかる。
それでも日吉が眠るに気を遣いながらも、作業に戻ってくれれば多少気が楽だったのだが、いやというほど気配を感じるのだ。息を殺していますよ、という気配を。そして矢のような視線を。
そんなに面白い顔をして寝ていただろうか。苦し紛れだった分、寝顔というか死体役みたいになっているのかも知れない。しかしこの顔ですでにスタートを切ってしまったのだから、今更修正するわけにはいかない。
寝顔の仮面の下で悶々としている間にも、感じる視線はますます強くなる。刺さる刺さる。
全身を包むちくちくとした感触に、いやな汗が額に滲んだ。
その時、再び隣の椅子から結構な騒音が響いた。
日吉の身に何が起きたのか閉じた瞳ではわかるはずもないが、狸の着ぐるみをそろそろ脱ぎたくなっていたにとっては好機だった。
ここぞとばかりに瞼を震わせ、大きく身じろぎする。
終劇のブザーを鳴らしてもらえないなら、自ら幕を下ろすしかない。
目が合ったら適当に笑ってごまかそうと算段して、は瞼を押し上げた。
ゴンッ
聞き覚えのある音ともに視界に入ったのは、日吉の目でも顔でもなく、何故か後頭部である。机に張り付くよう伏せっている後頭部である。
衝突音といい伏した態勢といい置かれた状況といい、デジャヴを覚えるこの光景。
は開いた目を更に大きく広げ、まさかの日吉寝たふり戦法に驚愕した。
日吉! 
お前!
ずっるう!
全身全霊で思った。
が、思いこそすれ当然声にできるわけもなく、更に言えば抗議できる立場にもないので、表情筋を極限まで歪ませるだけに留めた。
日吉は顔をこちらに見せないように、全力で首を向こうに曲げている。
身動きひとつしないあたりが逆にわざとらしいというか、固すぎて演技として失敗しているのだが、同罪にそれは突けない。
というか、これは起きられない。
起きたところで二代目狸寝入りを前に、一体なにをどう振舞えというのか。
狸の皮に気付かぬ振りをしたらいいのか、それともばりばりと剥げばいいのか。後者は残酷すぎて、とても手は下せない。さっきの自分が同じ目に遭わされたらと思うと羞恥で爆死する。
かといって素知らぬ顔を自然に演じる自信もにはない。日吉を下手と評したが、しょせんは己もほんの数分の寝顔を保ち続けられないような大根である。
幸い、が目を開けことを日吉は知らずにいる。このまま動かずにいれば、再び寝入ったと思うに違いない。
は脱ぎ捨てた狸の皮を負けじと被った。

二匹に増えた狸へ、白々しい静寂がプレッシャーとなってじりじりと迫って来る。
日吉はが寝入ったという確信を得るまで振り返れないであろうし、はいつ日吉が振り返るとも知れないので警戒を解けない。
は薄目を開けながら、起きろ起きろと呪いじみたコールを念じてみるが、日吉にはわずかの乱れもない。
表情は見えないものの、さぞや強張ってるだろうと容易に想像できる後ろ姿。こちらの一挙手一投足も逃さないとばかりに、アンテナ張り巡らされている。息苦しい。
この勝負……長く耐えきった方が勝者となる…!
一体なんの勝ち負けなのかもはや当人たちにもわからなくなっていたが、とにかく謎の緊張感に襲われていたのは事実であった。
枕代わりの片腕が重さに耐えかねそろそろ悲鳴を上げ始めた頃、遠くからやってくる足音を聞いた。
足音はまっすぐこの部室へと近付いて、物静かに扉を押す。
「誰か残っている者がいるのか」
訪れたのは榊だった。
狸二匹は一瞬身をすくませたが、今更飛び起きるわけにもいかない。それに幾分、ほっとする気持ちもあった。
情けない話だが、この終わりの見えない合戦も、監督の一喝で幕引きになるであろうと期待を寄せたのだ。
「ん。いるならば返事を、――」
達に気付いたらしい榊が歩み寄って、しかし彼の声とともにそれは一旦途切れた。少しの沈黙ののち、気配が近付く。
顔を上げたい衝動を必死で堪える両者の肩に、ほどなくふわりとした感触が降った。

毛布、かけられた。

不自然に乱れた寝息に気付きもせず、何事もなかったように気配は遠ざってゆく。
「監督の厳しさ」ではなく「お父さんの優しさ」をお見舞いされてしまった狸と狸は、いよいよ起きるタイミングを逃し、柔軟剤(ソフラン)の香りにくるまれながら静かに震えた。
雨はとうに止んでいた。