SSS

■罠(跡部)
■おいで(仁王)
■長い長い冬に凍える君へ(鳳)
■けもの(仁王)
■ボタン(幸村)
■鉛筆(日吉)
■永く、束の間の、(柳)(パラレル※人外設定)
■鳥を飼う話(柳)
■点と線(千石)
■似てる似てない(滝)
■ひとやすみ(跡部)
■楽園まで手を引いて(幸村)
■薬指(幸村)
■恋の味(柳)
■黙っておいてあげましょう(観月)
■理由(手塚)





















急に背後に立たれたことに驚いて「いやです」と言ってから跡部先輩は近づいてこなくなった。
あのとき何を思ってあんなことを言ってしまったのか、今になってもよくわからない。
いつも引き連れている樺地くんのせいで、これまで意識の端にも引っ掛けたことはなかったけれど、あれほどの傍で、息がかかるほどの距離に迫って、初めて体格の差というものを感じた。
見上げるほどの長身ではないし体つきも細身には違いないのに、誤魔化しのきかないその近さは、跡部先輩を自分とはまるで違う生き物のように見せた。生き物の分類は「男」。
私は知っている。知っていた。女とは思っていなかったから、十分に知っているつもりだった。
けれどその張り紙はばりばりと破かれた。誤った認識を取り下げろと言わんばかりに。
特別何をされたわけでもない、なんの前置きも脈絡もなく、背後を取られただけ。
ただ、それは単なる後輩の一人に取るにはあまりに近しく意味の深いもので、未知の感覚に私の背中は我知らず震えた。
空気もとけるようなあの低い声で、名前を呼ばれただけで竦み上がった。
拒絶、嫌悪、恐怖、どれでもない。
一番近いのはきっと動乱。跳ね上がった心臓をコントロールできなかった。甘く見ていた自分が恥ずかしかったのだ。
生徒会室は一人分の物音しかしない。
ほかには誰もいないことを確かめて、しばらく口もきいていない背中へと近づいた。
何を告げるべきか、言葉はどれも喉で引き返す。
できる限り気配を殺し、足音もなく滑るように歩いたはずなのに、背中はクッと忍び笑いに揺れた。
「やっとか」
せわしなく動いていた生徒会長の手は止まり、キーボードを叩く音もしない。けれど背中は振り向かない。
「いやなんじゃなかったか」
意趣返しだろうが、甘んじて受けるしかない。耳にかかったあの時の声を思い出した。
「いやじゃ、ないです」
ギッと椅子が身じろぎして、ようやく顔を見せた跡部先輩は意地悪そうに笑っていた。

「知ってる」



▲ モドル 








おいで



呆気に取られるほど近い距離で喉仏が動くのを見ていた。
血の繋がった家族とてこれほど間近に迫ったことなどここ数年記憶にない。
私の背は冬の窓ガラスにぴたりと張り付き、制服を通してそのひやりとした感触を知らされた。直で触れるのはさぞや冷たいだろうに、伸ばされた両の手は私の顔をまたぐようにしてガラス窓に押し付けられている。いや押し付けられているのは私自身だろうか。
私には理由がない。こういう仕打ちを受けるには身に覚えがなさすぎた。
仁王君との間に諍いがあったわけでも確執が生まれていたわけでもない。それどころか隣の席であるにも関わらず、目も合わせたことがない。
たまたま彼しかいない教室で帰り支度を整えていた時、何の前置きもなく、仁王君は窓と自分の間に私を閉じ込めてしまった。
視界の大部分を占める彼の皮膚は、規則正しくかつ獰猛に脈打っていた。
「こうも近づいてもだめかの」
動作は野性味すら感じる俊敏なものだったが、発せられる声からは怒気や物騒な気配は見えなかった。どちらかといえば動物が未知の存在に興味を持って鼻をヒクつかせているかのような。
「……あの、何が」
「こっち、見ようともせんの」
首をわずかにかしげる仕草が視界を掠る。
「えーと……癖というか、目を合わせるのが苦手で。仁王君だけじゃなくて、他の、男の人全般」
私は深く目を伏せた。
「なんていうか気恥ずかしくて」
異性の目を見て話すのが、昔から得意ではない。相手が人の目を奪うような麗人ならなおさら。
「見ても減るもんじゃなかよ」
頭上にあったはずのその麗人の面立ちが、ぐっと下がって私を覗き込んだ。こちらの心臓が目減りするということが、わからないのだろうか。色の薄い、三日月みたいな双眸にこれ以上監視されていたら、どうにか頬でせき止めていた赤みが爪の端までまわってしまいかねない。
「感じ悪かったならごめん。以後、気をつける。です」
そこで話にピリオドを打って、腕の隙間から巧みにすり抜けようとしたら、足がそれから先に進めなかった。
「おいで」
しっかりと捕まえられたカバンごとじりじりと引き寄せられて、再び迫る喉仏が笑った。

他は、そのまま見なくてよかよ。




▲ モドル


 





長い長い冬に凍える君へ


最低だ。なにもかも。
ノストラダムの予言も、マヤ歴の滅亡説もただのバカ騒ぎで終わらず的中してしまえば良かったのに。地球なんて真っ二つに割れてしまえば良かったのに。
落ちては重なり降っては消えて、シャーベット状になった雪がぐずぐずと靴の裏を濡らしていく。
こんな冬道を歩くような靴じゃない。底はぺったんこでまっさらで、悪路を往くことを知らない靴だ。濡れた道に滑り、とけかかった雪を跳ね上げ、体はもう凍えきっている。
薄っぺらいのは足元だけではなく、体に纏った上着もこの例年にない冷え込みに対抗するにはあまりに頼りなかった。
風が音を立てて通り抜けるたび肌という肌が縮こまった。新年の夜は私に優しくない。いや、いつだって夜は私に優しくない。朝も昼もすべての季節、優しかった試しはない。

寒々しいアパートの空気に飽きて、ふらりと外に出た。めでたくてたまらない新年も元旦も、テレビを消してしまえばただの祝日だ。出歩く人の姿が少ないだけで、夜の町にも代わり映えはなかった。
だから少しだけそれに救われて、冷たい夜風を吸い込む為に、いつもより遠くのコンビニを目指して早足で歩いた。普段通らないような道を選べばいいのに、染み込んだ習慣は人を機械のように動かす。足は自然と通勤と同じルートをたどって夜の町を進んだ。騒がしさはなかった。里帰りのせいか家の灯りは案外少なく、どこかひっそりとしていた。
大きなお屋敷の前を通る。散歩の帰りか、時々長身で銀髪の男の子が、大きな犬を連れてこの家に入っていくのを通勤の途中に見かける。たまに目が合うと、それはそれは快活におはようございますと挨拶をしてくれるので、その時だけ朝の憂鬱さは薄まる。
それ以外の朝は、ずうっと重たい。
出勤しようと靴に足を入れると胃が音もなく悲鳴をあげる。
行きたくない行きたくない行きたくない行きたくない。
思えば思うほど、その思考に追いつかれまいとして足が早く動いた。一度本当に行かなかったこともある。有給の呪文を行使して。けれど一日延命されたからといって事態は好転せず、私は翌日また行きたくない行きたくないの荷物を膨らませて会社に向かった。
行きたくない先には、会いたくない人がいた。
一度好意を持った分だけ、それが失せると顔を合わせるのすら苦痛になった。優しい人だった。優しいように見えた。自分にだけ優しい人だった。
愛の言葉を羽のように軽い舌の上にのせて、いくらでも安売りできる人だった。その人は私に永遠を誓いながら、別の女性との婚約指輪を薬指に光らせた。私は喫茶店で水をぶっかけることも、さめざめと泣くこともせず、ただ味も温度もなくなったコーヒーを一口飲んだ。

怒りと悲しみの出口がない。
泣き言をいうような相手もない。見渡せば周りにいるのは「友達」ではなくて、「知り合い」ばかりになっていた。目で追いきれないほど沢山の人の海は急ぐばかりで誰ひとり自分を気に留めることはない。自分もまた海流にのまれないよう泳ぐのに忙しく振り返ろうともしなかった。
電話口の母は心配のついでに、そうっと触れていく。
いい人はいるの?
私はいつもそんな暇ないよと喉につまったような声でへたくそに誤魔化した。母さん、いい人は悪い人になってしまったんですよくそったれ。
母の声は変わらず優しく、気持ちの優しい子に育つようにと注がれたあの頃の愛情を思い出す。
こころを優しく保つためには誰かの優しさが不可欠なのだと、この歳になって思い知った。
上京した頃、毎日はときめきと高揚に目がくらんで、新鮮なばかりだったのに。やがてその毎日は私の心を削り取っていった。

こんな日に神社に出向くなんて、どうかしていた。
ここまで来てしまったから、今年くらいは、と変な気を起こして足を伸ばしたのが間違いだったのか。
参拝客が集まる鳥居のずっと離れた場所でうずくまっているなんて、幸先悪いことこの上ない。
神様のおわす神聖なる場所に、寄り道程度の気持ちで顔をだしたからきっとバチが当たったのだろう。そうに違いない。そうでなきゃ、ポケットに押し込んでいた家の鍵をこんな灯りもひと気もないところに落とすわけがない。
雪がクッションの役割を果たしたのか、かしゃん、と金属の割には実におとなしい音で闇夜に消えた。鞄が重くなるのが嫌でキーホルダーの類をつけなかった私の鍵は、そのまま見えなくなった。
手探りでいくらさがしてもみつからない。その内、空気と雪の冷たさで手がかじかみ、思うように動かなくなった。
雪が降るくらいだ、今夜の冷え込みは厳しい。感覚を失いつつある両手に息を噴きかけてすり合わせる。何度も吐く息は煙ながら凍って、音もなく消えた。その間、雪はしんしんと降り続け、積もる速度が溶ける速度を追い越して地面を白く覆い始めた。ただでさえ見つからない落し物を、更に隠そうとするかのように。
切り裂いてもいいとさえ思って唇を強く噛んだ。
今年こそ。今年こそ。
新しい年を迎えるたび、どうか良い年になりますように、と何をもって良い年というのかわからないまま、いくらかの希望を抱いて目覚めた。けれどだんだんと、新しい年に対する期待値はへってゆき、元旦が来ようが年があけようが、また同じスタート地点に立たされているような気がした。
それでも鳥居が目に入った瞬間、今年こそ、と。そう思ったのに。
帰るに帰れず頼る友もなく、うすっぺらい靴から冷たい雪がしみこみ、神様にまで見離されて、本当に凍えそうになった。
万物を呪った。
「あの、どうかしました?」
呪いの為に閉じていたまぶたを開けると、闇夜に銀髪が光っていた。警戒させまいとしてか、少し離れたところで、大きな体躯に似つかわしくない小首をかしげるような仕草で。あの朝の、犬を連れた少年だとすぐにわかった。
私の顔を見るなり、彼は表情に親しみを載せて近づいてきた。
「朝、挨拶してくださる方ですよね?」
ええ、と私は朝と同じように会釈をした。認識されていたということに、少なからず驚いていた。きっとすれ違う人に全てに挨拶をする子なのだろうと思っていた。
彼は朝と同じように爽やかで礼儀正しくて、闇を飲み込むような誠実な目をしていた。
「おとしものですか?」
「はい、家の鍵を落としちゃって」
あははとわざと明るい笑い声を出して、深刻さを遠ざけた。惨めさに拍車をかけたくなかった。彼はそれは大変ですねと悲壮な顔をした。それは心から痛ましいという表情で、今までよく目にしてきた同情する素振りでも口ばかりの社交辞令でもなかった。私の呪いの魔力は半減した。
さらには、どのあたりですか? とその体をかがませたので、いよいよ呪っている場合ではなくなった。
「いやいや大丈夫! 初詣来たんでしょ?家族とか連れとか待たせてるんじゃない?」
「いえ、ちょっとお正月に食べ過ぎたんでジョギングがてら来たんです」
彼ははにかみつつウィンドブレーカーのファスナーを首のところまで上げた。白い肌の、その鼻のてっぺんが赤い。走れば確かに暖かろうが、止まっていれば体は冷える。ましてや今日は雪を降らせる寒波が空を覆って、格別に寒い夜だ。落とした本人でさえ、もう自棄になるくらいの。
「悪いよ、こんなに寒くてつらいのに」
凍る息を吐き出して私が言うと、彼は一瞬きょとんと丸い瞳を見せてから、
「寒くてつらいから、一人じゃなくて二人でさがすんですよ」
その方が早くみつかります、と笑った。

突然前が見えなくなった。
それは瞼を閉じたからではなくて、涙が視界を塗りつぶしてしまったせいだ。
声もなく、意思もなく、なんの覚悟も心構えもなく、どこか体の一部が壊れたみたいに涙は勝手に溢れ出て、冬の風で冷え切った頬を滝のように濡らしていく。
彼は私が泣いているのに気づくと、大きな体が不釣り合いなくらいにうろたえてオロオロして、よくわからない謝罪の言葉を繰り返した。その度に違う、違うのと私は大きく首を振った。
濁り、沈殿し、重みを増す泥の中でも、銀の髪は朝が訪れたように輝きを放っている。
眩しささえ備えた彼は同じ空間にありながら別の世界の住人と思っていた。大きなお屋敷だからでもない、自分よりうんと年下だからでもない、生まれたてのような笑顔を人に惜しみなく差し出せる、その美しい彼だけの持ち物が羨ましくて縁遠かったからだ。おとぎ話みたいだと決め付けていたからだ。
人に優しくできなくて、人に優しくされなくて、なにもかも面倒で、感情だけ遠く果てに投げてしまいたかった。薄ら寒くて手応えも握り返す感触もなにも得られないけれど、期待に希望をかさねて失望を手渡されるのはもういやだった。朝の「おはようございます」をご褒美みたいにショーケースに入れて、眺めるだけにしておきたかった。

触れてしまえばおしまいだ。
流れ出す。涙と一緒に。
彼のように、誰かの寒さをひょいっと引き受けるような強い心が欲しい、と。彼のような、なんの躊躇もなく誰かの為に心を砕ける、強い心を持つ人に傍にいて欲しい、と。
凍った心根を涙でとかしながら思った。




▲ モドル









けもの


にゃあ

 間延びした鳴き声を耳の端で拾った。そう遠くない、招くような誘うような生き物の甘えた音。備品を片付ける手を止め、耳を頼りに部室の裏手に回ると、それはほどなく見つかった。しなやかな体に長い尻尾をぶらさげた、獣と呼ぶには貫禄の足らない姿かたちは予想通り。ただ、もう一匹の獣に関しては予想通りとはいかなかった。
「仁王……」
 真っ白な毛に覆われた小さな獣は、爪を持たない大きな大きな獣に子供を万歳させるような手つきで抱えられている。ゆらゆらと尻尾が動くのに合わせて、尻尾みたいな銀髪が揺れた。
「なにしてんの」
「にゃあ」
 鳴いた。
 獣(大)が。

「さっきコートのそばで見つけてのう。真田や幸村の剛速球にでも当たったら大変じゃ」
 掴まれるように頭を撫でられ、白い獣は満足そうに目を細めた。パイプ椅子のクッションの上で、いささかの警戒心もなく満足そうに丸くなっている。借りてきた猫が嘘のようなくつろぎぶりだ。この野性味のかけらもなさ、間違いなくたっぷりと甘やかされた飼い猫だろう。
「どこからか脱走してきたのかな」
 あいにく猫の品種には詳しくない。高い安いおろかオスかメスかすら判断がつかないけれど、毛艶が美しいことだけはわかる。愛嬌があるというよりも、鼻筋の通った高貴な目鼻立ち。間違いなく美人に分類される顔つきだろう。さきほど部室に連れてきて机に座らせた時の、すっと置物のような横顔ときたら。
「仁王の分身かと思った」
「生き別れの弟かのう」
「弟なの? 妹でなく?」
「わからん」 
「投げやりな兄貴ですね」
 話しかけるように桃色の鼻先に口を寄せると、寝言みたいな「にゃあ」が聞こえた。かわいい……! とつい感嘆の声を上げると、そうじゃろかわいいじゃろ、と仁王が心持ち誇らしげに胸をそらす。
「うん猫かわいいね」
「俺もかわいいぜよ」
「猫はかわいい」
 これでもかとドヤ顔をさらしているであろう仁王の方に目をやることもなく猫を撫でると、毛と同系色の首輪に触れた。普通は毛色に映えるような色を選ぶものだが、わざわざ保護色を巻いておくとは珍しい。起こさぬように裏をめくると、飼い主と思われる住所と電話番号が見えた。
「やっぱり飼い猫だね。あとで連絡しよう」
 仁王はパイプ椅子を反対に座って、手すりに手をかけながらやる気なく頷いた。
「あれ、もしかして飼おうと思ってた?」
「いんや。お前さんこそ少しがっかりしとるじゃろ」
 思ってもみない返答に瞬きを落としたあと、白い毛並みを未練がましく撫でる。
「かわいいけど、犬猫はちょっと飼えないなあ」
「犬猫じゃなきゃええんかの」
「そうだね小鳥とか、小さいものなら」
「いや、もっと大きか」
 うん? と猫の寝顔から目を離して顔を上げると、仁王が何かを差し出していた。見ればそれはネクタイの先端で、当たり前だが仁王の首元までつながっている。首をかしげつつ、促されるままネクタイをつかむと、嬉しそうに大きな獣が鳴いた。
「にゃあ」




▲ モドル








ボタン


 袖口から千切れた時は音もなく落ちていったくせに、転がっていく勢いは怒涛だった。教室の一番端の席の、その足元にたどり着くほどのド根性。
 上履きのかかとに受けた、コツンとたわいない突進に幸村君はきちんと気が付いて、拾い上げたボタンをわざわざ私に届けてくれた。落ちたよ、と穏やかな笑顔付きで。正確にはぶっ飛んできたよ、というべき遠慮のなさである。彼は言葉に気を遣える人だ。
 ありがとう、と私ははにかみつつ、長い指からそれを受け取った。
 鉄砲玉のように飛んでいっただけでも格好悪いのに、取れたボタンを付け直すアイテムを持ち合わせておらず、友人たちにもそのような女子の嗜みを心得た者はなく、結局「俺持ってるよ」と申し出てくれた幸村君にソーイングセットを借り受け、私は恥の上塗りをする羽目になった。
 憂うべき女子力の低下をここに叫びたい。爪を磨く前に見えない部分を磨くべし。そう訴える私は爪すら磨いていないので女子力の平均点を下げに下げている主犯だけれど。
「妹にもらってたまたま持ってただけなんだ」
 完全に立場をなくした私に、幸村くんはまたも言葉を選び、微笑みを追加してくれた。
 持ち歩く習慣すらないくらいだ。当然、裁縫は得意な方じゃない。
 授業の合間の休み時間に手早く片付ける自信なんかあるはずもない。昼休み、危ういというほどでもないけれど、手馴れたとは到底言えない手つきで、私は教室の片隅で取れたボタンを縫い付けていた。
 俯いてブレザーの袖を覗き込む、その視界の端を、ころころと小さな影が横切った。上履きに触れたそれを拾って顔を上げると、ブレザーの二番目のボタンを失った幸村くんと目が合った。幸村くんにボタンを拾ってもらった時の私と同じような顔をしていた。
「手間かけてごめん」
「ううん、これでソーイングセットのお返しが出来るよ」
 とは口では言ったものの、私の稚拙な腕ではお返しになるかどうか怪しい。上着を私に託した幸村君は、昼休みの間だけ空席となった隣に腰掛けた。席の主の丸井君は今頃食堂で二回目の昼ごはんだろう。
 手元に、視線が注がれている。監視という強いものではなく、ただの観察でしかないのは柔らかな目元を見ればわかる。それでもじわりと緊張が指先に宿った。家庭科をもっと真面目にやっておけば良かった。
 軽やかとは言えない糸の動きに目を止めてか、幸村君がふと言った。
「少し、がっちりめにつけといて」
「がっちりめ?」
「うん、取れないように」
 確かにボタンをなくすと後々面倒だ。それならば、と自分の袖口よりも心持ち糸の巻き付けを増やして、縛り上げるようにくくりつけた。出来上がりを広げると、しっかり食らいついているものの、他のボタンと比べるとどこか曲がって不格好にうつる。頭に蘇る警報、女子力の低下。
「ありがとう。助かったよ」
 受け取った幸村君は躊躇なく袖を通してしまったけれど、私には恩を仇で返したような申し訳なさがあった。
「もし気になったら家でつけ直してもらって」
 手のひらに気後れとソーイングセットを乗せて返す。幸村くんはそれを手にとって「そんなことしないよ」と微笑みをこぼした。少し傾いたボタンすら魅力に思える姿にみとれて、私はぼうっと去っていく背中を見送った。
 もっと熱心に女子力を磨かなければ。そう、まずソーイングセットを持ち歩くことから。
 
 ほどなく、幸村君と入れ違いに丸井君が席へと戻ってきた。彼は教室から出ていこうとする幸村君を二度ほど振り返って振り返って、それからこっそりと耳打ちするように私に囁いた。
「ゆきむら、機嫌悪くなかったか?」
「え? いや全然、ふつうだったよ」
 私が首をかしげると、そうかあ、と丸井くんはガムを口の中で弄んで、
「昼に入る少し前に、廊下でボタンむしってたんだよな。だから虫の居所悪いんじゃねーかって」
 と、ふくらませた風船を割った。
 




▲ モドル








鉛筆

 
 鉛筆をナイフで削ると、集中力が増すのだと塾の先生が言った。
 鉛筆なんかほとんど使わないし、お気に入りのシャープペンは何本かペンケースに収まっていたけど、ここのところ成績が思わしくなかったから、おまじないに縋るみたいに飾り気のない深緑の鉛筆を買った。その時は気付かなかったけれど、角ばって生真面目な様子は前の席に座る背中を思わせた。普段し慣れないことはスムーズにいかない。おぼつかない手つきでカッターを動かしている内に、刃が指先を滑った。小さく呻くと、今までじっと本を読んでいた姿勢の良い背中が翻った。
「貸せよ」
 日吉君は鉛筆とカッターを言葉少なに取り上げて、滑らかに削りだした。上手だね、と感心するとお前が壊滅的に下手なんだと手元に視線を落としたまま、ぶっきらぼうな声が返った。体は細い方なのに、刃物を握る指がごつごつと筋張っているのが不思議だった。またたく間に三本削り終え、綺麗に整えられた鉛筆が私の元に転がって来た。芯の先はアイスピックみたいに尖っていて、初めて見た時の日吉君の目つきにそっくりだった。それを眺めながら「いい点とれるかな」と呟くと、「努力次第だな」と日吉君の目は使いこんだ鉛筆の先のように丸みを帯びた。




▲ モドル









永く、束の間の、
 
 早く大きくなりたいと私が言うと、「柳」はいつもほんの少し寂しそうな顔をした。風のない空に薄い雲がかかるような、ほんとうにかすかに。きっと私しか気づかないし、少し前の私なら気づいていなかった。

 「柳」は、神社の境内でしか会えない私の友達だ。
 初めて彼を見たのは小学生に上がる前。近所に年の近い子供はなく、いつも一人で遊んでいた。家の裏手の森を辛抱強く歩いて抜ければたどり着く小さな神社も、私の遊び場所のひとつだった。
 ある日鳥居の下で靴を飛ばして遊んでいたら、力いっぱい蹴り上げてしまって、私のお気に入りの赤い靴は行方をくらましてしまった。
 いいかい、鳥居の奥、神殿より先は行ってはいけないよ。
 祖母のいいつけを破ってしまった後ろめたさと静まり返った厳かな雰囲気に半べそをかきながら、靴を探し回っていた時、恐ろしく大きな木の裏から若い男が現れた。「これはお前のものか?」神官のような着物をまとった、そよ風にも似た低い声の。その手には、私の探していた靴があった。青年は「柳」と名乗った。
 靴を履いて、ようやくまともに立てるようになった私に、いつも一人なのかと柳は尋ねた。私はその通りだったのでこくりと頷いた。
 友達、いないの。
 友達はおろか、この近辺には民家すらない。家族以外で、私の相手をしてくれる子供も大人もいなかった。柳は、私の目をじっと見下ろしてから、「お前が寂しく思ったら、そのときは来るといい」とほろりと言葉を落とした。ただし、日が落ちる前であれば、だか、と付け加えて。
 人見知りをする私が、柳に対しては不思議と警戒心も居心地の悪さも、ちっとも湧かなかった。見知らぬ男の人に対する生々しさや本能的な怖さもなかった。
 それより友達が出来たことが嬉しかった。思い描いていた友達よりずっと大きくて、集めているおもちゃの指輪もお人形もぜんぜん似合いそうもなかったけれど、彼は私の初めての、唯一の友達だった。
 それからずっと、家族が留守で、好きなテレビがやっていなくて、絵本も全部読んでしまって、雨も雷も空を覆っていないときは、柳に会いに行った。
 柳はいつも私が鳥居の下で呼べば、どこからともなく現れた。彼には足音がない。風が木々を揺らしたかと思えば、いつの間にか私の後ろや横に微笑みを浮かべて立っていた。
 柳はいつも何をしているの?と聞いたことがある。この神社や町を守っているのだと彼は答えた。だから、きっと神主さんのようなお仕事をしているのだろうと幼い頭で納得した。
 柳は木や花について学者のように詳しくて、私にひとつひとつ丁寧に教えてくれた。時々難しくてわからない話もあったけれど、柳は私を馬鹿にしたりはしなかった。むしろ物覚えがいい、お前は賢いと、嘘なんか微塵もないような真面目な風情でもって私をたたえた。
 春になればシロツメクサで冠を作り、夏は境内で一番涼しい場所で昼寝をして、秋は柿が熟すのを楽しみに待ち、冬は霜柱を踏んで音楽を奏でた。
 季節を繰り返すその間、私はピカピカのランドセルを見せに行った。発表会のために下手くそなリコーダーを聞かせた。同じ年格好の、女の子の友達ができたことを報告した。中学校の制服をお披露目しに行った。
 年を経てゆく節目節目、必ず私は柳の元を訪れて様々な出来事や喜怒哀楽を静かに、時に大げさに伝えた。境内から出たことがないしこれからも出られないといつか語っていた友達に、自分の日常の一端でも届けたかった。柳はいつも声を荒げることなく揺らぐことなく、嵐や大雨にびくとしない神社の御神木のように、それを優しく受け止めた。私を慰めて励まして柔らかにたしなめる。柳はいつも、どんな時でも、変わらず。
 そう、柳は変わらなかった。
 若く見えるという次元を超えて、変化がない。
 人であれば抗えない、肌や顔かたちに重なってゆく年月が柳にはひとつも見られなかった。
 私にとっては過去になりつつある、靴を拾ってくれたあの日が、柳には昨日であったかのように。
 家の裏手から続く森は、すこし前に物騒だからと封鎖されてしまった。だから神社に来るときは、正面から、神様の入口みたいな石段をのぼらねばならない。昔はあんなに遠く果てしないと思っていた階段も、今の私の足なら難なく上がれる。子供の目線でなく、真正面から見る神殿はとても小さくて、宮司さんなんてこの神社にいないこと、私は多分とうに知っていた。
 スカートの裾が膝を撫でる。
 人生の節目を、私は神社のこの不思議な友達に報告してきた。今日は、春から進学する高校の制服を、見せるために訪れた。大きめに作ったせいで体には合わず袖は長い。不格好なのが不満で、つい言ってしまった。
 早く大きくなりたい。
 制服を見せたとき、柳はよく似合ってると笑った。でもその目が、少しだけ雨が降る空のように。
 その言葉を聞いた柳はまた、それと同じさみしい色をほのかに灯した。
 もう手のひらに収まらない私の靴を見下ろして、柳はいつもと同じ台詞を口にする。
「そう急がなくてもすぐだ」
 子供の頃、それは周囲の大人が言う言葉と同じ響きしか持っていなかった。
 ラブレターをもらったと明かした時。ばっさりと切った髪で会いに行った時。誕生日がやってきて、またひとつ年をとった時。柳の静かな眼差しには、口元には、声音には、塵ほどの怯えが潜んでいて。
 無言で手を伸ばした柳は、私の少し曲がったネクタイを手際よく整えた。写真におさめるように少し離れたところで私の姿を確認し、すうっと目を細める。もう隠そうともしない雨の気配が柳のまぶたの上に浮かぶ。
「……願わずとも時はあっという間にお前を攫う」
この世のものとは思えない美しい微笑みに、今度は私が泣きたくなった。




▲ モドル








鳥を飼う話

 
 面白みもない英語の羅列に、すっと影が落ちた。私が腰を下ろしているベンチ以外、開放的な環境のバス停付近に日除けになるものはない。首だけで振り仰ぐと、煙の中から現れたような佇まいの柳が立っていた。太鼓を叩きながら歩けとは言わないが、もっと五感が及ぶような、人間らしい現れ方をして欲しい。
「びっくりするから声くらいかけてください」
「集中していたようだから邪魔にならないように気を遣ったつもりだったが」
「余計気が散るわ」
 悪い、とさほど悪いと思っていないであろう口ぶりの柳は時計に目を落とした。半袖からさらけ出された腕は梅雨入り前だというのに、早くも強い日差しを物語るように色付き始めている。
「あと15分は来ないよ。行ったばっかりだから」
 私がたどり着いた時には、追いかける気力を削ぐ程度にバスの姿は遠くなっていた。いつもは遅れて来るくせに今日に限って定刻通りだ。柳の目が時刻表へ向く前にそう告げると「そうか」と柳は無感動に頷いた。私はベンチに放り出していた鞄を膝上に抱え込んで、空いたスペースを雑に叩いた。
「お隣どうぞ」
「では遠慮なく」
 柳は微笑み、縦に長い体を折りたたんで腰を下ろした。
 再び横文字と向き合った私が口の中で英単語をぶつぶつと並べていると、隣からページを覗き込む気配がした。
「熱心だな」
「明日の小テスト、そろそろまともな点数とらないとやばい」
 顔を上げることなく返事を返した。日頃からこつこつと積み重ねていればこんな寸暇も惜しんでテキストと向き合う必要もないのだろうが、いかんせん私には時間がない。同じ小テストが待ち受けているにも関わらず、なんの焦りも見られない隣の柳との温度差が、頭の出来を物語っているようで虚しくもある。残念ながら私の頭は網目の大きいザルにも似て、覚えた端からこぼれ落ちていく仕様だ。その鳥頭に単語をいくつか叩き込んで次のページに手をかけた時、何かを裂くような音がした。目だけで伺うと柳がチョコレート菓子の封を破いているところだった。
「買い食いですか」
「コンビニで電池を買ったらレジでくじを引かされた」
「あ、あれ当たったんだ」
 納得を引き連れて、私は再び目線をページへ戻した。柳は所作が美しいせいか、行儀の良い男という印象がある。かさかさと包装をほどく物音を片側の耳で拾いながら、柳がつまみ食いとは珍しい、とかすかな意外さを覚えていたところ、不意に何かが唇に当てられた。驚くと同時に、私の口は反射的に開いてぱくりとそれを迎え入れた。
「うまいか」
「……うん」
 舌の上に馴染み深い甘味が広がる。放り込まれたのはチョコレート菓子だった。言わずもがな、放り込んできたのは柳である。カカオの深みと旨みを存分に味わいながらも不可解そうに見上げると、柳は泰然と言った。
「おすそわけだ」
「そ、それは、どうも? ありがとう?」
 しどろもどろに礼をしつつ口の中のチョコレートを溶かし、飲み込む。それを見越したかのような絶妙なタイミングで柳は更にもう一粒、私の口に押し込んだ。
「脳を使うときには糖分が必要だろう」
「いや自分で食べられムグウ」
「テキストを持つのに手がふさがる」
 テキストは私の両手の自由を奪うほど重くもなければ巨大でもないし複雑な形状を成してもいない。が、言ってるそばから第三の刺客がやって来て、ワインに栓をするように私の声をご丁寧に塞いでいった。
 チョコレートは何の問題もなく美味である。おいしい。しかし食べ方のシステムが落ち着かない。気にせず英単語を覚えていろというのが先方の言い分だが、却って集中力が失われるのではないだろうか。三歩で忘れる鳥頭。歩くまでもなく、その指が触れるたびに、ぼろぼろと英単語が網目から落ちていく音がする。とはいえ、あまりにも柳が「間違ったことを言っているか?」という堂々とした風情なので、ふさわしい反論も特に浮かばず、ただ私は運ばれてくる菓子をひたすらにもぐもぐする咀嚼マシーンと化した。
「ん」
「あ」
 ラリーのごとく繰り返す内に、指が近づくと自動的に口が開くまでスムーズになっていた。慣れは怖い。ちらりと横目で伺うと、柳はなんだか楽しそうだ。意地が悪いのとは違う種類の微笑みが、口元をわずか持ち上げている。袋の中でだんだんと数を減らしていくチョコレート。おすそ分けと言った割に、柳はひとつも自分では食べていなかった。鳥頭どころではなく、これでは雛鳥だ。
「親鳥から餌もらってる気持ち」
 ぼそりと告げると、菓子をつまんだ指が止まった。細い目の端にからかいの色が混じる。
「この雛は警戒心に欠ける。親鳥としては心配が尽きない」
 首を捻った私を見て、柳は少し身を乗り出した。  
「疑いもなく差し出されたものをほいほいと口に入れるな」
 近づいた距離にぎょっとしたものの、それより柳の言葉に対する反応が勝った。餌を与えた当人が何を、と思わず憮然となる。
「相手くらい選ぶよ」
 なぜか柳の笑みが深くなる。菓子を携えた指が再び近づいて、閉じた私の唇を叩いた。逡巡もなく開いた隙間から、最後の一粒が忍び込んでくる。
「それは重畳。餌付けはうまくいきそうだな」
「餌付け」
「鷲でも文鳥でもまずは餌付けだ。信用を得るにはもっとも効率的かつ効果的だと思わないか」
 親鳥の目の端からは既にからかいの兆しは消えて、違う色が宿っていた。それが何を示すのかは、ぴよぴよと鳴くだけの鳥頭で雛鳥にはわからない。
「柳、鳥飼いたいの?」
「いやどちらかといえば」
 もうチョコレートは残っていないのに、思わせぶりに伸びた指が唇の輪郭を撫でていった。これ以上、記憶から英単語を消したくはないので柳の口から続けられた「お前を飼いたいかな」という台詞は聞かなかったことにする。




▲ モドル








点と線

 
 風呂から上がるとランプが点滅して、受信メールが二件。どちらも他愛ない、ジュース代返せとか明日朝練遅れるとか、そんな内容だった。返事が必要とも思えないが、身に付いたマメさが自動運転して、考えるより先に片手が文章を打ち込んでいた。絵文字顔文字をいくつか散らして滞りなく返信。音もなく画面が切り替わったところで放り出そうとして――思い直した。
 くるくると弄ぶようにアドレス帳に指で分け入る。ずらりと並ぶ友人家族そのほか知人、知人知人、溺れるほどの数。中には顔が思い浮かばない、関係性すら見いだせない、電話帳の底でうずくまるだけの名前もあった。それでも気まぐれを起こして番号を叩いたなら、曖昧さも希薄さも関係なく、電波は即座に届くだろう。目に見えない蜘蛛の糸だ。たぐり寄せれば繋がった先が見える。
 そう考えたとき、自分という点を無数の点が取り囲む光景が浮かんだ。点は夜空を与えられたようにそれぞれ瞬いていて、そのいくつもの点の間には関わりを示す線が引かれている。強度や太さはばらばらであっても、線は点と点を確かに結びつける。どんなにかすかで掠れていようとも、辿れば必ず手が届く。
 ふと指が止まった。そこにないはずの文字を、あぶり出すにも似た思いで画面をなぞる。五十音順で登録されるなら、きっとこの羅列の間に滑り込むであろうその名前。まだ自分と結ぶ線のない、点の名前。
 薄紙でくるんだ記憶を破り、薄い耳の淵にかかる黒髪がこぼれ落ちてくる。今日も視界のすぐ横でさらさらと揺れ動いてたそれは、触れたらさぞ柔らかく、指に力を入れることすら躊躇うほどに滑らかだろう。流れるひと房、ひと筋を、どんな思いで眺めているのかなんて、恐らく知るまい。常に絶やさぬ笑顔の下で、格好悪く身をすくませていることを彼女は知るまい。黒髪が縁取る横顔まで、距離にして数えればたった拳五つ分。いつもならきっと軽々と一歩でもって踏み込んでいるのに。
 横顔は冷徹ではない。呼びかければ睫毛を一度瞬かせて振り向き、目が合えばはにかむような微笑みに溶ける。その度に舌が錆び付いて「番号教えて?」のたったの一言が回らない。
 軽いやつだと思われたらつらいな。嫌われるのは、警戒されるのは、拒まれるのは、怖いな。
 伸ばそうとする意思が急に萎んで、近づきたい距離に手が届かない。点と線が密集して詰め込まれたアドレスの、一番埋めたい場所が埋まらない。近くて遠い。ちりちりとひりつきながら低く唸る胸の音を、「焦燥」と呼ぶのだと気がついたのはつい最近のこと。未だ線を引くことが出来ない点は、ままならない遥か先、一際大きく発光している。
 四角い画面を手の中で閉じた。同時に下ろした瞼の裏に夜空を描く。呼吸するように閃く点と点。夜と同じ色を宿した滑らかな髪が、臆病者の震えを撫でて拳五つ分の彼方へ去ってゆく。追いかけて縋れば、点と点は繋がるだろうか。それがどんなにか細く無様で頼りなくても。
 想いを浸した指先に願いを込めて、「どうか」「いつか」「届きますように」と自分の点から彼女の点へ、架空の空に線を引いた。



▲ モドル









似てる似てない


 
 髪を切ったら、期せずして滝と似たような髪型になった。
 私の髪質は周りからは羨ましがられ、当人からは若干疎ましく思われる程度に曲がったことが大嫌いなストレートだ。クセをつけてアレンジしようとも元の姿に戻りたいと一本一本が全力で駄々をこねて私を困らせるので、いっそのことぱっつんとおかっぱに切りそろえることにした。
 気がついたのは家を出る前、洗面台で櫛を通した時。あっ、これはちょっとした滝萩之介。長さといい、素直すぎる直毛といい、分け目は丁度逆だけれど、まるで滝を手本にしたような見事な仕上がりとなっております。
 まずいかな、と気に留めたのは一瞬で、すぐにまあいいか、とキッチンで牛乳を飲み干した。滝に悪い印象はない。おそろいだからといって、気が滅入る理由などひとつもない。せいぜい真似したみたいで気恥ずかしいと言ったところだが、むしろ彼については女子として見習ったほうが良い要素の宝庫である。 それにこの髪型を、清楚でよいと母は言った。お人形さんのようだと親の欲目を発動させた父も褒めた。友人たちにも概ね好評だった。
「いいじゃんかわいい」
「なんか滝くんぽくない?」
「あっ、やっぱり? 滝と似てるよね? 分け目だけ違うんだけどね?」
 だがクラスの男子は。
「髪型だけ似せても中身がなー」
 それは私もよく分かっていたことだったので、輪ゴム砲を3弾飛ばすだけで我慢した。

「どうしたのむくれて。あ、髪切ったね」
「……切りましたとも! わざとじゃないからね!」
 話題の人のお出ましに、私は両手の拳で机を叩いた。八つ当たりだと自覚はある。話が見えないのだろう、吠え出した私に滝はいささかのけぞった。
「えっ、なに?」
「図らずとも滝とおそろいになりましたが! 滝のように美しくなれるとか、思い上がっておりませんから……」
 しゅうしゅうと語尾が弱くなる。滝は首をかしげて、それから腰を下りながら座っている私に目線を合わせた。机の上に腕と顎を一緒に乗せて優しい眼差しが伺う。確かに、この綺麗なつくりをつかまえて似てるなど不遜極まりない。睫毛の数すら敵わない。
「なんか言われたの?」 
「髪型を似せても中身が全然違うと……」
 一度の瞬きのあと、納得をにじませて品の良い面立ちが頷いた。
「そうだね、全然違うね」
 ご本人様にそう言われてしまっては返す言葉がない。ぐ、と心がへし折られる寸前、滝は長い睫毛で囁くように私の顔を覗き込んだ。
「俺よりずっとかわいいもんね?」



▲ モドル








ひとやすみ


 
 生徒会室のソファは、たかだか学校の備品とするにはいかがなものかと思われるくらいの上質な贅沢品だ。腰を下ろした時の沈みが、抱き込まれるように心地いい。おそらく、教育には有害。なぜならば人の警戒心、集中力、緊張感その他もろもろを著しく奪うからだ。多くの教室の椅子が平たく硬いのも、窓からの西日が強烈すぎるのも、不快な刺激によって生徒を怠惰から遠ざける必要措置に違いない。そう、過ぎた癒しは時に毒。業務の黙々と進めることを義務付けられた場に、与えられればどうなるか ―― こうなる。
 跡部は目の前の健やかな寝息を見下ろした。ソファに体を囲まれた、つくりかけの資料とホッチキスを手に眠りこける女。周囲には筆記用具や紙がいくつも散らかって、とても快適とはいえない空間だが、その中心にある彼女は実に安らかだ。それぞれ右手左手を体に沿うように投げ出し、心持ちうつむき加減に寝顔を晒している。
「……おい」
 今日中にそれ片付けるんじゃなかったのか。控えめな呼びかけに、睫毛は健気に震えて応える。 
「う」
 ううぅぅ……
 わずか漏れた寝言混じりの声は、先細りして眠りの息遣いに飲み込まれていった。寝返りのつもりか首の角度が持ち上がり、見上げるように閉じた瞼が跡部を向いた。起きろ、と言いかけた声が思わず引っ込む。その代わりに腕が意思を持って伸びた。疲れたのか。寝てないのか。俺が来るまで待てなかったか。言葉にしない分を五本の指に乗せて、触れるより柔らかく髪を撫でた。そのまま、そっと慎重に手からホッチキスを取り上げ、散らばったプリントを拾い集める。
「貸しにしといてやるからな」
 寝息を肩にもたれかからせて、大きなブランケットに自分と眠る女の体を隠した。隣が起きた後の慌てる顔を想像しながら、跡部はホッチキスを動かし始めた。



▲ モドル








楽園まで手を引いて


 
 突風が吹いたのはほんの一度。けれど噛み付くように凶暴で、その一瞬のうちに下から上へ砂を巻き上げていった。すぐに目を閉じたものの、一歩遅かった。下ろした瞼の奥は、既にごろごろとした異物感が占めている。不快さに眉をしかめた幸村は、思わず身をかがめた。意思とは関係なく無防備な涙が押し寄せて、けれど砂を押し出すまでは至らず、うかつに目を開けられない。
 おぼつかない視界の中、身を預けるにふさわしい場所を求めて、手をさまよわせた。と、伸ばした手が何かをつかんだ。いや、捕まえられた。ぐっ、とほどよい強さで引き寄せられる。それは幸村のものより一回り小さく、比べ物にならないくらい柔らかかった。
「砂入った?」
 ずいぶんと近い場所でその声は耳に触れた。咄嗟に微笑んでしまいそうになるのをこらえて答える。
「うん、そうみたい」
 誰? という問いは、その時の幸村に必要ではなかった。尋ねるまでもない。生理的な涙が砂の一部を押し流した。
「目、洗いに行かないと」
「うん」
「このまま行ける?」
「うん、連れて行って」
 じゃあ行くよーと幸村の手の先がゆっくりと進んでいく。
 引っ張られるようにして、幸村は足を一歩、二歩と踏み出した。水飲み場まではそう距離はない。走ればあっという間。のんびりと歩けばその分長くなる。幸村は大げさなくらい慎重に足を運んだ。それを素直に受け取って、先導する彼女が亀も追い抜くような子供騙しのスピードで進む。それに合わせて、ゆるむ頬の上に砂を含んだ涙がいくつも通る。
「だいじょうぶ?」
「なんとか」
「目薬あれば良かったんだけど」
「そうだね」
 目薬がなくて良かったと、返事とは逆のことを思う。
 涙はどんどんと仕事を果たし、入り込んだ砂を洗い落としていく。その濡れた跡を、空いた片手で拭い去る。口元が微笑みの形をつくりそうになるのをこすって阻む。
 もう目の淵に粒の残っておらず、瞳を守る意味はないけれど、幸村は瞼を閉じたまま、つくりものの暗がりで手を引かれた。
 気遣うようにつながれた手は、強くもなく弱くもなく、知っている人肌よりもずっと温かくて、心臓そのもののように大きく脈打つ。 
「もうちょっとだから」
「うん。あのさ、もう少し」
「ん?」
「ゆっくり歩いてもらっていいかな」
「あ、ごめん。早かったか」
 うん、少しね、と自分を引く手にすがるように握る。
 ほんとは水飲み場まで千年くらいかかってもいいかな。
 先を行く彼女がいつ振り返っても見られないように、幸村はうつむいて歩いた。こらえきれない微笑みを地面だけに見せながら歩いた。



▲ モドル








薬指


 
 薬指を突き指した。
 どうして開始五秒で怪我するんだ、と呆れる体育教師に送り出され、向かった先には先客がいた。白いカーテンに白いシーツ、白い肌の幸村くんは保健室の空気に違和感なく溶け込んでいた。私が口を開く前にこちらに気がついた幸村くんは、指を押さえているのを見るや椅子へと促した。
「怪我?」
 確かめるような問いに頷きこたえ、私も尋ね返す。
「怪我?」
「俺は違うよ」
 頼まれて湿布をもらいに来ただけなんだ。幸村くんは微笑みを混ぜながら告げた。怪我の多い運動部ゆえか、慣れた手つきで湿布を切り分け、私の指に巻く。
「包帯はいらないよね」
「うん平気」
「バレーの授業でやったの?」
「ちょっと斬新なトスあげして」
 出来もしないことはやるものではない。誤魔化すための笑顔をつくった私とは逆に、幸村くんの目が気遣わしげに細くなった。
「しばらく痛むよ。不便だけど無理しないで」
「でもあんまり薬指活躍しないし」
 もちろん必要だから備わっているのだろうが、他の指に比べるとこれといった出番もなく、地味な存在に思える。私はじんじんと痛みを訴える指を見下ろした。
「大事な役目があるよ」
 心を覗きこんだような声が滑り込む。
「結婚式とかね」
「あーなるほど」
 場にそぐわないロマンチックな言葉も幸村くんの口から出るとしっくり馴染む。
「指輪かあ」
「そう、愛の誓いを受ける場所として」
「なんで薬指なんだろうね?」
「心臓に繋がってるからだっかな」
 へえ、と感心しながら私は負傷した左手をかかげた。その不恰好を笑いながら、幸村くんを仰ぎ見る。
「いまは指輪でなく湿布だけどね」
「いつか本物贈るから我慢して」
 瞬きを忘れた。
 仰ぎ見たまま思わず固まる。
 目を見開いている私を見て、我に返ったのか幸村くんは飲み込むように短く息を吸った。それから常に穏やかな彼にしては珍しく、信号機のようにせわしなくその顔色を赤や青に変えた。
「あ、いやごめん、冗談、今のなし 」
「え、うん? うん、ああ、わかた、大丈夫、気にしないで」
 たどたどしく言葉を千切って、下を向いたのは私が先か、幸村くんが先か。突き指の痛みも消し飛ぶぎこちない時間が通りぬける頃、手当てをしてくれた手がそうっと薬指に触れた。
「……やっぱりさっきの、なしにしないで」



▲ モドル








恋の味


 
 注がれた黒い液体は紙コップの八分目まで。ボタンを押せば、自動的に定量を満たすようになっている。砂糖は入れない。ミルクは半分だけ。くるくるとかき混ぜながら優雅な気持ちで席に戻った。食後の飲み物はゆっくりといただきたい。
 教室で済むところを、わざわざ弁当箱持参で食堂に来る理由はこのコーヒーだ。味は薄いしどことなくぬるいような気がするけれど、無料という正義の前にはささいな不満も立ち消える。
「隣いいか」
 注ぎたてのコーヒーに口を付ける直前、覚えのある声が耳に触れた。確認するまでもないが、反射で声の方を振り返る。
 私に呼びかけた柳はすでに引いた椅子に腰掛けるところで、かなりの近さで目が合った。
「今からお昼? 遅いね」
「いや食事は済ませた。教室はあまり読書に向かないだろう」
 ピーク時は混雑して座る場所も見つからないほどだが、昼休みも後半に差し掛かるとばらばらと校庭や教室へ散ってゆき、食堂はそれなりに静寂を取り戻す。逆に生徒が戻り集まる教室は騒がしさを増し、落ち着きは失われてゆくのだ。
「環境は重要だからな」
「なんだっけ、図書室より日当たりがいいんだっけ」
 柳はふっと目を細めて「そうだ」と応えた。
「良い条件が揃っている」
「ふうん」
 柳とは妙に食堂で顔を合わせることが多い。私は食べるのがあまり早くないせいで自然と食堂に長く居座ることになり、柳は読書の為にオアシスを求めてやってくる。いつか図書室じゃ駄目なのかと尋ねた時、日当たりが云々という答えが返ってきた。確かにどこか湿っぽい図書室よりも、この場所は温かく居心地がいい。
 隣に陣取った柳はテーブルに小難しそうな本だけでなく、手に収まるほどのポットを置いた。長く整った手が蓋を回し、器にうつす。どうやらそれはお茶のようで、ふんわりと良い香りが私の鼻の先をくすぐった。注ぐ所作の美しさも相まって実に美味しそうに見えた。
「飲んでみるか?」
 物欲しそうな顔をしていたのか熱く見つめすぎたのか、柳は勧めるようにして手にした器をこちらに差し出していた。思わずうんうんと頷く。
「ではお前のそれと交換だ」
 柳の指が私が持っていたコーヒーを差した。
「これ? 味うっすいよ?」
「たまにはいいだろう」
 口をつける前で良かった。
 ささやかに安堵しながら、私のぬるい無料のコーヒーと、柳持参のなんだかよくわからないが香り豊かなお茶(名前を聞いたが覚えられなかった)を交換した。
 立ち上る湯気に息をふきかけながら、ゆっくりと喉に迎える。苦味を覚悟していたのに、不思議なほどまろやかだった。
「口に合ったようだな」
 柳の口が微笑みの形をつくっている。
「うんおいしい。これはおいしい」
「それは良かった。何しろとっておきだからな」
「とっておき?」
 唇に微笑みを載せたまま柳は言った。
「媚薬入りだ」
 ブッッ
 危うく吹き出しかけた。目を白黒させながら見上げると、仏像かというほどに穏やかな面立ちがそこにあった。
「冗談だ。何も入れてなどいない」
 淡々とそう告げた柳は、何事もなかったようにコーヒーに口をつけた。そのまま半分ほど飲んだあと、ふと紙コップから唇を離して。
「俺の方には入っているようだが」
 ブッッ
 完全に吹き出した。ただでさえ乱れかけていた呼吸が完全に狂った。何か言おうにも言葉にならず、ただむせながら首を振る。
「入ってない? そうか不思議だな。相当の量を盛られたような気がするんだが」
 見下ろす柳の目は何もかも悟っているように澄み切って、ちっとも不思議そうには見えない。むしろうっすら微笑んでさえいた。私が息継ぎにも難儀しているというのに、笑みの色はどこか意地の悪く、それでいて妙な真剣味を孕んでいる。
 そういえば、柳は読書が目的のはずなのに、いつもあまり本を読んでいなかったな、と壊滅的なタイミングで気付いた。
「媚薬でなければ、これはなんなんだろうな」
 意味深に流し目を一つくれたあと、柳は薄いコーヒーをゆっくりと飲み干した。




▲ モドル









黙っておいてあげましょう


 
 たまには活字くらい読みなさい、と押し付けるように渡された新聞紙は少し日付が古かった。なんで新聞。自慢じゃないがテレビ欄くらいしか用がない。季節は春で、差し込む光もなんだか丸みを帯びている。この陽気を味方に昼寝ならまだしも、活字を相手にする気には到底慣れなかったけれど、放り出せばまたねちっこく詰られるのは目に見えていたので、小さな記事を適当に流し読みすることにした。が、早々につまづく。
 私は傍らで小難しそうな詩集を手にした観月をつついた。
「これなんて読む?」
 観月は本から目を離し、私の指が示す文字を追った。
「啓蟄です」
「けいちつ」
 ぴんと来ないままオウム返しにすると、観月はやれやれといった具合に頭を振った。
「無学ですね。冬を地中で越した虫が春に息吹を感じて外へと這い出てくる頃のことを言うんですよ」
 なんだか聞いたことがあるようなないような。私は曖昧にも理解した風に頷いた。
「たぶんほのぼのした言葉なんだろうけど虫が這い出てくるとか言うとちょっとやだね」
 少し意外そうに観月の片眉が上がった。
「おや? 虫が苦手なんですか」
「あんまり得意な人いないでしょ」
「あなたにしてはしおらしい事を」
 こ憎たらしい台詞を口にしてから、ふと観月が真顔になった。その視線が不自然に私に固定されている。私自身というよりも、私のどこか一点を注視している。そして観月は慎重に指を差し向けながら言った。
「肩に、虫が」
「えっ!?」
 どこ!?
 私は飛び上がらん勢いで立ち上がり、狂ったように両肩を叩いた。右肩なのか左肩なのか何の虫なのか何一つわからないまま闇雲に打ち払った。制服の中にはいられたらたまったものではない。
「とれた!? とれた!?」
 首を捻って背中を見せながら息も絶え絶えにそう問うと、観月は体を少し折りたたむようにして笑っていた。
「冗談です」
 声が少し掠れているのは笑いをこらえているせいか。口を拳で押さえつつ、顔を上げた観月の口角は持ち上がり、瞳には意地の悪い色が見える。
 一瞬呆気に取られたあと、わなわなと怒りに震える私を見て、観月は尚も楽しそうに目を細めた。
「春眠にとりつかれたような間の抜けた顔をしていたから、少し刺激を与えてあげようと思っただけですよ」
 目が覚めましたか? と観月は相当に乱れたであろう私の御髪をその指で直しながら。
「僕も鬼じゃありません。あなたが虫ごときでみっともなく取り乱したことは黙っておいてあげましょう」
 綺麗に整った顔が勝ち誇った表情を載せてがそう告げた。今更気づいたわけでもないがその見た目に反して性格が悪い。私はその高飛車な面構えに何か言いかけて、すぐに言葉にするのをやめた。視界に入ってしまったそれを、息を飲んで見つめる。 
「み、観月」
「なんです?」 
「むし、が」
 観月はひとつ瞬きを示したあと、すぐに鼻で笑った。
「その手は食いませんよ。意趣返しならもっと上手くやったらどうです」
「や、ほんとに、あたま、頭に蜘蛛、うわー動いた!!」
 嘘ではないと知るやいなや、観月は顔色を失くした。先ほど持ち得ていた余裕など四散させて、髪をかき乱しながらポップコーンのように跳ね回る。
 うわあ糸が! 糸が絡まる! 僕は蜘蛛が死ぬほど嫌いなんです! 早く取ってください! 早く! ちゃっちゃどすろ!
 観月が暴れて落ちたのか、請われるまま滅多に打ちにした私の手が払い落としたのか、それとも勝手に離れていったのか、やがて蜘蛛の姿は見えなくなった。残ったのは俯きがちに肩で息をする観月と隣で立ち尽くす私のみ。
 身だしなみにうるさいはずの観月の髪は、手加減なしで掻き回されたせいで無残に乱れている。
 私はそれに嫌味なくらい優しい手つきで触れながら囁いた。 
「虫ごときで、方言が飛び出すほど取り乱したことは黙っておいてあげましょう。虫ごときで」
 まろやかに優しい春の日和の中、「くっ」と悔しそうな音が聞こえた。



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理由



 ぶつかった衝撃の弱々しさを考えるに、すでにバランスは崩れていたのだと思う。ゆえにこの雪崩は私だけが原因ではない。これより以前に積み上げた者の仕事が杜撰だったのだ。
 そう自分に言い聞かせながら仁王立ちしたところで、目の前の惨状は変わらない。ほこりっぽい床の上で、角ばった箱たちが互いに折り重なって倒れ伏していた。
「蝶はここ一箇所にまとめて積んでおこう」
 手塚は散乱としかいいようのない状態の箱をひとつを手にとって、中身を眺めながら棚にならべた。箱の中には、美しい羽を持つ虫達がピンで縫い止められ整列している。
 第二理科準備室はあまり人が立ち入らないせいか、物置のように雑然としている。収納されている資料目当てに鍵を借りたはいいが、侵入して二分で棚から昆虫の標本が崩れ落ちてきた。特に授業で使う機会はないので、教師の個人的なコレクションなのかも知れないが、管理が悪く、更に数が多い。棚の高さとその量に恐れをなした私が助けを求めて廊下に出たところ、たまたま手塚が通りかかったのだった。
 手塚は何かと忙しい身だ。いつも誰かに頼られ、何らかの責務を背負わされている。なので、こんなしょうもない用で手を煩わせるのは気が引けたのだが、手塚はあっさりと頷いてくれた。
「悪いねー忙しいのに」
「気にしなくていい。好きでやってることだ」 
 応える声は淡々として、だが冷たさはない。手塚らしさがにじみ出ている。
 カブトムシの箱を集めながら、なるほどと私は腑に落ちた。今やこの部屋は、標本とはいえ虫、虫、虫の海だ。苦手な人なら五分も持たない。だが手塚は眉を動かすこともなく、せっせと作業にあたっている。彼が言ったように虫が好きなら納得だ。声をかけた際、積極的に応じてくれたのはそのせいだろう。
 色とりどりの羽を真剣に見つめていた横顔がこちらを向いた。
「そういえば資料はあったのか」
「うん」
 ほら、と言って私は目的の冊子を掲げてみせた。これを重なった書籍から引き抜いた時に態勢を崩して棚にぶつかった。おかげでこのざまである。
 手塚は資料の表面をじっくり眺めたあと、少し言いにくそうに口を開いた。
「それなら図書室で見たような気がするが」
「あっそうか図書室! そっち行けば良かったのか……ま、でも、いいか」
 無駄足無駄骨に一瞬肩を落としかけたが、今日図書室は閉まっている。一日早く課題を進められる、とそう前向きに思うことにしよう。うんうん、と一人相槌を打つ。ふと目を向けると手塚も同意するように頷いた。
「近道が正解とは限らない。現に今、こうして回り道でなければ得られない機会に恵まれた」
 相変わらず口調も表情も洗いたてのシーツのようにピンと引き締まっていたが、どことなく楽しげな気配が漂っている。確かにこういう場面でもない限り、奥に隠された標本を目にする機会はない。私はさして興味はないが、手塚が満たされのであれば、こんな辺鄙な場所で過ごす時間もそう悪くないように思えた。
「すごい早く終わったー! ありがとう!」
 手際の良い手塚の活躍で、ほどなく荒れ果てた準備室は綺麗に整えられた。乱雑に積まれていた標本も上等な古書のように整然と陳列されている。
 見違えた光景に嬉しくなった私はにこやかに手塚を見上げた。
「手塚が昆虫好きで助かったー」
 レンズの奥が不思議そうに瞬く。手塚はわずか首を傾げた。
「特に好きというわけでもないが」
「えっ」
 あれ。
「いや好きでやってるって、あれ?」
「ああ、それは、――」
 言いかけて、手塚は途中で口をつぐんだ。切れ長の、嘘やごまかしを含めない目が、虫を縫い止めるピンのように私を射抜いた。思わずよろけて棚にぶつかっても、もう標本は落ちて来なかった。




▲ モドル