もがいて 

         足掻いて


悩んで  

         学んで


恋の道は 

         甘く険しい


















 


カウンターの奥で、柔らかな日の光を浴びながら彼女はいつも本を読んでいた。
その横顔は真剣そのもので、思わず見惚れてしまったのを覚えている。
物静かで、凛としていて、聡明そうな。
図書室にたたずむ姿がこれほど絵になる人もいない。
入学したての1年坊がそんな憧れを抱いてしまうほど、その彼女は
――― 先輩は清楚な人だった
……ように見えた。

第一印象とは、恐ろしいほど当てにならないものらしい。
当初胸に抱いた淡い憧憬は、すぐに音を立てて崩れることになる。
多少緊張しながら、初めて彼女の当番日に本を借りようとカウンターへ近付いたあの日。
片思いはすべて思い込みで、虚像を作り上げて満足しているということに気付いてしまったあの日。
 
『違う』

日吉は目の前の光景に動揺し
『違う、違う、この人は違う』
思わず心で呟いてしまった。


清楚な人は「ウォーリー」見ながら、干し芋なんて食べない。
 
 
というか何故、この人よりよってウォーリーを?
そしてなんだって干し芋を?
大いなる混乱の波に呑まれ、凍りついたようにその場から動けない。
目の前が真っ白になるとは、なるほど、的確な表現だと日吉は実感してしまった。
カウンターの奥でリスのようにイモを頬張り必死でウォーリーを探すその姿には、もう白百合のような可憐さは欠片もなく。
かの憧れの図書室の君は、かくもあっさりと愚かな幻想を打ち砕いてくれた。

それでも彼女への繋がりを断ち切れなかったのは不思議としか言いようがない。
常々理想と掲げている、好ましい種類の女性であったからこそ惹かれたのだ、と。
そう理解しているつもりだったが、実は自分でも知らぬところで思わぬ力が働いていたらしい。
それを証拠に、2年へと進級後どういうわけか日吉は自ら「図書委員」を選んでしまった。

何の引力だ、これは。
無論、該当する事実はひとつしか存在しないのだが、まだ幼かった少年はなかなかそれに気付くことが出来なかった。
「水曜日の昼休み」という長くて短い時間を定期的に与えられるまで。
彼女の隣で冷静さを失う理由は自分の動悸の激しさだと知るまで。

本人にすら断りも入れず、ふいを付いて侵入してくるもの。
それが恋だということに。





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「なあ日吉、って誰?」
「…ッッ!…」

部活の連絡事項を伝えにきた鳳が、用件が済んだあと思い出したように尋ねてきた。 

「なっ…なんでお前が、」
「昨日、忍足先輩が言ってたんだよ。詳しくは日吉に聞いてみたらええわーって。なんか爆笑してた」

あのメガネ…!!どこで聞いた…!!?

今日は木曜。 
当たり前だが、その前は水曜。
しかも昨日はただの水曜日ではなかった。
彼女の言葉に揺り動かされ、つい衝動に身をまかせてしまった昼休み(こう言うと卑猥だ)
 
「で、誰?」
「…お前には関係ないだろ」
「うわ、なんだよ、そんな怖い顔しなくても…いいよ、部長に聞いてみる」

こ の 馬 鹿 や め ろ !

咄嗟に、背を向けた鳳の腕を掴んだ。
余計な相手に余計な情報を与えるのは避けたい。
しかし、忍足先輩が知っている時点で最悪な事態は想定できるが。
 
「…先輩だ…一緒に図書当番してる…」
「ちょっ…痛いって日吉!」

掴んだ手は無意識に力がこもっていたらしく、鳳は悲鳴を上げた。
悪いが握力には自信がある。
手を離すと、鳳は折れるかと思ったと軟弱なことを言いながら腕をさすった。

「…日吉の図書の先輩?それだけ?」
「それだけだ」

今までは。 
というか、昨日の当番時までは。
あれ以降…非常に微妙な関係なのだが、そこまで鳳に説明してやる気などない。

「そうか…じゃあ何で忍足先輩、あんなにニヤニヤしてたんだろう」
「季節の変わり目だからな」
 
今度手が滑ったフリして眼鏡めがけてラケットをブン投げてやろう、と固く誓う。
 
「おい、もう鐘が鳴るぞ」

これ以上あれこれ聞かれるのは御免だと思い、そう促すと「あっ、じゃあ帰るよ」と鳳は自分の教室へと戻って行った。
厄介払いが済んだことに安心して、思わず溜息がもれる。
そして同時に、自分の軽率さが脳裏に浮かび再び大きく息を吐いた。

想いを伝えたことに対しては、後悔などしていない。
照れや苛立ちに押されしかめっ面で自己防衛を図る己の不甲斐なさには辟易していたし、頬を朱に染めながら応えてくれた先輩の愛らしさは心を溶かした。 
ただ、場所がまずかった、場所が。 
閑散としていたとは言え誰が聞いているともわからない状況での、あのやり取り。
思い出すだけで顔から火が出そうだ。

しかし、いつまでもこんな風にうやむやにしておく気はない。
昨日はつい気まずさに負けて無言で時を過ごしてしまったが、再び先輩に挑む心積もりだ。
もっとも、彼女はあの時死ぬほど恥ずかしがっていたので、逃げてしまうかもしれないが。



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毎週食い入るように見ているくせに、先輩はウォーリー探しが下手だった。
並の遅さではない。
あそこまでいくと、一種の才能ではないだろうかと思うほど。
あまりにも酷いので見ていられず、日吉はヒントの言葉を時折降らせた。

「…いた!」

そして見つけた後、必ずといっていいほど彼女は日吉をきらきらとした瞳で見上げてくる。
その顔を目にしたとき、やはり当初のイメージとは大分違うのだということを改めて日吉は実感した。
彼女は清楚というより、子供のような人だった。
喜怒哀楽がすぐに顔に出るし、嘘がつけない。
たとえついても、瞬時にバレる。
そして何より、笑顔が特徴的だった。
控えめにニコリと微笑むのではなく、壊れそうなほど顔のパーツすべてを使って笑う。
文字通りに「破顔」するのだ。
静寂を好む図書室という空間には不似合いな表情だと思う。
おかしな話だ、と日吉は1人ごちる。
図書室がこれほど似合う人もいない、そう評したのは自分だというのに。
 
どこか古びていて、叙情的で、図書室の空気はいわばセピア色。
そして、彼女はそこへ作り付けの家具のようにピタリと溶け込んでいたはずだった。
しかし、それはもう過去のこと。
日吉が1年だった頃のこと。
それは錯覚であるとすぐに思い知らされた。
ならば、すぐに色あせてくすんでゆくはずなのに。
煙のように心の中から消えていって当然ではないか。
だが今や、そんな雰囲気などすべてぶち壊し、かの人は極彩色を放っている。
その居心地の悪さに、日吉は表情が硬くなるのを止められなかった。
なんて裏腹なことをしているのか、と思いながら。
自分の目がどうしてそれほど彼女を色鮮やかに映すのか、気付いていながら。

わかっていたつもりでも、やっぱりわかっていなかった。

辿り着くにはあまりに遠くて、思い通りに進めないもの。 
それが恋だということに。




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授業はすべて終り、もどかしさを抱えたまま教室を出た。
目指すは3年の居る3階。
正確には先輩の居る3階。
もう少し時間が欲しい、と逃げ腰だった彼女には申し訳ないが、これ以上はもう待てない。(昨日の今日なのに)
性格上、宙ぶらりんの状態を長く続けるのは無理がある。

もう一度、ちゃんと言わせてください。
もう一度…ちゃんと聞かせてください。

実のところ、後者が本音だ。
 
「お!日吉じゃん!」

階段の上から、聞き覚えのある声が落ちてきた。
 
「向日先輩…」

これから一大勝負だというのに、出鼻をくじかないで欲しい。
こちらの迷惑そうな顔などお構いなしに(いつものことだ)ぴょんぴょん飛び跳ねながら近付いてくる。

「なー日吉、って知ってる?」
「な…!」

鳳に引き続き、向日先輩まで。
どいつもこいつも、遠慮というものを知らない。

「侑士が言ってた」

忍 足 !!

もうテニスとかどうでもいい。
あのメガネを闇討ちする。

「ええ…ちょっとした知り合いです」

目も合わさずに向日先輩の横を通り過ぎ、階段を登りきる。
 
「ふーん?ま、いーや。じゃあ部活でな!」

わかったようなわかってないようなそんな声を背中で受け止めながら、早足で廊下を進んだ。
振り返る余裕など、残されていない。

「あ?日吉じゃねーか」
「ほんとだー3階に来るなんて珍Cー!」

珍しいのは、こんな時間に起きているアンタの方だと言ってやりたい。
どうしてテニス部の先輩は、次から次へと現れて行く手を阻むのだろう。
どうも、と適当に頭を下げてその場を立ち去ろうとしたその時。

「おい日吉、お前と知り合いか?」
「ええ知ってますがそれが何か!?」
 
繰り返される同じ質問に半ばキレ、目上だということも忘れて宍戸先輩を睨み飛ばしてしまった。
思ったより声に殺気がこもってしまったようで、明らかに先輩はひるんでいる。

「…い、いや…(なんでこんな怒ってんのコイツ!)」
「ヒヨシ怖!」
「宍戸先輩も忍足…先輩からなにか聞いたんですか」
「は、忍足?」
 
なんだそれ?と言いながら、宍戸先輩は芥川先輩と顔を見合わせた。
どうやらこの2人はまだ聞かされていないらしい。

「その忍足がなんとか、ってのは知らねぇけど…」
 
宍戸先輩はこれから部活に行く途中だったようで、バッグを廊下にドサリと置いた。

「部活休みだっただろ、昨日。俺は自主トレしようと思ってちょっと残ったんだけどよ…そしたらがコートに来て」
先輩が?!」

脈拍が一気に上がる。

「おう、日吉いないかって聞かれたんだよ。今日は練習休みだって言ったら、また明日来るって言ってたぜ」 
「もう行ったんじゃない?さんここにいないよー」

教室を覗き込んだ芥川先輩がそう言い終わる前に、足が動いていた。

先輩が、来た。
先輩が、コートに来た。
先輩が、俺に会いに来た。

「コート行ってきます…!」

そう言い残して、初めて全力で走る廊下の上。
 
『廊下は静かに』
生活目標の掲示物なんか、目にも入らなかった。

「カバンも何も持たねぇで…何しに部活行く気だよあいつ」
「テニスじゃないことは確かだねっ」
 
  
 
 
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『苦手なんだけど、それ以上に好きなんだよねー』


あの瞬間、心臓が大きく飛び跳ねる音を確かに聞いた。 
表情にこそ出なかったが日吉は大いに狼狽していた。
まるで自分の隠された本心を代弁されたかのような、その言葉。
本へ向いたまま彼女の横顔はいつも通りで、特に深い意味など込められていないことはすぐにわかったが。
それでも、日吉の奥底を貫いた。 
 
先輩は苦手だ。
 
傍に居ると、普段は感じない己の余裕の無さを思い知らされる。
それを誤魔化すかのように口をついて出る、冷たい物言い。
彼女の笑顔も正面から受け取れず、横目で盗み見るのが関の山だ。
いつも心がざわめきたって、武道で培った精神力などまるで役に立ちそうも無かった。  
平常心や、冷静さ、それを残らず剥ぎ取られてしまう。
必死に装ってはいたが、彼女の前では全て何もかもが吹き飛んでいた。
本当はこれっぽっちも落ち着いてなんていられなかった。
自分を守るものは何も無く。
ただ胸に灯るのは、どうしようもないほどの恋情。

ずいぶん前から気付いていた。
苦手なのは、自分が自分でいられないから。
自分が自分でいられないのは、相手を想う気持ちが抑えられないから。

鍵を握る少女からの言霊に後押しされ、少年はようやく謎の正体を知る。

理屈も理想もプライドも、何をもってしても抗えない。
それが恋だということに。



 
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先輩!」

レギュラー用のコートの隅でフェンスに寄りかかっている先輩の姿を見つけた。
見学するファンの多さに困惑を隠しきれないらしく、ずいぶんと小さくなっていた。
 
「日吉君」

先輩は驚いたように目を丸くする。 
心臓がけたたましい音を立てているのは、おそらく走ってきたせいだけではないだろう。 

「…そんな隅っこにいたら、探しにくいじゃないですか」
「ご、ごめん」

彼女は更に小さくなってしまった。
ああ違う。
謝らせたくて慌てて飛んできたわけじゃない。
もう頑なな殻は、破り捨てると決めたはずだ。

「昨日も来てくれてたって……宍戸先輩に聞きました」

うんでも休みだったんだよね、と先輩は照れくさそうに笑った。
 
「ありがとうございます」 
 
じれったい俺を急かすように、胸の鼓動が全身に響く。 

「俺に会うために来てくれて、ありがとうございます。すごく嬉しかったです」

耳まで赤くして、本で顔を隠していたほど恥ずかしがっていたのに。
逃げるどころか、彼女は自ら歩み寄ってくれた。 

「…今も、すごく嬉しいです」

昂ぶりを押さえて喋ったつもりだったが、声はわずかに震えてしまった。 
 
「私もすごく嬉しい」
 
日吉君が走ってきてくれて。

ああ、彼女が笑っている。
弾けんばかりの、あの子供のような笑顔で。
その時初めて俺は自分の額が汗で濡れている事を知った。
清楚だとか気品がどうだとか、そんな記号みたいな言葉でくくってしまえるほど気持ちは容易いものではないと教えてくれたひと。 
まぶしくて避け続けてきた臆病な自分に、光を求める勇気を分け与えてくれたひと。

なんでもいいんです。
愛読書がウォーリーだろうが、当番しながら干し芋食べようが、それで喉をつまらそうが。 
先輩なら、もう何でもいいんです。
 
先輩が好きです。ずっと好きでした」
 
 あなたでなければ、意味がない。
 
「今日から一緒に帰りませんか」

昨日の図書室で見たのと同じように真っ赤に茹で上がった先輩が、頷いたのを確認した後。
俺は初めて彼女の手を握った。

柔らかで、温かくて、小さくて。
手の平に広がりゆくぬくもりを感じながら
『いや、やっぱり先輩は清楚かも知れない』
などと思ってしまった俺は、現金な奴だろうか。




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こうして不器用な少年はやっとの思いで、恋を教えてくれた少女を手に入れることが出来たのである。
しかし、またしてもTPOに気を配るのを忘れてしまうあたり、若さというものの素晴らしさと迂闊さを感じずにはいられない。

目隠しされたように、周りが見えなくなってしまうもの。
それが恋だということを、彼は体を張って学び取った。

おかげでその後少年は、部活の仲間達より親愛と祝福の念が溢れる名称を与えられることとなる。


「おっ今日は早いな、恋の正レギュラー!
「とりあえず筋トレから始めろよ、恋の正レギュラー
「テニスのレギュラーの座はそうそう譲らないぞ、恋の正レギュラー!
「俺は日吉です!!」

図書室での仏頂面は無事解消されたが、その分部活中の眉間の皺がめっきり増えてしまった日吉若。

「部活の方も、恋の演武テニスで頑張らなアカンで!」

忍足の眼鏡が恋の正拳突きによって砕け散ったかどうかは、とりあえず秘密である。





お誕生日おめでとう日吉!
とてもとても愛してます。