「あんた、なんで居るんですか」
扉の向こうから現れた思いがけない顔に目を丸くする暇もなくは面食らった。
世の中には第一声としてもっとふさわしい言葉があるはずだが、出会い頭に眼前の男が食らわしてきた台詞がこれだ。
男子トイレで遭遇したわけでも押入れで発見されたわけでもなく、顔を合わせたのは三年の教室である。まさか自分のクラスにいるだけで糾弾されるとは夢にも思わなかった。それも、一つ下の階の住人である後輩から。
本来なら、どうしたのかとこちらが聞くべき立場にある。が、初っ端から一太刀浴びせられたは力なく口をぱくぱくと動かした。
「なんでって、三年生だからね」
「そういうことじゃないんですよ」
忌々しそうに顔を背けた後輩
――日吉の口から、チッと小さな音が漏れた。
舌打ち!
ぱくぱく開閉を繰り返していたの口は完全オープンの状態に突入した。そこへ畳み掛けるように日吉は鋭い眼光を浴びせてきた。
「まさか部活出る気じゃないでしょうね」
「そりゃ来たからには出るよ」
「来ないで下さい」
「はあ?」
腹の底から発せられた分、存外大きな声になった。には目の前の後輩が一体何を言い出したのか全く理解できない。
心霊現象やら怪談やらに執心するあまり良からぬものに憑かれたのではないかと疑いすら湧いた。心なしかいつも以上に人相が悪い。目つきなんぞ刺し違えてでも首級をあげんとする猛将のそれである。
「今日は来るなと言ってるんです」
尖った視線をゆるめもせず、怨念の武者は尚も斬り捨てた。
「旅の疲れもあるでしょう、まっすぐ帰って休んだ方が身の為じゃないですか。帰るべきです帰ってください」
遠方に住む母方の祖父の危篤を知らされたのが一昨日の昼。すぐに学校を早退したは家族と共にその日の便で飛んだが、土壇場で根性をみせた祖父は奇跡的に意識を取り戻し、医者に脈を取られながらパチンコ行きてえ等とぼやくまでに持ち直した。葬儀を執り行う覚悟で駆けつけたはずが、結果としてはただ見舞いに来ましたという形になり、当初の滞在予定を大幅に短縮して昨日帰宅の途についた次第である。
確かに電車に飛行機にとずいぶん長い時間拘束されはしたものの、その移動手段の全てで爆睡していた為に普段よりむしろ睡眠は満ち足りており、疲れはほとんど残っていない。それはエネルギー溢れる血色の良さを見ればおのずと伝わるはずである。
しかし日吉は目に入らないのかそれとも気づかぬ振りなのか、なにをどう言っても帰れの一点張りで、まるで聞く耳を持とうとはしない。
いいですか、絶対に来ないで下さいよ。
そう何度も言い含め、最後の瞬間までひと睨みの置き土産でに念を押した。
「お、日吉来たか」
帰り際、ついでのように押し付けられた練習メニューを嬉々として向日が横から取り上げた。その様子から日吉が誰を訪ねてきたかを悟ることができたものの、最早そんなことはにとってどうでも良かった。
上陸した途端木々をなぎ倒してあっという間に去っていった嵐の後には、人はただ混乱するしかない。
「どした?」
扉に張り付いた姿を訝しそうに見咎められ、は覇気なく振り返った。
「……私が休んでる間に日吉さあ、」
ぐっと顔に力を入れ、真剣な眼差しで迫る。
「お札怖がったり塩を避けたりとかしてなかった……?」
「何言ってんだお前」
阿呆を見るような目で一蹴した向日は、それよか土産くれと無邪気に手を突き出した。


日吉という後輩はあまり愛嬌のある方ではない、というか愛想というものを根こそぎ削ぎ落としてきた感がある。同学年にラブ&ピースの申し子のような鳳がいるだけにその性質はより際立つ。言うなれば花畑と沼地。当初一部の部内で、物音を立てずに現われる油断ならない新入生がいると噂になったりした。
しかし目つきは悪くとも別に根性が悪いわけではなく、に対しても度々小生意気なことは言うが、それなりに先輩として敬ってくれていたし、誕生日に抹茶味の小さなチョコレートを押し付けるようしてくれたこともある。
思いがけない贈り物にもびっくりしたが、なにより誕生日を覚えてくれていたことに驚いた。何かしら祝ってくれる他の部員を見て、義務感からそうしてくれただけに過ぎないかも知れないが、それでもはとても嬉しかった。
勿論あの性格だから、これまでも何度か邪険にされたり突っぱねられたりすることはあったものの、そこには照れや強がりという可愛らしいものが見え隠れしていた。
だがしかし、今回は一分の隙もない完全無欠の拒絶である。
怨霊に乗っ取られていないなら、日吉の身に一体なにがあったというのか。年頃を考えると反抗期を迎える時期であるし、やはり色々と難しいものなのだろうか。は自分も同じ時期を迎えていることを忘れ、ううむと首をひねった。そして、反抗期の少年が陥りがちな穴に思い至りハッとした。
「ぐれた……?」
「え?」
電卓を叩く手を止めて滝が顔を上げた。
「あ、ごめん。こっちまだ終ってない」
いやそれはいいんだけど、と滝はそのまま軽快に電卓を打ち鳴らし、表示された数字をメモにとった。
あれだけ帰れコールを浴びせられながらも、は結局部活に出ることにした。そもそもにだって一応予定というものがある。
今朝玄関で滝と顔を合わせた際、領収書の整理をしようという話になっていたし、部員に配ろうと買ってきた土産は日持ちがしない。それに何より、いくら強面で脅されたからといって、後輩の言いなりになっておめおめ引き下がっては先輩としての沽券に関わる。
ぐしゃぐしゃに丸められたレシートに必死で拳のアイロンをかけていると、滝は電卓を脇に寄せ、それで?と頬杖をついた。
「ぐれたって誰の話?」
促されるまま、目の前で披露された無礼の連続技について、身振り手振りでは飽き足らず日吉の物真似まで交えて熱心に語って聞かせた(物真似は10点満点の2点というなかなかにシビアな評価を受けた)
「原因はなんなんだろう。あれかな、ちょくちょく目にする跡部の私服がストレスだったのかな」
それとも常に音程の外れた宍戸の鼻歌が、とは頭を抱えた。
物心ついた頃から古武術なるものをしこまれてきたと聞く。なまじ腕っ節が強いだけに、喧嘩を売ったり買ったりチーム同士の抗争に巻き込まれたりして、どんどん深みにはまっていくかも知れない。最悪、コート上ではなく、血なまぐさい組織による血なまぐさい下剋上に発展してしまう恐れは充分にある。可愛い後輩を引きずり込もうとする深い闇には青ざめた。
「どうしよう滝ノ介、このままじゃ日吉は地元じゃ負け知らずに」
「うんとりあえず落ち着こうか。滝ノ介って誰だ」


滝がくれたお茶は凍ってるのかと疑うほど冷えていた。指を痺れさせながら蓋を思い切りよく開け、ぐいぐいと飲んだ。
が想像力逞しく唱えた日吉非行説は、滝の「日吉に限ってありえない」の一言で片付けられた。
不思議なもので、そうきっぱりと言い切れられれば、さっきあれほどの盛り上がりを見せたのものが嘘のように沈静化した。確かに日吉に限って有り得ない話だ。万が一悪の道に走るようなことがあったとしても、日吉より更に腕が立つという兄や父や祖父らの拳が火を噴いて更生へと導くだろう。普通に考えればたやすく行き着きそうなものだが、どうやら不安や迷いというものは活性化すると判断力を奪う働きをするらしい。
しかしこうなるといよいよもって謎は深まる。何が狙いであの態度か。ただ単にむしゃくしゃしていたのか。八つ当たりか。そもそもどうしてこんなに自分が振り回されねばならんのかと、ふつふつ怒りが湧いてきた。
なんだよ日吉の奴め、たった一つでも年上に対してその口の利き方はないんじゃないか。これまでの恩を忘れたか。もっとも恩を売ってやった覚えもないのだが。
陰気な声でぶつぶつと恨み事を呟いていると、ふうと息が吐かれる気配がした。
「多分ね、はちょっと帰ってくるのが早すぎたんだよ」
え、と思わず顔を上げる。それに構わず、滝は言葉を続けた。
「まさかたった2日で戻ってくるとは思わなかったんじゃないかな」
は目をしばたかせた。
滝は何らかの事情を知っているらしい。それならさっさと教えてくれても良さそうだが、彼の性格上、自分からベラベラと包み隠さず喋ることはないだろう。
「なに、早く帰ってきちゃまずかったの?」
「いやおじい様がご無事だったのは何より喜ぶべきことだし、に非はないよ」
ただタイミングが悪かったね、と手にしているのがペットボトルだとは信じがたい優雅さでお茶をすすった。
「今日じゃなく明日なら丸く治まってたんだろうけど」
苦笑いを見せた滝の正面で、は眉間に皺を寄せた。
滝の言葉は謎かけのようで、うまく繋ぎ合わせないと意味をなさない。正直、繋ぎ合わせても意味不明。
ヒントを寄越しているつもりなのだろうが、解けるどころか疑問符が増えるばかりでゴールがますます遠ざかってゆく。としてはもうこれだけ悩んでいるわけだから、なぜ早く帰ってきてはならなかったのか、その理由がストレートに知りたい。
その思いを口に出そうとしたが、
「ちょっとそこの領収書取って」
「あ、え、はい」
急に冷静な口調で命じられ、一気に勢いを削がれた。
滝は領収書の束を受け取るとざっと目を通し、手早く"済"の判子を押し始めた。
黙々と作業に勤しむ会計係に未練がましい視線を送ったが、真面目な仕事振りを咎めるわけにもいかず、かといって謎を目の前にぶらさげられたまま作業に戻る気にもなれず、は日吉の放った拒絶の言葉を思い出していた。
来ないで下さい。
憤りはしぼんだが、その代わり薄っすらとした寂しさが残った。
判を押し終わったのか、滝はクリップで止めた束をファイルポケットに落とした。そして、おもむろにに向き直った。神妙な顔をしている。さ、と滝は身を乗り出すようにして机の上で手を組んだ。
「……日吉が目悪いこと知ってた?」
「えっ知らない。そうなの?」
初耳だったので純粋に驚いた。が、ついに本題かと身構えた分、脱力もした。
滝は頷いて、俺も昨日知ったばかりだけどね、と付け加えた。
「ずっとコンタクトだったらしいよ」
「そうなんだ」
「気付かなかったよね」
「うん全然」
素直に相槌を打ち続けたものの、未だこの話がどう関係するのかまるで見えて来ない。
「で、その日吉のコンタクトが割れちゃったと」
「うん、それで?」
「代わりを買おうにも、残念ながら在庫がなかった」
「うん、だから?」
「取り寄せしてもらったけど、今日の夕方まで届かないんだってさ。そういうこと」
どういうこと?!とが詰め寄ろうとした時、部室の扉が開いた。
咄嗟に顔を向けたにも関わらず、反応が遅れたのは一瞬誰かわからなかったからだ。見慣れたレギュラージャージの上に、見慣れない重たげで野暮ったい黒縁の眼鏡。それが、たった今話題を独占していた張本人であると気付くまでに若干時間を要した。
即座に対応できなかったのは向こうも同じようで、ドアノブを掴んだままの格好で少しの間静止していた。
しかし互いの目と目が合った数秒後、沸騰したように顔を真っ赤にした日吉は剥がんばかりの勢いで眼鏡を取った。
「来るなっていったじゃないですか!」
そう叫ぶや否や身を翻し、猛然とグランドへと駆け出した。
いついかなる時も颯爽とすました背中が、今や賑やかなまでにどたばたと取り乱している。感情に任せてやみくもに走り去る後姿は、着地の失敗を見られその場から逃走する猫をほうふつとさせた。
呆気に取られ、腰を中途半端を浮かせたままがそれを見送っていると、クッと噴出すような音がした。
「気にするほど変じゃないって……何度も言ったんだけどね」
振向くと、滝がすくめた肩を震わせていた。
ぽかんとするを置いてけぼりにして一人こみ上げる笑いと戦っていた滝は、なんとか衝動を抑えてその顔を上げた。攻防戦の名残か、口元はかすかにほころんでいる。
ゆっくりに目をやって、子供を説き伏せるようなそれはそれは優しい声で言った。
許してやりな。
「男には絶対かっこ悪いとこ見せたくない相手っているもんなんだよ」
一旦引いた波が戻ってきたのか、再び滝は顔を伏せて小刻みに肩を揺らし出した。






日吉は眼鏡をかけた自分の姿に納得してない気がします