知恵だとか勇気だとか運だとか生きてゆく上で必要とされるものは数々あるけれど、最も重要なのは勢いではないだろうか。 頭がねじ切れるほど悩んで導き出した結論を瞬間的な思いつきが難なく飛び越してしまったりするのはよくあることだし、父と母もかつては半ばその場の盛り上がりで婚姻届に判を押したという。はずみの結果が自分かと思うと少しばかり複雑な心境だが、おそらく人生を切り替えるスイッチはどこか思いも寄らぬ時と場所で唐突に入るものなのだろうと思う。 かくいう私も、ことの引き金はそんな大層なものじゃなかった。夜更けに、テレビから流れていた若き実業家のインタビューを見た、ただそれだけのことだ。 途中からだったので具体的に何を為して成功したかという肝心な部分は最後までわからずじまいだったが、彼の語る言葉には妙な熱気があった。世界と渡り合っている自信からか、とにかくやたらめったら前向きで、10秒に一度はチャレンジと言っていたような気がする。 別に私は起業の夢も抱いたこともなければ業界に革命をといった野心もない。が、もとより流されやすい性質を持つ上、その日は自分なりに思うところのあるそれなりに特別な一日で、言うなればほんの微風でも全開にはためく鯉のぼりみたいな状態だったわけだ。鯉のぼりがチャレンジ教の信徒となるのに、そう時間はかからなかった。 いつもは何事にも小さなつづらを選ぶような無難な方針で生きている癖に、この時ばかりはにわか仕込みのプラス思考のおかげでビッグな方のつづらをよこせと声高に言える気の大きさを得ていた。 巷でよく耳にする、酒の力を借りる気持ちというものが少しばかりわかったような気がする。私も完全にポジティブという名のアルコールを飲まされて、矢でも鉄砲でも持ってこいという気になっていたのだ。 自分で食べてしまうつもりだったのに、翌朝一日遅れで靴箱に押し込むなんて行動に出てしまったのも、ポジティブの神に魅入られていたからに他ならない。とはいえ魅入られながらも、しっかりチョコレートは匿名のあたり実に私らしい弱腰さである。 だがそれで充分だった。終ってしまったバレンタインを取り戻そうという気は毛頭ない。 とにかく私にとっては自分から動いたという積極的な行動こそがレボリューションであり最重要で、要するに自己満足の世界だった。その先のことなんて何ひとつ考えちゃいなかったのだ。 だから玄関で木手を見た時も、待ち伏せの相手が自分とは夢にも思わなかった。 バイバーイと通り過ぎようとした私を、木手はお待ちなさいよと襟首を掴んで引き止めた。 六時間も授業を受けている内に神も去り、すでにチャレンジ教から脱退しつつあった私は木手に待たれる意味が本気でわからず、ぐえっと呻いた。 「醜い声出すんじゃありませんよ」 「首が…ギュッと…」 「止まらないからでしょう。なに帰ろうとしてるの」 下校時間に帰宅する行為をなぜ非難されねばならんのか。 しかし木手が大罪であるとでも言わんばかりの気迫で迫ってくるので正論もかき消える。 観念した私は背を下駄箱に預け、なんでしょうかという顔で木手を見た。が、木手は腕を組み、こっちが口を開くのを待つような姿勢でじっと見つめ返してくる。 私達はしばし言葉もなく見つめ合った。 と言うと、ほわほわとピンク色で縁取られそうな雰囲気に受け取られそうだが、実際のところ艶っぽさなんぞ微塵もないただのガンの飛ばしあいだった。 よほど木手が恐ろしいのだろう、下校しようと私達のそばを通りかかる生徒が皆一様に見て見ぬふりをしてそそくさと去ってゆく。その競歩のごとき俊敏な足運びに、関わりたくねえという彼らの胸の内が色濃く表れていた。 しかし誰よりも走り去りたい心境なのは当然だがこの私である。殺し屋相手にメンチ切ったところで勝てるわけないだろう。 「弱い者いじめはよくないと思います」 「弱い者ってまさか君のことじゃないでしょうね。ああもしや頭のことですか、それなら納得がいきます」 「うわイラッと来た。やっぱり帰らせて頂きます」 「なにか俺に言うことあるでしょう」 踵を返しかけた足がぴたりと止まる。 バレないと思っていたイタズラが見つかった時のように、底の方からじわじわと嫌な予感が押し上がってあがってきた。まさか。まさかな。まさかだよ。ハハハ。脳内で懸命に己を励まそうとするも、笑い声はどうにも掠れている。 それでも動揺を悟られまいと私は努めて平静に振舞っていた。 しかし木手が鞄からそれを取り出した瞬間、潮が引くように顔から余裕が消え去った。 皺が目立つブルーのチェック模様の上でひきつりながら巻きつく白いリボン。 まぎれもなく私が手ずからラッピングまでほどこしたチョコレートだった。 もちろん今朝この手で木手の靴箱に突っ込んできたのだから、木手本人が持っているのは当然である。が、しかし、それを手にしつつ私を引き止めるのは決して当然の行為ではない。あってはならないと言ってもいい。 私の口からは、なんで、と知らずに掠れた声が出ていた。 「なんでって」 数学の答え合わせでもするような涼しい顔で木手は言った。 「持って来てたでしょう」 確かにバレンタイン当日に私は密かに持って来ていた。結局渡すことなくお持ち帰りとなったわけだが。 しかし、なぜそれを木手が知っている? 「昨日さんの机からはみ出してましたよ。そっくりこれと同じものが」 これ、の部分で包装紙にくるまれた見覚えのありすぎる代物がずいと近づけられた。刑事(と書いてデカと読む)が容疑者の顔面にライトを押し当て自白を迫っている場面が脳裏をよぎる。 「見間違うものですか。このいびつなリボンの結び目、明らかに何度も包み直された跡が残る包装紙…」 そこで私はギャーと叫び、たまらず顔を手で覆った。 迫ってくる例えようもない恥ずかしさが目の前で爆発炎上し、本気で死ぬと思ったし死にたいとも思った。 「なんで見ちゃうんだよ!のぞきはやめろ!プライバシー侵害!ストップ盗撮!」 お黙りなさいよと木手はハブを捕らえるのにも似た俊敏な動きで声を塞いだ。行き所を失ったシャウトの数々が虚しく口内で反響する。 「人聞きの悪い言い方はよしてもらえませんか。別にこっちは見ようとして見たわけじゃない。そういうガサツな入れ方をした君にこそ落ち度があるんじゃないですか」 「ウググゥ」 一応ちくしょうと発音したつもりだったがただの呻きになった。明確に意思を伝える手段を取り上げられた私は、恨みがましいようないたたまれないような目で木手を糾弾するしか術がない。 比嘉のクールビューティーと称され、数多くの女子から畏怖混じりの熱い視線を受ける木手のことだ。昨日のこの玄関では靴箱開けたらチョコの雪崩というマンガみたいなベタな光景が拝めたに違いない。今更彼にとって名もなき贈り物などそう珍しくもないだろうに、なぜそうも固執するのか理解に苦しむ。 なにが面白いのか片手で押さえ込んだままじろじろと人の顔を観察していた木手は、私が少し息苦しそうな表情を見せるとあっさり口の拘束を解いた。しかし探るような目つきは変わらないままだった。 「どうして今日靴箱に入っていたのか、わけを聞かせてくれませんか」 「別にいいじゃん……」 「よくないね」 低さを増した声が響くと同時に視界が暗く陰った。 ぎょっとして顔をあげると、クールビューティーのクール部分がどこかへ飛んで、鬼畜ビューティーとでもいうべき迫力の面立ちがすぐそこに迫っていた。凍てついた美貌は噛み殺しそうな鋭い気配を潜ませて、聞かせてくれませんかとただ繰り返す。 こんな時に限って結界でも張ったのかというほど誰一人として通りかからない。ええい捨て身覚悟で私の助け舟となろうという骨のある奴はおらんのかと身勝手に考えたが、いるわけがない。自分だったらまっぴら御免だ。 私は小さく息を吸った。 「詰め寄られるほどの大した理由なんかないよ。ただ単に、昨日渡せなかった。それだけ」 一息に喋りながら、我ながら腰抜けな理由だと思った。しかし、なぜ今日はそういう気が起きたかという理由の方が情けなさとしては遥かに格上なので、まだましだと己を励ますしかない。 「それだけですか」 「そう、持っていったはいいけどやっぱり怖気づいて、駄目だった」 偶然にも顔のすぐ横は木手の靴箱だった。一日前の同じ時間、その前で立ち止まっていた自分の姿を思い出す。鞄から取り出しては引っ込め、引っ込めては出しを幾度か繰り返して、最後には逃げるように駈けだした。 ゆっくりと弓を引くように私から顔を遠ざけた木手は、一言ふうんと呟いた。 「誰かに突き返されたから俺の靴箱に放り込んだわけではないんですね」 「しっ…しないよそんなえげつないリサイクル!」 誰が手作りまでした本命チョコをゴミ箱代わりに下駄箱へ放るか! 私は咄嗟に白いリボンに手を伸ばして取り戻そうとしたが、日に焼けた大きな手はそれをすいと避けて守るように背に隠した。返しませんよ。 歯軋りをすると、木手は目を細めてくつくつと喉の奥で笑った。 普段は微笑みながらも目の奥が笑ってないくせに、さっきまで般若メガネだったくせにと理不尽にも悔しい。なにより、さっきまで勢いに任せたチャレンジ行為に後悔すら感じてはずが、たった一瞬で思いなおしてしまう己の簡単さが悔しい。 「それにしても意気地がなさすぎるね君は」 「…それはすいません」 「少しは潔くなりなさいよ」 「そうっすね」 ここで説教されるっておかしくね?という腑に落ちないものを頭の片隅で感じてはいたが、この時点で抵抗に必要とされる気力が底を尽きてしまったので、腑抜けのような返答しかできない。投げやりとも取れる私の受け答えが気に食わないのか、木手はおや、と片眉を上げて見せた。 「その態度は頂けませんね」 長い指が華奢で滑らかなフレームを押し上げる。 「誰のせいでゆうべ一晩寝付けなかったと思ってるんですか」 吐き出した言葉とは裏腹に、口元はしたたかな微笑が浮かんでいる。今や冷え冷えとした殺気が嘘のように、滴るほどの色香が眼鏡の奥で瞬いていた。 捕まれば、きっと骨の髄まで食い尽くされる。 じわじわと銀糸で体中をからめとられる感覚に陥りながら、私は蜘蛛の巣から逃げ出さんと目を逸らした。 「へ、返事はホワイトデーで結構ですんで」 そう言って身を引こうとするが早いか、倍の力で腕を取られて前へとつんのめる。 さっきよりもずっともっと、それこそ吐息を感じるほどの距離に迫った唇が囁いた。 「一ヶ月も待てるわけないでしょう」 のけぞってよろけた私は木手の下駄箱で頭を打った。 |