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三 年 分 の 砂 粒
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他人に関心がない奴は人の上に立つ資格がないというのが跡部の持論だ。
印象が薄かろうが、関係が浅かろうが、部員が200名越えていようが、一度接触した人間の氏名や特徴は一通り把握しておくのは当然の務めだと思っていたし、それを可能にするだけの能力が彼にはあった。
生まれついての癖のようなもので、今更ひとクラス程度の人数など造作もない。
入学初日、全員の顔と名前を頭に入れた。
」も、その時覚えた。
特に秀でた部分があったわけでも心に爪痕を残す言動が見られたわけでもなく、すんなりと風景のように溶け込む術を持つ人間の一人だったはずだ。何を持ってそう定義するのかわからない為あまり好んで使わないが、いわゆる「普通」に分類されるタイプだろうと思われる。
推測の口調になるのは、初対面の記憶がもうないからだ。
可も不可もない第一印象は、その後出会う様々な強烈なキャラクターを前にどうしてもかき消される。
多くの個人データと同列に、クラスメイトの一人という実に無機質なキーワードが入力されたに過ぎなかった。

入学してからというもの、日々は跡部にかしずくようにして従順に流れて行った。
入部したテニス部では二年三年を押しのけて部長の座に治まり、ほどなく学園の中枢ともいえる生徒会にも名を連ねた。
最初こそ、年少でありながら多くを従えようとする彼に反発する声も少なからずあったが、次第に露わになってゆく圧倒的な存在感とカリスマ性を前に平民はただひれ伏すしかなく、いつしか異を唱えていた者も、王が着実に玉座に上ってゆく様を見届けるだけの観衆となった。
跡部にしてみれば自分を超える器がいなかったからただそうしただけのことで、別段どうということはなかった。能力のある人間が重要なポストに就くのも采配を振るうのもごく自然な流れであり、それを陰で傍若無人と囁かれようと気にも留めなかった。
正しく行使される力は人心を惹きつける。実際、跡部ほど人をまとめるのに長けた人間はいなかった。
充実していた。
一足飛びで完結させるのではなく、ひとつひとつ自らの手で石を積み上げていくような手ごたえを感じていた。
特に部活として選んだテニスは自分が思っていた以上に没頭した。上にはあまり期待できないが、同期はそれなりに骨があり、大いに刺激になった。そこで友人と呼べるものも出来た。
毎日が目まぐるしく、心地よい疲労感に満ちていた。

彼女にまつわる一番古い記憶は、跡部が学園を掌握しつつある頃。食堂での場面だ。
昼食を終え、残り時間を読みかけの本で優雅に過ごそうとしていた跡部の視界の端に彼女が映った。紙コップを抱えてテーブル二つ先の席にちょうど腰かけたところだった。ああだな、と同級生に対する平等な感想を抱き、本に目を落とそうとした時、彼女が息を飲むような声を出した。響き渡る叫び声ではなかったから、たまたま見ていた跡部だけが気付いただろう。見れば、なんのことはない、カップの外に垂らしていたティーパックの糸がまるごと紅茶の中に落ちてしまったのだ。すくい上げれば済むだけだが、なるほど、すくうものがない。咄嗟に指を突っ込もうとして、いやそれとも突っ込んだのか、瞬時に引いた。熱そうに眉をしかめている。やはり突っ込んだのか。慌てすぎだ。次に彼女はテーブルの上に視線を這わせて、昼食の皿の上に乗せられた楊枝を手に取った。多少の短さが気になってかいくらか逡巡したあと意を決したようにカップに差し入れた。が、すくえない。長さが足りない。何度かかき混ぜて、ようやっと成功の兆しが見えたのか、ぷるぷると手を震わせながら真剣に持ち上げはじめた。おお、と跡部も見入ったが、途端ぐにゃりと表情が崩れた。落ちたらしい。さあどうしよう、と周囲を見回し、食堂の隅にコーヒーミルクや砂糖とともにスプーンがあることに今更気付いたようだった。小走りで取りに行った。と思ったら、すぐに戻って置きっぱなしにしていた食器を抱えてまた走った。そこは冷静。スプーンを手に戻った彼女は、ついにというかやっとというか、沈んだティーパックをすくい上げ、晴れがましい表情。が、ハッとしたような顔をして、きょろきょろし始めた。皿を下げてしまったせいでティーパックを置く場所がない。おろおろと首が動く。ない。机の上に置かれた携帯を見る。それは無理だろう。結局コップとスプーンにのせたティーパックを持ったまま、屑かごへまた小走りで向った。やがてゆっくりとした足取りで席に戻った彼女は大きく息を吐いた。そしてやれやれといった風情でコップに口を付けた。「にがいっっ」

向こうはまさか見られていたとは知る由もないだろうが、手に取るようにわかる一連の行動が跡部にとっては面白くて仕方がなかった。本の内容の数ページ先を知るより、よほど有意義な時間だったと言える。
クラスメイト、女、美化委員、成績中の上、など事務的に占められていた跡部の「」の項が、これまでとは異なる興味を含んで更新された。


疎遠ではないが、格別親しいわけでもない。時々話はする。挨拶もする。たまに食堂で見かける。図書館で会う。
容赦なく落ちてゆく砂時計の砂粒に紛れるようにして、跡部の日々の隙間には存在した。
跡部の時間は忙しなく回り、ともすればとりとめのない事柄を一斉に押し流しかねない。決して他を軽んじるわけではないが、優先順位の高い者、事柄に重きを置くのは当然の判断だろう。
彼女は時折、その優先順位を無視して浮上してくることがあった。常にではなく、エアポケットに入ってしまうようなふとした瞬間に思考をよぎる。
彼女は跡部のことを「跡部君」と呼んだ。他のクラスメイトに対しても君付けで呼んでいた。だから何の意味もない。それで良かった。それでも良かった。
二学期の後半に一度だけ隣の席になったことがある。教科書を忘れたから見せてもらえないかと申し訳なさそうに頼んできた。威圧的に接した覚えはないのだが、怖がられていたのかも知れない。あっさり応じると、ほっとしたように笑った。
笑うとえくぼが出来ることを知った。





滞りなく一年が過ぎて、はクラスメイトではなく元クラスメイトとなった。
彼女は長らく帰宅部だったが、熱心な勧誘に遭い、折れたか押し切られたか、人手不足の園芸部に籍を置くこととなった。園芸部という響きは地味だが、想像より遥かに重労働だ。重い土を運びながら、顔に泥をつけながら、それでも楽しそうにしているのを、ロードワーク中に何度か見かけた。
運動部同士であってもさほど交流があるわけではない。ましてや文化部では皆無。
特別優等生というわけでもない彼女が生徒会活動に加わる可能性はゼロに近く、接点はほとんどなくなった。

下級生という存在によって、先輩の立場を得た跡部は、いつの間にか跡部様と呼ばれるようになっていた。
そのでたらめな存在感も無垢な瞳には眩しくさえ映ったのか、新入生、とくに女子から熱い支持を受けた。それが高じて、ファンクラブまで出来あがる始末だった。
事実、跡部は滅法異性から人気があった。
遠巻きからの熱い視線は日常茶飯事、面と向かって積極的に言い寄られたことも一度や二度ではない。
相手する暇がないという理由で全て丁重に断ったが、無責任に実のない噂だけが飛び交う結果となり、跡部はずいぶんと沢山の恋人がいることになっていた。
演劇部の部長、高等部の才媛、お嬢様学校のミス東雲、社長令嬢、エトセトラエトセトラ。
付き合った、別れた、よりを戻した、二股をかけた。雨後のタケノコのように後から後から湧いてキリがない。
あまりの馬鹿らしさに、跡部は真面目に取り合うことを放棄していた。
ゆえにどんなデマが横行して誰と付き合っていることになっているのか、本人にも関わらず跡部は全く把握していなかったが、日常や業務に支障をきたすことがなければどうでも良かった。
跡部には他にやるべきことが山ほどあった。労力も時間もそんなことに割くのは無駄にしか思えなかった。
それほどに跡部の周囲は慌ただしい。人が、時間が、小走りで通り過ぎてゆく。
早い流れに逆らわず、むしろ追い風とするように跡部はすいすいと泳いだ。振りかえることはしなかった。
どこかしらで見かける度、のまわりには知らぬ友人たちの顔が増えてゆく。
跡部もまた様々な出会いや交流を経て、環境が少しずつ変わっていった。 
砂時計はただ流れ、落ちる砂の分だけ距離を隔てる。
事実だけ見れば、本当にただの元クラスメイトという関係しか残らない。跡部は優秀だ。一度記憶したデータは消えない。だからこそ使われないフォルダは奥へ奥へと押しやられ優先順位は下がる。
けれど何故か「」はすぐに手に取れる位置にあった。

跡部がを見かけたのは、日が傾きかけた階段の踊り場だった。
どう見ても許容量を超えた紙の束を抱えたまま階段を上ってくるところで、あ、と思った瞬間には雪崩のようにプリントが滑り落ちた。こうなることを予測してたか、はさして驚きもせず、あーあーあーとのんきな声をあげながら、大義そうにしゃがみこんで方々に散らばったプリントを拾い始めた。
跡部はなんのためらいもなく階段を下り、声もかけずにそれを手伝った。背後の気配に少し遅れて振り向いた彼女は、ワウッと犬のように小さく驚いたあと、黙々と拾う跡部の姿を見て「跡部君」と息を吐いた。
彼女の「跡部君」を耳にするのは、ひどく久しぶりだと思った。
拾い集めたそれを抱えたまま、跡部は当然のように残りの束も彼女の手から奪った。職員室だなと呟いてさっさと歩きだすと、頷いたり目を丸くしたりしながら、いいよいいよと慌てた声を出して跡部を追いかけてくる。
頑として渡そうとしない跡部にしつこく食い下がることはなかったが、しかし立ち去るわけにもいかなかったようで、やがて彼女は遠慮がちに跡部に並んだ。
部活に行く途中だったんじゃない?俺が行かなくてもちゃんと回るようにしてある。そうなの?ああ。すごいね。お前もな。なにが?花壇。花壇?校庭の裏のあれ植えたのだろ。
綺麗だなと告げると彼女は目を瞬かせた。それからゆっくりと、その頬にえくぼを作った。





三年になり、跡部はますます忙しくなった。
最も心を砕いたのはもちろんテニスだ。これまで育て上げた己と部員の真価を発揮するに充分な時期ととらえ、前年にも増して跡部は精力的に動いた。各校の一筋縄ではいかない好敵手の存在に高揚していた。
学園内だけでいえば、跡部王国はすでに盤石で不安要素はなかった。
ひとたび歩けば黄色い歓声が上がる。どこへ行っても司令塔として頼りにされる。
教師やOBからの信頼も厚く、狂信的なまでに慕い敬う後輩達。
美貌にも才にも家柄にも恵まれ、ありとあらゆる他者が羨むものを思いのまま手にする。
人には、彼に足りない物など何ひとつないように見えた。
彼自身も少し前まではそう思っていた。

休み時間が終わろうとするギリギリの時間にが地図帳を忘れた、と跡部のクラスに滑りこんできた。あいにくその日の授業に地理はなく、彼女の友人達は役に立たなかったが、たまたま跡部は持っていた。ありがとうと涙目で三回くらい繰り返された。いいから早く戻れよと跡部が時計を示すと、転がるようにして駆けだした。跡部君が忘れた時は私が貸すから、という廊下から響いた声に、忘れ物などしたことはないが、ああ頼むと返した。

朝、珍しく玄関で顔を合わせた。跡部が声をかけるより先に、彼女は上靴を履きながらおはようと笑った。

貼りだされた体育祭の写真の中で、偶然に違いないが一枚だけ一緒に写りこんでいた。

誰もいない職員室の椅子で一人でくるくる回っていたのを見た。目が合うと彼女は静かに椅子から下りて、それからじんわり顔を赤くした。

昼休みの廊下ですれ違った。

教科書を借りに行った。宍戸が貸そうとしてきたので無視した。

図書室で高い位置にある本を取ってやった。

食堂で昼食をとっている時、跡部にまつわる根も葉もない噂話が耳に入った。背後に本人がいることも気付かず、実に無邪気に花を咲かせていた。跡部は今とある人妻と付き合っているらしかった。どこからどうなったらそうなる。呆れた笑いをもらし、いつものように無視して席を立とうとすると、すぐ近くにの姿が見えた。デマで盛り上がる連中の隣の隣。跡部は咄嗟に、発信源の男のネクタイを掴みあげた。楽しそうだなと囁くと相手は凍りついて、それから青ざめた。「期待に添えなくて申し訳ないが、あいにく誰ともお付き合いしてないんでな、噂は正確に頼む。」 大人げないことをした自覚はあるので、ネクタイを離してからさっさと席を離れた。おかげで、彼女がどんな顔をしていたか確かめることはできなかった。


時間は待たない。
跡部をとりまく何もかもが刺激的で騒がしく、彼に瞬きさえ与えようとしない。
時を示す砂時計はどんどんと速度を増した。
砂粒が怒涛のように次から次と落ち、他の砂粒を覆い隠そうとする。
その激流にあって、小さな砂粒のひとつでしかない、とるに足らないはずのとの出来事は、決して埋もれることはなかった。
一粒一粒が比類なき存在感を持って、記憶の中で確かに光を放っていた。
それが何を意味するのか、賢明な跡部はとうに気がついてた。





春が過ぎて夏が終わり秋の声を聞いた。
テニス部と生徒会、双方の現役を退いた跡部は後継を育てることに力を注いだ。
己が決断して指揮をとる責任感とはまた異なり、人の資質を見出し伸ばす難しさ、それゆえの達成感があった。
下を見守り叱咤して気を配りながらも、跡部の中等部での時間は駒が回転を止めるように、少しずつゆるやかになっていった。寂しさはなかった。肩の力を抜いた時の、清々しささえあった。

その日、もう直接用のない生徒会室に足が向かったのは、習慣という魔力だろう。
彼にしてはらしくなく、漫然と歩いていたのも知れない。はたと気付いた跡部は引き返そうとして、わずか開いた扉に目を止めた。
金目のものなどありはしないが、原則として施錠されている。
訝しく思い、自室のような堂々たる振る舞いで扉を開けると、棚に手を伸ばしたと目が合った。
つま先を立てたまま、お邪魔してます、と彼女は小さく会釈した。

「部の予算のね、一覧、を、貸してもらおうと、思って」
資料が押し籠められている棚はほこりっぽく、なにか言うたびに度には咳を挟んだ。これは掃除を怠るなと後で喝を入れねばならない。
「引き継ぎに使うみたいなんだけど、うちの部長そういうのてんで駄目で」
彼女の言う園芸部の部長については跡部も知っていた。自分の興味のある分野には驚くほど能力を発揮するが、それ以外は人並み以下という偏った男だった。部長と名は付いているが、実質的に彼が行うべき仕事をしていたのは恐らく彼女だったろう。
一心にファイルの背を追う横顔を、跡部は無意識に見ていた。
真っ直ぐなその髪は、真っ直ぐなまま、ずいぶん伸びた。
「もしかしてここじゃないのかなー」
「いや、確かもう一段下だ」
我に返った跡部は誤魔化すように手のひらで空気を払いながら、換気の為に窓を開けた。
風が入って来るのと、が煩雑に積み重なった書類の束に手を伸ばすのは同時だった。

「………危なかった」
「……悪い。平気か」
「大丈夫、全部持ってかれたわけじゃないし」
すんでのところで彼女が押さえたおかげで、被害は上辺に重なった十数枚だけにとどまった。
いっぺんに強風で天井まで巻き上げられた紙片が、踊るようにゆっくりと降って来る。
跡部は一秒でも早く窓を閉めようと全力を挙げていたし、は守り通した大量の書類を抱えて両手がふさがっている。
それらが空気を纏いながら床に落ちてゆくのを、彼女は成す術もなくあーあーあーと間延びした声をあげながら見送った。
白い無数の紙の海。
日暮れに佇む、途方に暮れた後ろ姿。
拾い集めなければ、と窓から離れて跡部は思う。
いつかの、放課後の踊り場のシーンが瞼の裏に蘇った。

――― そうだ、前にもこんなことが、

「前にもこんなことあったね」

振り返った微笑みにはえくぼがあった。
下へ伸ばそうとした指は平面を無視して、目の前の腕を掴んだ。
土と草と、それからシャンプーの香りがした。



「好きだ」



支えを失ったプリントの束がバサバサと音を立ててに散らばり始める。
彼女はもう「あーあー」とは言わなかった。
その代わり、跡部の腕の中で「えっ」を壊れたカセットみたいに繰り返していた。
スローモーションでなだれ落ちてゆく紙の群れが、まるで逆さにした砂時計のように見えた。