遠慮がちに通した櫛は、なんの引っかかりもなく毛先までするりと降りた。
綺麗なのは知っていたけど、実際触れてみると見た目以上に細くて柔らかい。
色素が薄いせいだろうか、陽に晒すと銀色に透き通って見える。
誰かの髪に触れるのは初めてではないのに、なぜか少しだけ手が震えた。
それが緊張なのか高揚なのかはたまたその両方か、今は区別がつきそうもない。
余計なことは考えるな、考えるな。
そう自分に言い聞かせて、指からこぼれる銀の髪を集めては機械のように櫛を通した。

私が今なぜこんな状況にあるかといえば、あの一言が発端だろう。



「あいつもお前には甘いようだな」
唐突な間合いで柳先輩は言った。
部の予算について二言三言言葉を交わしていた最中のことで、発言としては前後のつながりも脈絡もない。
小言と受け取るにはさっぱり非難の色がなく、むしろ面白がっているような物言いだった。
私がぱちくりと瞼を開け閉めしている間に、会話は勝手に打ち切られ、言うだけ言って柳先輩はさっさと部室から消えてしまった。
結果、私と投げかけられた言葉だけが置き去りにされ、残ったもの同士で向き合うしかなかった。
名前は出さなかったけれど、柳先輩が誰を指していたのか察せないほど鈍くはない。
私はその時、仁王先輩がくれたカイロを握りしめていた。
先輩は結構な寒がりで、その日も身を縮めながらカイロで暖をとっていたのだが、私の冷え切った手を見かねて「これ握っときんしゃい」と譲ってくれた。そのあと仁王先輩は風が吹くたび猫背をますます丸めていた。
そういうことは、今まで何度となくあった。
面倒見が良さそうにはとても見えないのに、意外なほど仁王先輩はあれこれと世話を焼いてくれた。
私には兄弟がいないので、もし兄がいたらこんな感じなのだろうかと思ったりした。
いつだったか、柳生先輩からせしめてきたという置き傘に入れてもらったことがある。
方角が違うからと遠慮したけれど、じゃああの角まで、次の交差点まで、バス停までとゴール地点を少しずつ伸ばしながら仁王先輩は結局家の前まで送ってくれた。
その様子を見られていたのだろう、後日彼のファンだという友人の友人の従妹に(要するに他人)それはそれは羨ましがられたものである。

事実、幸せなことだった。
花形として遥か高みにいる人が、端くれのような私にも分け隔てなく接してくれるのだから嬉しくないわけがない。
後輩思いの、良き先輩による、平等な優しさ。
けれど、柳先輩の弁を信じるならば、それは少し違うのかも知れない。
なんとなくぼやけたまま抱えていたものについて外部から指摘されると、急に輪郭がはっきりと見える時がある。
これまで私は仁王先輩からNOと退けられた覚えがない。
恐らく、ただの一度も。
拒絶を引き出すほど踏み込んだ付き合いではないからだと断じてしまえばそれまでだが、では同じくそこまで親密な関係ではない他の先輩たちについて考えてみると、これが結構無下に扱われているのだった。
丸井先輩は気分次第でイエスもノーもころころ変わるし、柳生先輩は紳士には違いないが存外厳しく、柳先輩や幸村先輩などはさらりと私を盾にして面倒事から逃げる。全方向に菩薩と化している桑原先輩と切原君を殴り飛ばすのに忙しい真田先輩は圏外だ。
それぞれ全く別の人間なのだから違うのが当然で、引き比べるなんて無意味だとわかってはいる。
けれど、やはり仁王先輩の位置づけが特殊であるのは変わらない。
それを証拠に、仁王先輩にすげなくあしらわれる様を、私はうまく想像することができないのだった。頭の中ですら、あの人はいつも「よかよ」と微笑んで私を甘やかしている。
その日以来、揺らぎひとつなかった水面に小石を放りこまれたような心地がした。

練習を抜け出した仁王先輩が、髪を振り乱しながら部室へとやって来たのはそんな頃だった。
髪をまとめていたゴムが切れてしまった先輩に、私は自分の予備を差し出した。
「ついでにクシなんかも貸してくれるとありがたいのう」
多分そう来るだろうと、すでにポーチからブラシを取り出していた私はそのまま「はい」と渡そうとして、
―――― 代わりに言葉が口を突いて出た。

「私がやっていいですか」

たぶん、距離を確かめたくなったのだ。
今の内に思い知っておかねば、いずれきっと、その他大勢の部員に分配された親切ではなく、個人に注がれた好意と解釈してしまうようになる。
いくら可愛がられた記憶しかなくとも、履き違えてはいけない。ただの後輩の一人でしかないことを忘れてはいけない。
だからこそ、私は勘違いしないように、思い違いをしないように、今まで思考から遠ざけていたに違いないのだから。
先輩は優しい。けれども同時に、蠱惑的な微笑みとその軽口で異性を傍へと吸い寄せても、気安く触れることを許さない気高さのようなものがある。
境界線を見誤ろうものなら、そのしなやかな尻尾でぱしんと払われる気がした。
私をそれを覚悟の上で、美しく上等な猫に初めて自分から手を伸ばした。
仁王先輩は、ほんの一瞬、意外そうに目を瞬かせた。
それから、ゆるゆるそれを細めて溶かした。
「ん、お願いしようかの」
と、なんのためらいもなく背中がくるりとこちらを向いた。
そして、現在に至る。



「結ぶ位置、このくらいでいいです?」
「まかせるきに」
「もう、ちゃんと確認して下さいよ」
「気の済むようにしてくれたらよか」
「さっきからそればっかり」
先輩はすっかりご機嫌で、時折口笛なんか吹いている。この気の許しよう、いかがなものか。
あんなに簡単に要求が通るなんて思わなかった。
柄にもなく気負ってしまった分、拍子抜けしたというか、肩の力が抜けたというか、肩が抜けた。いや抜けてはいないが気持ちとしては脱臼した。
冷水をかけられるつもりで足を踏み入れたら、温かい紅茶を一杯出されてしまい、安堵しながらも戸惑っているというのが言い回しとしては一番ふさわしい気がする。
そもそも自分のことすら持て余している奴が、人の気持ちなんて簡単に計ろうとしたのが間違いかも知れない。
愛情の形や重さがもっと単純明快で、数字のように勘定出来たなら、どんなに楽なことだろう。
片手にかき集めた髪をひとまとめて、ようやく櫛を置く。
名残惜しくもあったけれど、無駄にべたべた触り続けるのも失礼かつ不審極まりないので、出来る限り手早くゴムを巻きつけた。
「できました」
「すまんの」
振り返る動作に合わせて、ごく自然に身を離そうとした。
が、先輩はそれより早く向き直り、思わせぶりな笑みを口元に乗せた。
「ほいじゃあ次は俺の番じゃな」
意図を汲めず私が首を傾げると、先輩は親指と人差し指をくるりと捻ってみせた。
うしろ向きんしゃい。


いよいよ私はわけがわからなくなった。
距離感を計るどころの話ではない。
私はもう自分の小さく浅い頭で思い悩むことを諦めて、半ばされるがままになっていた。あがくだけ無駄と学習したとも言う。考えたところで追いつかない。
それにしても、さっきと立場が入れ替わっただけで、こうも落ち着かないものだろうか。意味もなくそわそわとする。
顔を合わせていないので、目線が泳ぐのを見られずに済むのがせめてもの救いか。
私が一人相撲に精を出しているのも知らずに、先輩は嬉々とした様子で髪に櫛を入れ始めた。
正直、自慢の髪とは言い難い。
日焼けで潤いを失い、キューティクルもだいぶ戦死していることだろう。上質な筆の手触りを持つ先輩とは比べ物にならない。少しくらい手入れしておけば良かったと後悔した。
「パッサパサでしょう」
「いんや、」
先輩の手が髪がすくい上げる。
すぐに砂のようにはらはらと毛先から肩へ落とされた。
首筋に、吐息が触れた。

「柔らかかよ」

瞬間、どっと羞恥が押し寄せた。
丁寧に当てられた櫛が、ゆっくりと髪の隙間を縫って下り、縫っては下り。蚕の糸を紡ぐにも似た慎重さで、先輩の指が髪の一本一本を撫でてゆく。まるで膝の上の猫を慈しむように。まるで私にとびきり値打ちがあると錯覚させるかのように。
たまらず私は目をつむった。
触れられている部分からじわじわと全身に熱がまわる。
もしかして、自分はいまとんでもなく気恥かしいことに身を置いているのではないか?
気付いたところでなす術などなく、私は鼓動が刻む16ビートをBGMに耐えるしかなかった。近々心臓が爆発するかも知れない。
せめて先輩がいつものようにたわいない会話をしてくれれば、居たたまれなさも軽減されるだろうに、こんな時に限って何故か何も喋ろうとしてくれない。
沈黙は毒だ。意識を誤魔化せない。
私は痺れを切らして、逃れるように声を出した。
「仁王先輩は、私に甘いのだそうです」
背中で笑う気配がした。
きっと持ちあがった目尻をくの字に細めて面白がっているに違いない。
「誰が言うたんじゃ」
あっさり柳先輩だと白状すると、ほう、と先輩は相槌とも感嘆ともつかない息を吐いた。
もそう思うがか」
一瞬言葉に詰まる。
さて、本人を目の前にしていかに答えるべきなのか。
私はううんと唸った後、少し考えてから頭を前へ傾けた。
曖昧ではあるがイエスの返答。
「先輩、私に駄目って言ったためしがないじゃないですか」
そうかの?と先輩は云った。
そうですよと私はもう一度頷く。
「さっきも、あんなに簡単に触らせてもらえるとは思いませんでした」
「それはお前も同じじゃろ」
「え?ああ、でもそれは、」
「お互い様ってのはなしじゃ。野郎と女の髪じゃ、価値はイコールにならんぜよ」
口を挟んでみたものの、それを見越していた先輩になんなく叩き伏せられた。何故か責められているような気すらする。
結果、私の口から出たのは弱々しくも歯切れの悪い弁解だ。
はあ。まあ。その。
そうかも知れませんけど。
ごにょごにょ言っているのを聞いてるのか聞いていないのか、するすると下りた手櫛が毛先をさらう。
ふいに指先が止まった。
終わりを告げる声もなく、再び櫛が当てられる気配もない。
ただ続く静けさに私は後ろを振り返った。
しかし、安易に振り向くべきではなかった。
その目を見るべきではなかった。
過去一度でも先輩を“兄のような”などと評した自分を土下座の刑に処したい。
世の中の兄という存在が、妹をこんな目で見てるとしたら由々しき事態だ。
家族を想うには、あまりにも熱と艶が強すぎる。
私が目をそらせずにいると、やがて待ちかねたように伸びてくる腕が見えた。
「甘やかしきれんこともあるんよ」
いつもと違う目の色の先輩は、いつもと変わらぬ仕草で私の頭を撫ぜる。
低く、囁いた。
「俺以外にこういうのを許すは、NOじゃ」
息を呑んでこくこくと頷くと、頭から下りてきた手のひらが、私の視界を柔らかく塞いだ。
目隠しの向こうで、ゆっくり近付く気配がした。