薄暗い片隅、身を隠すような位置に段ボールがあるのを知っている。その中にビスケットやクラッカーが眠っているのも知っている。
老いた気の良い顧問の管理はひたすらゆるく、箱の減りを確認したところで慌てず騒がず、定数にならって補充することさえ俺は知っていた。

小腹が減ったら弁当を食う。本格的に減ったら二個目の弁当を食う。昼休みには購買でカップめんを調達、たまにジャッカルのおにぎりを失敬し、たいしてうまくもなさそうに食う仁王のパンの味見と称して食いちぎり、幸村にたかっては弁当のおかずをひとつふたつ分けてもらい、真田のおかずは無断で攫う。それでも足りなきゃ女子のたまり場に顔を出して、適当にちょっかい入れたり話を合わせれば、甘いお菓子が手に入る。女の集団はちょっとばかりやかましくて面倒だけど、回収としての効率がいいからそんなに嫌いじゃない。気前もいいし。
よく食えるなと誰もが感心し、時に顔をしかめる量を腹におさめても、退屈で苦手な授業は俺からエネルギーを奪っていく。まあまあ好きな教科と言えば国語と音楽と体育あたり。それ以外はほとんど不得意ってことで、エネルギー消費は常に激しく、放課後にはほぼ空っぽだ。
財布に余裕があれば菓子パンを買う。運が良ければファンからの差し入れ。そのどれにも見放され、ロッカーの備蓄も尽きた今日みたいな日は、あそこに向う。こういうの、なんつうんだっけ。あれだ、とっておき。

準備室の扉は抹茶が干からびた感じの緑色。過去なんども忍び込んでおいて今更かも知れないけど、俺なりに気を遣って、音を立てないように戸を引いた。のに。
ガタ。
動かない。いつもはすんなり侵入を許すくせに、今日はやけに勿体ぶる。二度ほど力を入れてみたが、二度ガタ、と鳴るだけで生意気にも俺を拒んだ。ついてない。おまけにガムまで切らしてる。舌打ちのひとつくらい出るってもんだ。
俺は腹立ちまぎれに隣の家庭科室の引き戸を、なんの慎重さもなく開いた。
「なんか鍵かかってんだけど」
甘い匂いはしない。香ばしい香りも。それどころか人の顔を見た途端サル山のサルに餌をやるみたいに寄って来る女子共の姿もない。いつもは賑やかで騒がしい調理場にあるのは、ぽつんと座る背中ひとつだけ。
「入ってきてるじゃないですかー」
「ここじゃねーよ」
あ、準備室? とはようやく俺を振り向いた。黒い髪がさらさらと招く。
「先生も部活も休みだし、そりゃ開かないよ」
「マジか。なに休んでんだよ勝手に」
完全にあてが外れた。ああ、あの部屋の奥に隠された製菓材料という名の俺の非常食が。
ていうか、家庭科部まで休みってなんなんだよ。味見係として食欲を満たすっていう俺の第二案はどうなんだよ。
「出張とかなんとか。明日には帰ってくるはず」
「明日じゃ話になんねーだろい」
がっくりと肩が落ちる。おおげさ、とのほほんと笑ったのところまでずるずる体引きずって、台へと飛び乗った。
そんなとこじゃなくて椅子に座ればいいのに。
ならそう言うだろうなと思っていたら、すぐにそっくり同じ台詞が飛んできた。
ぶはっと噴き出すと、は変な顔をして俺を見上げた。何を言われるか予想はできても、それに従うかはまた別の話。あいにく、調理台から下りる気はさらさらない。

は短い針のようなものをノロノロと動かしている。なにを時折覗きこんでいるのかと思えば、解読不可能な図解が載った紙っぺら一枚。その指が動くたび繋がった茶色の毛糸が転がっていた。
「あみもの?」
このクーラーも追いつかねえクソ暑い時期に? 
「別にセーターとか編んでるわけじゃないよ。かぎ針だし」
何が違うのかさっぱりわかんねえ。たいした興味もないけど。
「じゃあ何ができんの」
ちまちまと絡まる糸は見ているだけで、こっちの頭がこんがらがりそうだった。すっげえ地道。
は一度かぎ針とやらを置いて、鞄から何かを取り出した。
「これができます」
こぶし大くらいの、毛糸と同じ色をしたクマのぬいぐるみ。微妙に目のつり合いが取れていないような気がしたけど、の顔がいつになく誇らしげだったので黙っててやることにした。まあ、かわいく見えない事もない。たぶん。
がいうには、練習用に作っていたら、妹がいたく気に入って、自分も欲しいとべそをかいたらしい。
「それやればいいんじゃねーの?」
針と毛糸に注意を向けたままは首を振った。
「これは試作だから。あげるならもっと出来のいいやつ」
目もズレてるし、とちょっと苦笑いで付け加える。なんだ気付いてたのか。
クマのどの部分にあたるのか見当もつかないつくりかけの網目を掲げて、は首を傾げたり、うん、と頷いたりしている。
なんで部活もないのに帰らないのか、と素朴な疑問は最初からちらついてたけど、今となっては聞くまでもないからやめた。家で編んだらサプライズじゃなくなる。
それよりも腹が減った。正直すぎる腹から飢えた犬みたいな唸り声が止まらない。
「しぬわ俺」
「短い人生だったね……」
「俺の命の延長のために準備室あけてくれ」
「ざんねん、今日は鍵は持ってません」
これで我慢して、とはポケットから飴を二個、手のひらに出した。どっちがいいかと聞かれる前に、コーラをかっさらう。残りのピンク色はの口の中に。
「わたしもも味すきなんだよね」
知ってる。
子供だましみたいなコーラ味の塊を弄びながら、心の中だけで言った。


家庭科部・来週のおしながき。
調理台の上に重なっていたプリントの一部を目で追う。いよいよ腹が減りそうな文字が人の気も知らないで並んで印刷されていた。
月曜、揚げだし豆腐、ナスの煮びたし。水曜、豆腐ハンバーグ、ほうれん草のポタージュ。金曜、麻婆豆腐、もやしのスープ。
豆腐多くね?
家庭科部は月水金は食卓のおかず、火曜は菓子を作ると決まってる。残りの木曜で打ち合わせをしたり希望をとってメニューを決めるらしい。この週一の火曜日を俺はかなり楽しみに生きている。どんなに忙しくても必ず顔を出して、おこぼれにあずかる大事な日だ。火曜日、火曜日のおしながきは。
「……カステラってどうやって作んの」
「えーと材料をまぜてオープンで焼くの」
雑に答えやがって。けど俺のテンションが急降下したのは、サービスに欠けたの説明のせいじゃない。カステラ。カステラねえ。いいんじゃないのカステラ。
口の中を転がる甘さが気に障った。
気休め程度の餌は、飼いならすどころか逆に飢えに拍車をかける。無性にいらいらするのは腹が減ってるせい。

調理実習の日、俺の班は男も女も不器用な上に大雑把な奴ばっかりで、出来あがりは一番早かった。ただ、味の方も仕事ぶりに見合った大雑把なものだった。まずかないけどうまくもない、鶏肉に申し訳が立たない感じのいまいちの出来。
が居た班は完成の順番こそ三番手と出遅れたが、火が通り過ぎる事も生焼けになることもなく、しっとりとうまそうに鶏肉のソテーを仕上げていた。事実うまかった(よそ見している隙にかすめ取った)
ろくに包丁も持てない連中ばかりの中、おっとりと仲間をフォローしつつも、手際よくこなしていた家庭科部部長の存在はさぞかし眩しく頼もしかったに違いない。あの日何人かよろめいた。特に鈴木の奴なんかは後片付けの時、でれでれと話しかけていた。
俺カステラ好きなんだ、こんど作ってよー。 
がなんて返してたかまでは覚えてない。その時たまたま手が滑って、木ベラがそいつのドタマに飛んでったのは覚えてる。たまたまだ。ステンレスボウルにしときゃよかった。たまたまだけど。
「なんでカステラなわけ?」
やべえ。むちゃくちゃに不機嫌な声が出た。が見てる。いいからかぎ針やれよ。
「……カステラ嫌いなの?」
んなわけねえだろい、と返事すると、だよねえびっくりした、はほっとしたように目元をゆるめた。こいつ俺ならなんでも喜んで食うと思ってるな。その通りだけど。
「先生が知り合いの養鶏所から大量にわけてもらうんだって。卵たくさん使うお菓子って言ったらカステラかなーってみんなで決めた」
「……鈴木は?」
「鈴木くん? なに?」
「なんでもね」
ざまあ。飴玉に歯を立てて腹の中で嘲笑う。暴落したばかりのカステラの株が急上昇し始めた。黄色いふわふわのスポンジへの期待で今からよだれが出そう。こういうのを現金っつうんだっけ。
「うまく出来たら当然くれるんだよな?」
顔を上げたは頷きかけて、それからにやっと笑った。
「うまくできたら私が食べるよもちろん。端っことか膨らまなかったやつで良ければ差し上げますけど」
「なにそれずっりい」
「ずるくないですー部員の特権ですー」
俺は更に「ずっりい」を二回繰り返した。
どんなこと言ってても、結局が、綺麗に焼けたのを選んでくれるのを俺は知ってる。そういうところが、ずっりいんだよ。
「そんなに言うなら家庭科部に入れば良かったのに」
「得意なのは作ることじゃなくて食うほうだって知ってんだろい。それにかけもちできるほどテニ部甘くねーって」
「うちはかけもち大歓迎の甘さだけどね。スイーツだけに」
といった後、はしまったみたいな顔をした。
「なにいまの」
「忘れて」
「スイーツだけに……」
「ちょっと自分でも滑ったと思ってるんだからやめてええ」
赤い耳を隠すようにしてそのまま突っ伏した。

家庭科部のといえば、一部の男子の間でそこそこ名が通ってる。
鼻筋の通った容姿に、いかにもお嬢さん然とした家庭科部部長の肩書きが揃うと効果はてきめん。落ち着いた美人だとか、大人っぽいだとか、おしとやかそうとか、言い合って野郎共は勝手に夢を見る。
どいつもこいつもすぐに目に付くパッケージに踊らさせているだけで、なんにもわかっちゃいない。を語るのに重要なのは「おしとやか」でも「大人っぽい」でも「美人」でもない。じゃあなんだと聞かれても、答えてやらないけど。

かちこちかちこちかちこち。時計の秒針が進む音と一緒に、いや、だいぶ乗り遅れたペースで、の針がぎこちなく回る。口の中の飴もどんどん小さくなる。腹の虫の声はどんどん大きくなる。
俺は空腹感を持て余して、調理台から勢いよく飛び降りた。
なんにもないのに、と呆れたような笑い声を背に手当たりしだい漁ったが、の言うとおり冷蔵庫は空で、戸棚の下を探れば調理器具と粉類ばかり。腹と舌を満たしてくれそうなめぼしいものはひとつも見つからなかった。死ぬ。腹と背中がくっついて死ぬ。
潰れるみたいに貼りついた家庭科室の窓からは校庭がよく見えた。
丸井君!
遠くから俺を呼ぶ声がする。幻聴まで聞こえんのかよやべえ、と焦ったら、じっさい校庭で女子の二人組が俺に向かって手を振ってた。どっちもしらねえ顔。
窓を開けて顔を出すと、更に二人組は声を張り上げた。
「ポッキーあるけど食べるー!?」
しめた。完全に俺の興味は二人組自体の存在から、手の方へとシフト。片割れが持っているポッキーの箱しか見えない。
「食うー!!」
当然決まってる答えを腹の底から叫んだ。
三階のここから校庭まで結構な距離で、走るのは正直だるいけど贅沢は言えない。エネルギー源は確保しておくに限る。そうだ、2、3本くらいなら、妹の為に居残りする健気な部長様におすそ分けしてやってもいい。
「ちょっと行ってくるわ」
窓枠にしがみついたまま振り返ったら、あれ、
なんか、
ジャージの裾が伸びてんだけど?

ここには俺としかいなくて。俺は窓にべったりで。は椅子に座ってたはずで。クマっぽい物体を編んでたのに。あいつが握ってんのはかぎ針じゃなくて伸びた裾で。焦った子供みたいなツラぶら下げて。
「ご、めんっ」
目が合った瞬間、目をまん丸に開いたは手を離した。
どでかい静電気を食らったってくらい派手なリアクション。自分が何をしたのかわからないって顔で、びっくりして、不思議がって、困ってる。


――― は本当にずりいよ


せっかく人が柄にもなく、ちんたらとしたかぎ編みのスピードに合わせてやってんのに。時々こうやって、急かすようなこと平気でやらかす。
あのなあ。
こっちはもう、飴くらいじゃ物足りねえんだよ。

「……なあ、」

かろうじて残ってたコーラ味を粉々に噛み砕いた。

「手加減やめていい?」