※ご注意※
・先に掲載した日吉夢「アップルパイの地層」(2012/11/16)の鳳姉と同一人物ですが、少し設定が異なります。
・上記の作品では腹違いでしたが、今作品では血の繋がりが全くありません。
・IFのようなパラレルのような、別の世界と考えて頂ければ幸いです。


ご了承いただけましたらこちらから










































手のひらに捧げる







 お前の姉さんだよ。
 
 鳳長太郎が一人っ子でなくなったのは、この世に生を受けてから三度の誕生日を迎えた頃だ。帰宅した両親に呼ばれた時、お気に入りの積み木で自分と家族が住むためのお城を作っていた。あとは屋根の部分の三角を乗せれば出来上がりだった。
 自身が生まれた後にきょうだいが出来たなら、それは多くの場合弟か妹を指す。しかし長太郎が得たのはそのどちらでもなかった。
 珍しく彼を家に残し、いつもよりかしこまった装いと顔つきで出かけていった両親が手にして戻ったのは一人の女の子。少しこわばった表情には似つかわしくない華やかな晴れ着を着て、白い肌をくっきり示すようにその髪は真っ黒で真っ直ぐで、祖母の家に飾られた品の良い人形を思い出した。
 お人形さんを、買ってきたの?
 父は幼い息子の幼い言動に目元をほんのわずかゆるめた。
 いいや、この子は今日から――――

 そうして突然、ぽんと贈り物が届けられたように、彼の世界に「姉」は現れた。
 お人形のように美しくて、お人形のように顔色が動かない。あとになって気づけることだが、この時「姉」はどこかに感情をおいてきたのではなくて、目の前に横たわる不安に立ちすくんでいたのだった。「姉」はまだ子供。「弟」はそれより更に子供。物事の仕組みはわからない。当たり前のひとつなのか、憂うべき出来事なのか。
 「弟」もまた初めて見た「姉」に戸惑いはあった。けれど、それよりもこっちを向いて欲しい、綺麗な目が映す景色の中に入りたい、という気持ちの方が勝っていて、くりくりとした眼はすっかり釘づけになっていた。作り物めいたかんばせを覗き込み、こわごわと、それでもまっすぐ見て微笑むと、波打ったようにその瞳が揺れた。やがてゆっくりと確かめるように、引き結ばれていた唇が柔らかく持ち上がった。変化としてはわずかでしかないが、それは人形ではない人らしさで、快い反応で、さらに言えば紛れもなく笑顔で、長太郎は嬉しくなった。
 その日、初めて出会った姉と弟は、一緒に積み木のお城を作った。三人のためのお城から、四人のためのお城。


 姉と弟はあっという間に馴染んだ。きょうだいでなかった時期を埋めるように弟は姉のあとをついてまわり、姉は弟の手を取っては慈しんだ。相変わらず姉に愛嬌というものは見られなかったが、それは何かが彼女の感情を遮っているのではなく、生来の性格によるものだと家族はすでに知っていた。
 鳳家に迎えられた当初、緊張と心細さを背負い込んでいたお人形は、甘えたで屈託のない弟にお姉ちゃんと呼ばれている内、わかりくくても変化に乏しくても、確かに笑うようになっていた。彼女はもう、青ざめたお人形ではなく血の通った女の子であり娘であり姉だった。その手はいつも弟のために差し出されていた。 
 「きょうだい」になりたての頃、母は言った。
 お姉ちゃんを守ってあげてね。長太郎は男の子だから、守ってあげてね。
 真摯な眼差しと声音にただならぬものを感じて力強く頷いたものの、泣き虫で気弱でいささか病弱だった長太郎は、守るどころか多くの場合守られていた。
 姉は強く優しかった。首輪のない大きな犬が前方をふさいでも怯むことはなかった。長太郎、先に逃げなさい。大事にしているオルゴールを誤って壊しても怒ることはしなかった。長太郎、怪我はなかったか? 派手に転んで怪我をしても、その涼しい目に涙を浮かべることはなかった。平気だ、大したことないから。
 大きな木のように揺らがず、母鳥のように暖かく、六つという年の差が途方もない数字に思えるほど、姉は尊かった。神様がお作りしたように、姉の存在は絶対だった。長太郎は姉を弱らせるものなど万に一つもない気がしていた。彼が遊具から落下する日まで。
 腕を七針縫う、子供にしては大怪我だった。痛くて泣いた。大泣きだ。けれども、どんな風に転んでも父に叱られても母に怒られてもペットの小鳥が逃げてしまっても近所の嫌な子供たちにからかわれても熱を出しても、これまで一度だって泣いたことのなかった姉が、目を真っ赤に腫らして、大粒の涙をはらはらと落とし病院の待合室でしゃくり上げているのを見て、涙が止まった。私が目を離したから、かわいそうに痛かったろうにと懺悔に濡れた声。母に肩を優しく抱かれながら、消えかけた星屑のように儚く小さく震えていた。
 以来、大きな怪我をしないように、慎重なほど気をつけるようになったのは、七針の痛みに懲りたからではない。傷を負うことで、傷つけないためだ。あの目を曇らせるものから守るためだ。姉を泣かせる者は、許すわけにはいかない。それがたとえ己であっても。


 二人の子供はいつしか子供ではなくなった。姉は一足先に子供から少女になり、女性になるための助走期間に身を置いて、その寡黙な美しさを瞬かせていた。弟は姿かたちこそ、大人から見れば十分に子供の烙印を押される幼さを持っていたが、内側では少しずつその衣を脱ぎ始めていた。子供の部分が減ってゆけば、おぼろげでしかなかった物事の仕組みが段々わかるようにもなる。姉が遅れて家族になった意味だとか。この家の、誰とも血が繋がっていない事実だとか。それが特殊な例ではないものの、世間では一般的とされないことだとか。
 お姉ちゃんを守ってあげてね。
 あの日から、姉が泣くのを見ていない。長太郎は病院を必要とするほどの怪我はしていない。大きな病気も。
 小さな小さな弟は、犬を追い払うことを知り、切り傷すり傷の痛みに耐えることを覚え、沢山の漢字や数字を学び、運動会では一等も取った。意地悪な同級生からのつまらない嫌がらせには時々瞳を潤ませてしまうけれど、そんなときにはいつか姉の制服のスカートが不自然に汚れていたことを思い出す。
 人の生い立ちや過去を悪意の的に仕立て上げる輩はどこにでもいる。姉は打ちひしがれた様子もなく、弱虫の下らない手垢だ、と切って捨てていたが、長太郎は許せなかった。例え身に受けた姉がなんらダメージとしなくても、そんな卑しいつぶてが姉に向かって投げられることが我慢ならなかった。洟をすすりながらスカートの汚れを払い落とし、湧き上がる憤りに歯を食いしばる弟に、姉は膝を折って目線を合わせ、「長太郎は優しいな、本当に優しい」と星を仰ぐような微笑みで称えた。優しいと褒められることは間違いなく嬉しかったけれど、姉より優しい生き物など長太郎は他に知らなかった。頭を撫でる柔らかさは、姉の心の柔らかさそのものだった。
 やがて弟が小さな守るべき存在でなくなっても、疑う余地もなくその手は弟のものだった。そして弟も、また。


「長太郎、それはどうした」
 洗い物をしていた姉が、食べ終えた食器を抱えてきた弟の腕にめざとく気がついた。本人でさえ気に止めなかったそれは、少し色が変わり、よくみれば腫れかけている。よく見れば、だ。
「ラケットぶつけた時かな」
 ジャージが長袖だったせいか、練習中には気づかなかった。触れて押してみれば、少しは痛むが、怪我と呼べるほど重くはない。スポンジに洗剤を垂らしながら姉が言った。
「これが終わったら手当てをしよう」
「いいよ、このくらい大丈、」
「長太郎」
「……後で湿布貼るよ」
 満足げに頷いた姉は勢いよく皿の泡を洗い流した。

 姉さん包帯どこ? そっちじゃなくて右の棚に予備がある。手伝うか? 自分でできるよ。
 数分後、だらりと締りのない包帯をぶらさげた弟が情けない顔で助け求めることがわかっていたので、姉は論文に手をつけずにおいた。
「片手で巻くのは案外難しいからな」
 先ほどの不格好さが嘘のように、整った白い帯が腕に巻きついていく。姉の言うとおり、片方の手で形よくほどよく縛り上げるのは容易くなかった。加えて長太郎は昔からあまり器用な方ではない。14となった今、泣き虫も病弱も更生されたが、これは変わらず苦手分野の一部として長太郎の中に留まっている。周りも当人も予想できないくらい成長を遂げた大きな体が、余計器用に動くことを妨げている気がした。姉はその分長けているものがあるから構わないだろうと彼の少しの嘆きを和らげた。
 手際よく動いていた姉の手が一瞬止まる。七針の傷。もうだいぶ薄れてはいるが、完全に消えてはいない。間近で見るのは久しぶりだったのだろう。どんな思いによってかまでは知れないけれど、静かな瞳が揺らいだ。
「もう痛くないよ」
 白い包帯を持った白い手がまた動き出す。
 あの怪我の包帯を変えるのは姉の役目だった。聞き分けの良い姉が、珍しく私がやるといってきかなかったのだ。腕に触れるまだ幼い姉の真剣な目と、包帯を切り落とすハサミの音。
 向かい合わせの、腕に目を落としたままの顔がぽつりと呟いた。
「あの頃は、いくら巻いても包帯がなくならなかった」
 もしかして全身覆えるんじゃないかと思うほど包帯が長くてキリがなくて。だから途中で切って使った。そのくらい、腕が細くて小さかったんだ。
「でももう、ハサミは必要ないんだな」
 頭から尻尾まで過不足なく巻き付けて、綺麗な包装を閉じるようにテープでとめた。弟のために用意された弟のためだけの手のひら。
「きつくないか?」
「うん」
 この後、姉はもう一度弟に問う。ゆるくないかと。
「ゆるくないか?」
 ほらね、と長太郎は泣きたいような気持ちで笑った。
「平気だよ。ちょうどいい」
 長太郎がどんどん大人に近づいて背丈を伸ばしたように、姉もどんどん美しくなった。無愛想なまま、誰よりも強く優しいまま。もうお人形ではない。もう子供ではない。姉ですら、もしかしたらないのかもしれない。彼女は、いつしか弟にとってこの世で一番美しい星になった。
 人の形をした美しい星は目を細めて息を吐き出した。
「すっかり、大きくなったんだな」
 その言葉の端々には、大きくなってしまったんだな、という喪失感が滲んでいた。彼女もそのことに気が付いたのか、一度口を塞いで、ばつが悪そうに弟を見上げた。
「残念そうに聞こえてしまったな。すまん、他意はないんだ」
「チビのほうがよかった?」
 冗談めかして言うと、「まさか」と姉もつられて相好を崩しかけた。が、途中でふと思い至ったように瞬きをひとつ。
「そうなのかも知れないな」
 思わず長太郎は目を瞠る。いや、と姉はかぶりを振って自嘲ともとれる笑みを唇にのせた。
「違うんだ。弟の成長が嬉しくないわけがない。病もなく、丈夫に健やかに育って、何より喜ばしいことには違いないのに」
 そこで言葉を切った姉は、ゆうに180cmを越えた体躯の弟をまぶしそうに見つめてから目を伏せる。祈るみたいに。
「これが、寂しいというものかも知れないな」
 弟のための手のひらは、膝の上で居場所がないように右手と左手が重ねられていた。睫毛が影をつくり、うつむきに合わせて黒髪が落ちる。
「私の小さな小さな弟が、私の手を離れて、私のものだけではなくなってしまうのが惜しいんだろう」
 歓迎すべきことなのに、これではいけないな。
 弟を撫でる手はいつも柔らかい、弟を説く声はいつも温かい、弟を見る眼差しはいつも、星を眺めるようで。
溶け始めた氷の表面みたいに、うっすらと潤いの膜がその黒い瞳を覆っている。姉を泣かせるのはいつだって弟の仕業だ。そして、守ることができるのも。
 こうすることが果たして正しく守ることになるのか、もう長太郎にはわからなかったけれど。これまでずっと姉から伸ばされていた手を、もう小さくはない弟は、もう小さくはない手でつかみに行った。姉の白い手は大きな弟の手の中に収まって、見えなくなってしまった。
「手離す必要なんかないよ」
 姉さんのものだよ、何もかも全部。
 本当は、大きく育った体を盾にして壁にして屋根にして、強く優しい姉を、自分を守る為に強く優しくあり続けた姉を、弟は隠してしまいたかった。沢山の傷を内側に抱えてきた姉を、自分の全部でくるんで棘から守ってあげたかった。七針の傷なんかなんだ。
 姉の顔が歪んで見える。泣いているのだろうか。涙で溶けてしまったのだろうか。
 それはどっちが?
「長太郎は優しいな。ずっと優しい。最初からずっとだ」
 もうお前は忘れてしまったかも知れないけれど。
 泣き虫だったことのない姉が、泣き虫を返上したはずの弟の額に、同じく額をこつんと寄せた。弟のための手のひらに弟の涙が落ちて、姉のための手のひらを姉の雫が濡らす。
「最初の日、私のためにお城を作ってくれたのが嬉しかった。すごくすごく嬉しかった。作りかけの城を全部壊して」
 最後の仕上げの赤い屋根の役目を、私にくれたね。お姉ちゃんが乗せていいよと。
「あの三角屋根をくれた男の子は、私の宝物なんだ」
 もうずっと、
 夜空が星をこぼすように姉は吐露する。その輝きの一粒も落とすまいとして、弟は手の中の手を閉じ込めた。
 姉と弟が縋り付いて抱きしめて拠り所にしていた「きょうだい」が、城の屋根からゆっくりと滑り落ちていく。






 いつか「きょうだい」でなくなる「きょうだい」の