「…あ、」 部室の隅で眠りこけていたはずの先輩が、突然短く声を上げた。 今日、部室に最後まで残っていたのは俺1人で。 少々ばかり驚きながら振り向くと、彼女は重たそうなまぶたを持ち上げてぼんやり窓を眺めていた。 彼女の視線の先 ――― 重く広がる曇り空。 その隙間から、小さな白い影が静かに落ちてゆく。 今年初めての、雪だった。 白 き 砦 に 挑 む 男 「どうりで今日は朝から寒いと思った」 机にもたれかかったままの先輩は別段驚きもせずに、ぼうっと窓の向こうを見ている。 寝ぼけているせいもあるだろうが、その声色と表情にはなんの感情も含まれておらず、ごくごく普通の、いや普通過ぎる反応。 性質的に向日先輩や芥川先輩のように大はしゃぎしそうな彼女が、雨を眺めるような落ち着きぶりだったのが妙に意外だった。 そのことを口にすると、先輩は外に向けた視線を動かさず小さく笑う。 「もう嫌ってほど見飽きてるからね」 そうか、彼女はここに来る前は雪の深い北国で暮らしていたのだった。 親の転職でここへ移ってきたのだと以前聞いたことがある。 「やっぱり向こうは寒いですか」 思わずそんなことを聞いてしまったが、すぐ後悔した。 素朴すぎて、恥ずかしくなるような質問だ。 だが、先輩は馬鹿にすることもなく真面目な顔で「うん、寒いよ」と真面目に答えた。 「でも、東京も結構寒い」 「そうなんですか?」 「あっちは家の中は暑いくらい暖かいんだけど、こっちは家の壁が薄いのか、ずっと薄ら寒い感じがする」 そういうものなのだろうか。 俺は道路が鏡のように輝くという海を越えた北国の冬を知らないので、先輩の言ったことを理解できなかった。 凍るほど寒いのに暑いくらいとは、意味がわからない。 「あっちに比べれば、東京の寒さなんて大したことないかと思ってましたが」 「うん確かに向こうと比べると話にならないけどね。寒いとは言っても、ここは雄弁になるくらいの寒さだから」 意味がわからず首を傾げると、 「冷え込みが過ぎるとね、無言になるんだよ。寒いっていう台詞が吐けないくらい顔がこわばるの」 先輩がおかしそうに俺を見て笑った。 ガラスの向こうを落ちる雪はゆっくりと遠慮がちに、だが決して途切れることなく降り続いている。 外を小走りに通り過ぎる女生徒数名が、空を見上げながら嬌声を上げた。 羽のように舞い落ちるその姿は普段見慣れぬ者の目には、実に幻想的にうつる。 大人になりきれていない俺たちみたいなガキを浮かれさせるのは充分な魅力があるだろう。 チラチラ降ってるところだけ見ると確かに綺麗だけどねぇ、と先輩は以前のことを思い出しているのか眉をしかめた。 「屋根から落ちた雪で窓は割れるし、2車線の道路は1車線になるし、雪かきはやってもやっても終らないし、」 そんなこと俺に言われても、というような雪国苦労話を先輩はえんえんを続ける。 中でも、スキー場のリフトが乗ってる途中に吹雪で止まった、というエピソードを語る彼女の顔は憎憎しさに満ちていた。 雪に対する彼女の根深い恨みは、どうもこれが原因のようだ。 一通り一気に喋り通した先輩は、言うだけ言ってスッキリしたのか肩の力が抜けたように大きく息を吐いた。 なんとなく、俺も溜息を漏らした。疲れたのだ、妙に。 彼女はというと、ネジが切れた人形みたいにしばらく黙って俯いていたが、やがて再び窓の外へと視線を移した。 気温差で、磨かれた窓ガラスがほんのりと曇り始めている。 暖房がききすぎる室内にいるせいで、外の寒さが実感できない。 「…こんな風にうっとりできる暇もないくらい、本当に、心から、厄介なもんだっだけど」 テニスコートにいくつもの雪が落ちては消え、落ちては消え。 無機質な床の上に音もなく吸い込まれてゆく。 幾度これを繰り返せば、一面覆いつくす白い絨毯となるのだろう。 「離れて過ごしてると、その不便さがちょっと懐かしい気もする」 さきほど恨みつらみを語った時とはうってかわって、先輩の瞳は優しかった。 緩やかなカーブを描く睫毛が控えめに震える、とろけそうな瞬き。 恋しい、とでも言いたげな視線はあまりに柔らかで。 何故だろう、その横顔がどうしようもなく遠い。 彼女は、雪に何を見ているのか。 彼女は、雪に何を求めているのか。 彼女は、雪に何を想っているのか。 触れれば消えてしまうような、もろくて儚いそんなものに。 「戻りたいなら、戻ればいいじゃないですか」 思わず、語気が荒くなった。 責め立てるかのような口調の強さに、自分でも驚く。 無意識に発した言葉は、時にわかりやすい形で己の意識をえぐり出すことがある。 そうだ、俺は嫉妬しているのだ。 雪に、ではない。 自分が知り得るはずのない彼女を当たり前のように抱き込んでいる遥か遠い時間に、だ。 白く閉じ込められた過去の記憶には、どう伸ばしても俺の手は届かない。 それがどうしようもなく妬ましく、腹立たしいのだ。 つまりは、ただの子供じみた独占欲。 我ながらなんと女々しいことか。 俺が自己嫌悪に陥ってることにも気付かず先輩はそうだなぁ、と思案するように天井を見上げた。 「…帰ったら帰ったで、すぐにまた雪の多さにウンザリしそうな気もするけど」 上がりすぎた室温をたしなめるように、暖房の作動音が静かな唸りを上げる。 「日吉が一緒に行ってくれるんなら戻ってもいいよ?」 思わず、息を飲み込んだ。 この人は、こんな風に時々とんでもないことを真面目くさった顔で言い出すから、困る。 いや、別に、迷惑だとか煩わしいとかではなく ―――― どう反応したら良いのかわからなくて、戸惑う。 心の奥底をジワリと焦がすものを鎮めるのにひどく手間取るから、困る。 「都会っ子に雪かきの厳しさを教えてやる」 もう先輩は、雪ではなくいつもの顔で俺を見ていた。 「俺は除雪要員ですか、相変わらず人遣いが荒いですね」 何かに開放されたように、俺もいつもの憎まれ口を叩く。 本人には全くその気もないだろうが、助け舟を出されたように感じた。 それを悔しく思うのはまだまだ未熟だという証拠だろうか。 「もうすぐ暖房が切れる頃ですよ。そろそろ家に帰ったらどうですか」 俺の言葉に素直に頷き、先輩はいそいそと帰り支度を始めた。 ふと外に目をやれば、暮れゆく日の最後の光が雲の隙間にしみ込んで空全体が大きく波打っている。 このまま太陽が沈めば、冷え込みは更に厳しくなりそうだ。 「先輩」 床へ落ちたコートを拾おうと背を向けた先輩が振り返ってしまう前に。 俺は自分のマフラーを引っ張るようにほどき解いて、後ろから彼女の細い首にくくりつけた。 かすかに触れた指先が熱い。 それに急かされるように乱暴に巻いたせいで、振り向いた彼女の顔は半分隠れてしまっていた。 唯一晒されている二つの瞳は一瞬驚いたように大きく開き、見たくもない俺の顔をはっきりと映し出す。 彼女は何か言いかけたが、声がやけにくぐもっていることに気付き、慌てて口を覆っていたマフラーをモゴモゴと引き下げた。 「どうしたの、今日すごく冷えるよ?私は寒いの平気だけど日吉は――」 「俺も慣れなければ、一緒に戻れないでしょう」 再び彼女の黒い瞳は、零れ落ちそうなほど大きく開かれた。 そのまま踵を返し、振り向くことなく部室の扉を思いきり開ける。 吹き付けているのか、吸い込もうとしているのか、軋むような北風の凍てつく歓迎が体を襲った。 一瞬身を竦めそうになったが、すぐさま反り返るほど背筋を伸ばす。 口元がこわばるほどの冷気ではない。なんてことはない。 雪ごときに負けていられるか。 冷たい綿毛があざ笑うように飛び交う中、俺は力強い一歩を踏み出した。 雪と戦うあなたに。雪を知らないあなたに。雪から離れてしまったあなたに。 |