帰宅した日吉はまず、出した覚えのない座布団の存在にたじろいだ。
それから次に部屋をぐるりと見渡した彼は、窓の外の見慣れた庭の風景にあるはずのない姿を発見して抱えていた鞄を落とすほど驚いた。

「先輩なんで、ここに」

びくりと振り返ったの頬は冷気のせいか少しばかり赤く染まっていた。しゃがみ込んだ裸の膝の上には飼い犬の足が無遠慮に載せられている。日吉はなんとなくむっとした。犬相手に。
制服そのまま転がり出てきた後輩を前に「おかえり」と間抜けな声を発したは、彼がサンダル履きであることに気付いて物珍しそうに見上げた。足元を隠しながら日吉が睨むと、彼女は慌てて視線を逸らした。

「近くまで来たから借りてた本を返そうと思って。あ、いや、もちろんすぐ帰るつもりだったんだけどその、日吉のお母さんが…」
「ああ大体わかりました」

手を振って話を遮った日吉は軽く頭を押さえた。
人当たりのいい兄ならいざ知らず、厳格そうに構える屋敷の雰囲気そのまま育った日吉にこれまでガールフレンドはおろか女友達すら寄り付いたためしなどない。思春期だというのに女に関して無味無臭、漂うといったらせいぜい汗と畳の匂いくらいだった息子に初めて女の子が訪ねて来たのを見て、母は驚き、いらぬ誤解をしたのだろう。男ばかりの所帯に加え、道場の門下生達に囲まれたむさ苦しい生活では稀な存在である若い娘の訪問が嬉しかったのかもしれない。
だからって何も無理矢理部屋に上げなくても、と間違った母の思いやりに日吉は頭を痛めた上に勢い余って、大体来るなら来ると事前に連絡を寄越してくれないとこっちにも心の準備というものが、などとほとんど八つ当たりに近いことを思った。
溜息を漏らした日吉から恨みがましい念を感じたのか、は申し訳なさそうに小さく肩をすくめる。それを見て、彼女には何の非もないことを思い出した日吉は自分の余裕のなさを反省し、きまり悪そうに「すいません」と一言謝った。ううん、と首を振ったの笑うような声で、流れていた微妙な緊張感がようやくほどけた。
吐いた息が乾いた空気の中で白く凍る。
日吉は脱ぎかけていた上着の前をあわせた。

「それにしてもなんでわざわざ庭に居るんですか。部屋で待てば良かったでしょう」

庭をぐるりと取り囲んで建つ我が家を振り返る。
建物全体が今にも傾きそうな年季の入った日本家屋は、ご近所から武家屋敷と囁かれるだけあっていつ見ても古さに凄味がある。閉め切っていてもどこからか入り込む隙間風のおかげで快適とは言い難いが、それでも外より寒いということはあるまい。

「部屋に一人っていうのもなんか落ち着かなくて。そしたらこの子がこっち見て尻尾振ってるのがみえたから」

若い娘の訪問を喜んだのは母ばかりではないようで、この子と呼ばれた日吉家の一員は未だ膝から手を下ろすことなく、客人の手や首や顔を好き放題舐め上げている。
我を忘れたかのような歓迎を見せる愛犬に「こら」と声をかけると、やっと帰宅した主人の存在に気付いたのか、かけた足そのままに日吉を見上げて無邪気な黒目を一層輝かせた。

「名前なんていうの」
「どんべえ、です」

俺がつけたんじゃありませんから、と視線を上げたが何か言う前にすかさず付け加えた。このカップめん的な兄のネーミングセンスは未だ日吉にとって疑問の残るところである。
は、そうかお前はどんべえか、と話しかけながら柴犬の顔をグシャグシャと撫でた。どんべえは忙しなく舌を出して、ヒンだかフンだかと実に嬉しそうな鳴き声で応えている。初めての客へのウェルカムサービスだとしても、今日はまたずいぶんと熱烈だ。やはり歳若い娘は新鮮なのか、それとも犬という生き物は犬好きの人種が発する並々ならぬ愛情を察知するのだろうかと、千切れんばかりの尻尾を見ながら日吉は思った。
丸めた紙のように顔をぐしゃりとさせながら撫で回す、どこからどう見ても犬好きのは、どんべえに似た毛並みの犬を一匹飼っている。
テニス部の練習が一段落する夕暮れ時、赤い首輪の犬を連れてコート脇を通る姿を幾度も見ているので知っていた。たまに休憩中の日吉に気付くと、彼女が控えめに手を振って来ることもあった。日吉が特にアクションを返さない代りに、盛り上がって手を振り応えるのはいつも部活の先輩連中で、その嬉々とした表情の数々は実に鬱陶しかった。

「散歩は日吉が?」
「兄と交代で」
「足が太くて丈夫そうだね」
「病気ひとつしないのが唯一の取得です」
「それはなにより」

愛犬の健康を思い朝晩2回せっせと散歩に連れ出す日吉兄弟の努力を知ってか知らずか、彼はのんきに肥え太っている。とりたてて食事が多いわけでもないのに何故こうも丸々としているのかと常々日吉は疑問であったが、先日お手を見事に披露したどんべえに目を細めた祖父が魚肉ソーセージをやっているのを見て、それぞれが互いの知らぬところでこっそりご褒美を与えていたことが判明した。
己や家族や門下生など人に対しては極めて厳格なこの家も、どういうわけだか揃って犬にだけ滅法甘い。
子犬をもらいうけるという話が出た時は特に強い関心を示す者はなく、まあ番犬代わりにでもと比較的落ち着いたテンションだったが、蓋を開けてみればこの通り「溺愛」の一言である。蝶よ花よと慈しんで育てられ、気付けば春の花畑のように能天気な犬となってしまった。当然だが番犬としての働きは期待出来そうもない。
しかしかくいう日吉も例に漏れず、夕食の残りを分けてやったり犬小屋に毛布をひいてやったりと日々立派に甘やかしていた一人である為、何事か言える立場にはない。

これ以上膨らんだ体にならないように注意しなければと真剣に日吉が考えていると、ただでさえゆとりの少ない首輪をはちきれそうにしながら肥満体が飛び掛ってきた。
客人からあれだけ可愛がられてもまだ飽き足らず、主人にも構ってもらいたいらしい。
いつもはそれこそ今のとどっこいの犬バカ、飼い主バカとなってどんべえを撫で回しているのだが、やはり普段が普段なだけに人前でそれを晒すのはかなり抵抗がある。とはいってもだらしなく顔が崩れるだとか言葉尻が甘ったるくなるだとかいうわけでもなく、ほんの少し表情が柔和になる程度のささいな変化であるが、それでも日吉は持ち前の矜持の高さで顔の筋肉と気を引き締め、愛犬の顔を数回撫でるだけに留めた。
ずいぶんと控えめな愛撫にどんべえは首を傾げることもなく、満足したように尻尾を振りながらの元へ戻り、ゴロンと腹を見せた。簡単に心を開くというか、本当に警戒心というものがない。
目の前に広がった白い毛並みに、は壊れ物に触れるようにそうっと指を這わせた。気持ち良さそうにどんべえが目を細める。
しばらくそうして腹をさすっていたがそのまま手を休めずに、柴は顔に愛嬌があっていいねと言った。
日吉はうちのは少々知性が足りませんが、とだらしなく寝転がった愛犬を見た。
横たわる薄茶色と白のツートンの絨毯。
ふと、同じ色の毛並みが日吉の頭の中を横切った。

「先輩のところも、柴犬ですか」
「ううん見た目は柴っぽいけど普通の雑種」



「でもいい子だったよ、ずっと」



それはとても感情の色のない、淡々とした物言いだった。
日吉はとっさにを見たが、風に散った髪に邪魔されて表情を窺い知ることは出来なかった。
最後に見たのは秋風に縮こまった一人と一匹の後姿。
冬の訪れと入れ替わるようにその組合せを見かけなくなったことは日吉も気付いていた。ただその時は散歩のコースを変えたのだろうと深く考えはしなかった。
吼えることもなく走り出すこともなく子供に追い抜かされながらフェンスの向こうを静かに静かに歩いていた老犬。おじいさんの手をとる孫のようにリードを携えて、ごくゆっくりと後を追う彼女。
ふたつの背中を追い立てていた風は日が過ぎるほどに鋭さを増し、やがて冷たく肌を刺す木枯らしとなった。
もう、弱りゆくものに優しい季節ではない。
橙に染まった落ち葉が無防備な白い腹の上にひらひら舞い落ちた。
紅葉は赤子の掌ほどの大きさで、まるで腹に手形がついたように見える。それをつまみあげ、は上着のポケットに押し込んだ。夕食の秋刀魚に飾るのだという。

「先輩、寒くありませんか」

は日吉を振り返らず、視線を落としたまま「うん」と頷いた。
日吉は無言で隣にしゃがみ、一見の客人に最大限の服従の意を示す飼い犬の腹に触れた。北風に熱を奪われる中、そこだけ火が灯ったように温かい。普段は意識しない命の温度が皮膚の下で柔らかく脈打ち、ゆるやかに手の平を温めた。

「先輩、」

物言わぬ横顔をじっと見る。

「たまにこうやって撫でに来ていいですよ」

日吉の声もまた平坦だった。
やわやわと滑っていた手が一瞬止まり、またすぐにゆっくりと毛並みをかき混ぜ始める。風の流れる音だけが庭に渦巻き、鳴き声も泣き声も聞こえない。
頷いたはやはり日吉を見ようとしなかったが、二度目の「うん」は少し震えた鼻声だった。
それから二人は何も語らず、夕陽が落ちてゆくのを並んで見ていた。静寂を分かち合うように、音もなく近付く冬の気配に耳をそばだてるように、恍惚の表情で転がるぬくもりの塊の上でふたつの手の平を重なり合わせていた。温かかった。
北風から守るように、日吉は強く握りしめた。
そんな息子の後姿を温かく見守りつつも、声をかけるタイミングを掴みそこねた日吉の母はお茶を載せたお盆を持ったまま長いこと縁側で右往左往していた。


秋が終る。冬がやって来る。その後はまた春の風が訪れる。そうしてぐるぐると繰り返してゆく。
季節も憂いも幸いも混ぜこぜにして、乾きながら潤いながら繰り返してゆく。
白く濁り始めた空が二人と一匹の吐く息を吸い込み、雪を落とす準備を人知れず始めていた。