世 界 は い つ も 残 酷 に 廻 る 薄暗くなり始めた教室には彼女しかいなかった。 扉に背を向け、不自然な態勢で椅子によりかかっている。 眠っているのか、上履きのゴム底と床が擦り合う耳障りな音に振り向きもしない。 呟くような控えめさで呼びかけてみたが、傾いた後姿はぴくりとも動かなかったので、今度は声にはっきりと力を込めた。 「」 沈黙を守っていた小さな背中が、椅子から転げ落ちんばかりに飛び跳ねる。 振り返るというより、ひっくり返ったと呼ぶべき勢いだった。 「あっ、ひ、ひよしか……びっくりした…驚かせないでよ」 飛び出しそうに見開かれた黒い瞳は日吉の存在を映した後、安堵するように幾分か引っ込んだ。 「居眠りなんかしてる方が悪い」 「いやそんな失礼な。別に寝てないし」 それよりこんな時間にどうしたの。 黒板の上にかけられた時計の短針は、いまや5の数字を指している。 日吉が委員会で遅れたと告げると、そうか委員会と呟いて小さく頷いた。 「の方こそ何してんだ、とうに部活始まってるぜ」 一瞬瞳が大きく揺らいだ。 が、次の瞬間には何事もなかったようにいつもの能天気な顔つきに戻っていた。 「うん……や、まあ、たまにはサボろうと思ってさ」 不自然だった。 熱が出ようが台風が直撃しようが、ラケット片手にとりあえずコートへ向かうような並外れたこのテニス狂いが。 朝練はいつも一番乗り、放課後は鐘の音と同時に教室を飛び出して、週に一度の休みの日でさえボールを追いかけているという有様のあのテニス馬鹿一代のが。 「サボる」など、天と地がひっくり返ってもそんな台詞、出るわけがなかった。 「ま、いいから日吉は部活行っといで。早くしないと練習終るよ」 カラリと明るい声に、ああと短く答えた日吉は部活用のスポーツバッグを取りに机へと手を伸ばした。 大丈夫だ。笑っている。 少なくとも笑っているように見せている。 例え偽りだとしても本人が望むならば、表に張り付いた感情の方を汲み取ってやるのが親切というものだ。 それに彼女の言う通り、急がねば終了まであと2時間。 いつでも行える自主練とは違う、いつか超えるべき上の人間とコートに立つ時間は一秒だって無駄にしたくはない。立ち止まっている暇など自分にはない。 だが、どういうわけかその手は荷物ではなく彼女の腕を掴んだ。 「何かあったのか」 本来、他人に干渉するのもされるのも好きではない。 誰かに手を差し伸べたところで、自分がしてやれることなんてたかが知れている。 そう思いながらも、この場を立ち去ることが出来なかったのは、彼女の睫毛がほんのり濡れていたからだ。 は何も答えず、左腕を引っ張られたまま俯いた。 ゆらゆらと、彼女を覆い隠しながら黒髪が揺れ動く。 日吉は掴んだ手に力を込めた。 かすかに腕が震え、途切れそうな音が落ちた。 どうしよう どうしよう日吉 わたし もうテニス出来ないかもしれない 冗談だろと言いたかったが、冗談じゃないことは表情をみればすぐ判断できた。 前髪のベールが外れたその顔は、今にも泣き出しそうに歪んでいる。 震えながらすがりついてくる彼女を両手で支えながら、日吉は必死で言葉を探したが、なにも見つからない。 散々錯綜した後に、ようやっと「なんで」がカラカラの声で口から出た。 情けないにもほどがあるが、本当にそれが精一杯だった。 「足が、おかしい」 「痛いのか」 頷き、「こんな風に痛んだこと、ない」とはしゃくりあげた。 「怪我も捻挫もしてないのに、最近ずっと、痛くて。寝てる時も。走ると、もっと痛い」 「病院には」 「試合出られないって言われたらと思ったら、怖くて行けない」 かろうじてせき止められていた雫は、かすれた声と共に一気に溢れ落ちた。 日に焼けた細い腕を握り締めたまま、今度は日吉が俯く番だった。 無造作に広がるカーディガン。携帯は何故だか開きっぱなし。筆入れから転がったシャープが床へと吸い込まれ、ポキリとあっけなく芯が折れる。 混沌としたその机の上は、主の大雑把な性格をよくあらわしている。片付けるのは向いてないのだと以前言い訳がましく言っていた。 そんな几帳面という言葉から遠く離れたにも、宝物のように扱う特別な存在があることを日吉は知っている。 この春手に入れたレギュラー用ユニフォームを、彼女はいつも馬鹿がつくほど丁寧に畳んでいた。 ああやっぱり言葉が見つからない。 だから嫌だったのだ。 己の無力さ痛感することになるから、踏み込みたくなかった。 「ひよし」 腕の中から漏れる小さな声に、胸がつぶれそうになる。 「どうしようコートに立てなくなったらどうしよう」 「そんなわけ、ないだろ」 彼女への返事なのか、自分に言い聞かせているのかわからない。 無責任だと我ながら思う。 素知らぬ顔で落ちてゆく夕陽をこんなにも薄情に感じたことはない。 尚もは呻いた。 「どうしよう」 「、」 常に太陽の恩恵を受けている健やかな存在が、今は嘘のように頼りない。 まったく馬鹿げた妄想だが、このまま消えてゆくのではないかと一瞬本気で恐ろしくなり、日吉は両手を思わず彼女の背中へと――― 「今もキシキシ音がする」 ―――― キシキシ? 伸ばしかけた腕は、急ブレーキをかけられたように突然失速した。 「キシキシ…?」 思わぬ擬音語にうろたえながらも声を漏らすと、彼女は目をこすりながら、こくりと頷いた。 「……痛むのは、どの部分だ…?」 「ひざ。両膝」 なんだろう、この先ほどとは異なる類の嫌な予感は。 胸を重く支配していた「絶望」を押しのけて、とれたての「不安」を乗せた列車がお構い無しに突っ込んでくるイメージが脳裏に浮かんだ。 それでも日吉は、ごくりと息を飲みながらを見下ろした。 「間接がきしむような、引っ張られるような、」 彼女は鼻をすすった。 日吉は頭を押さえた。 経験のない突然の痛み 両膝 間接 キシキシ 「…、お前それ…成長痛じゃないのか」 「エッ、」 間違いないだろう。 体がまだつくられていない不安定なこの時期には、よく聞く話である。 何の前置きも原因もなく膝が軋んでキシキシと痛み出す―――これが成長痛でなくてなんであろう。 いい加減成熟しきった大人が膝に痛みなんか感じた場合水でも溜まってんのかとただ不安にかられるだけであるが、成長期真っ只中の若者の場合、それは希望溢れた前向きな痛みとなる。 骨や体の組織が追いつかぬほどの成長を遂げているのだ。多少痛みを伴うとはいえ、喜ばしい兆候である。 「成長痛?」 「お前、最近急に背が伸びたりしなかったか?」 「このところ、測ってないから」 わかんない、と視線を右や左に泳がせながらは頷くでも振るでもなく、ぎこちなく首を傾げた。 「急激な成長に骨がついてゆけず膝や関節が痛むことがある……1年の時、鳳も同じように騒いでた」 あの男もずいぶんと喧しかった。 膝が割れるように痛いだの、キシキシミシミシおそろしい音がするだの。 散々テニスコートの脇で呻いて、幸せな悩みでムカツクんだよ!と先輩の向日に力一杯蹴られていた。 そうだ、最初順序立てて一つ一つ聞いてみれば、こんなに意味なく盛り上がることなく話は解決していたはずなのに。 何故こんな高いテンションに持っていかれる前に気付かなかったのか。 の泣き顔に対し、考えていた以上に動揺してしまった自分の不甲斐なさを憎憎しく思う。 苛立ちそのまま、馬鹿だ阿呆だ無駄な時間だった、と一通り責め立ててやりたかったが、一緒になって場の雰囲気を盛り立ててしまったという負い目がそれをさせてくれない。 一体どうしたらよいのだ。 引っ込めることもましてやそのまま背中に回すこともできずにいる中途半端なこの腕は。 涙で濡れていた瞳はいまやすっかりと乾き、力が抜けたような情けない日吉の姿を映していた。 思わぬ事実に驚いたようだったがそれ以上にテニスを続けられるという安心感が勝っているらしく、彼女はなんだかぼんやりとしつつも微笑んでいる。のんきなものだ。 しかし日吉も口には出さないものの、密かに胸を撫で下ろしていた。確かに人騒がせな話ではあるが、何事もなければそれにこしたことはない。 見事に振り回されている己を笑いながら、日吉は呆れと安堵が入り混じる複雑な溜息を吐いた。 「日吉」 「なんだよ」 じいと見つめていた黒目は何か発見したようにひとつ瞬きをし、再びゆっくりと日吉をとらえた。 「……言われてみれば私、背伸びてるかも」 「だからさっき俺が聞い、」 「だって日吉、前はもっと大きく見えたもん」 「―――― あれ日吉、なんでそんなに牛乳飲んでんの?」 「うるさい黙れ」 睨み飛ばされた鳳長太郎は意味もわからずただキョトンとするばかりだった。 |