放課後、日吉は玄関にて不審者を発見した。
一言で言うなら、気配丸出しの忍者といったところか。
背丈より少し高い靴箱に身をかがめながら張り付き、周囲を警戒している。真顔で。
本人なりに忍んでいるつもりだろうが、いかにもすぎる待ち伏せスタイルがかえって人目を引いていた。
悩ましいのはその不審者が、日吉のよく知る人物だったことである。
足早に通り過ぎてしまえば良かったのだろうが、視界に入れてしまったからには一瞬でも足が止まり、運悪く目が合ってしまった。
あ、という先方の表情に対し、日吉はというと顔色ひとつ変えずにさっさと出て行こうとしたので、忍者は隠れ身の術の出来損ないをとき、慌てて靴箱の影から飛び出してきた。
「ま、ひ、待っ、ひょっ、ひよ、ひよし、」
「噛み過ぎでしょう」
行く手を遮るだけで息が弾んでいる。
障害というにはあまりにたわいなく、その気になればすり抜けることなど造作もないが、日吉は甘んじて通行止めに応じてやった。
こうして彼女を見下ろすのは実に久しぶりのような気がした。
「人目を忍ぶなら、もっと身の隠し方を考えた方がいいですよ」
「えっ」
目の前のその人、は意表を突かれたように大きく目を瞬かせた。
反応から見るに、当人は目立っていたことに露ほども気付いていなかったようで、日吉は軽く目眩がした。
「それで何の用なんですか」
もういいやという気分になってぶっきらぼうに声を出すと、彼女はしどろもどろという様子で目を泳がせた。
「うん、今日はその、誕生日じゃない?日吉の」
だからね、あの、と段々尻つぼみになってゆく声を聞いて、束の間、言葉に詰まった。
思い返せば彼女は律儀にも部員の誕生日を記憶していて、誰か彼かがその日を迎えるとささやかに祝っていた。
しかしとうに三年生は引退してしまったし、マネージャー業務から退いた今、わざわざ自分の為に顔を出してくれるとは思わなかった。そもそも覚えてないだろう、と。
頭になかった分、ふいを突かれたように感情が素直に揺さぶられた。無論、その感情は悪しき部類のものではない。
感じたまま喜色を前面に押し出すのも面映ゆく、中途半端な顔色になりながら日吉が礼を言うと、彼女がおずおずと何かを差し出してきた。
またも言葉に詰まった。

『肩たたき券』
ノートの切れ端に走り書きされたそれは、一目でさっき慌てて用意しましたというのが見て取れる、実に「取り急ぎ感」の滲む代物であった。何しろ字が汚いし、定規すら用いられてないキリトリ線の歪みは激しい。小学生でももっと丁寧に作る。
文句を言う立場にはないのはわかっているつもりだ。
祝ってもらえるだけありがたいと、ここは受け止めるべきだろう。
が、過去、鳳にいちごポッキーを贈っていたことを考えると、扱いの違いに顔が引きつった。
「こんな素晴らしいものをどうもありがとうございます………」
自分でも驚くほど低い声が出た。
「お、怒ってらっしゃる」
怯えた顔でが一歩後ずさる。
「別に怒ってませんけど」
「いや怒ってるよ、怒ってないのにその顔だったら恐ろしいよ」
余計なお世話だと一睨みしようとして、まだの様子がおかしいことに気が付いた。妙に落ち着きがない。
「何か隠してますね」
そう言った途端、びくっと身をすくませたはそれまで普通に下げていた鞄を背中へと隠した。そのあからさますぎる行動に、もし万が一国家機密を手に入れて身の危険が迫ったとしても、彼女にだけは決して託すまいと日吉は誓った。
「鞄がどうかしたんですか」
なんでもない、と答えるの声は裏返っている。
「俺の目には何でもないように見えませんけど」
「それはあれだ、眼科に行くといい」
「先輩の冷や汗が見えるくらいには健常です」
「汗、かいて ナイヨ」
あまり日吉は気の長い性質ではない。
取り繕えないくらいボロを出しながらも、なかなか白状しようとしないに苛立ちが爆発した。
「そんなに口を割りたくないなら、」
出来る限りの冷酷な台詞を放ってやろうとして、

「絶交です」

なに言ってんだ!
口に出した直後、日吉は頭を抱えたい衝動にかられた。絶交って。いくつだ。
どうもが絡むと、ついムキになって普段考えられないような馬鹿げた真似をしでかしてしまう。そうだ、彼女が子供じみた反応をするから、つられるのだ。断じて自分のせいではない。この人が悪い。
脅し文句としてまるで成り立っていなかったはずの日吉の言動に、しかしはクスリと笑いもしなかった。
笑うどころか、一瞬目を丸くした後、さっと顔を曇らせて考え込み、うんうんと唸っている。八の字に歪められた眉がほとほと困り果ててるように見えた。明らかに「絶交」を本気で受け止めている。
小馬鹿にされようものなら舌打ちでもしてこの場から離れてやるつもりではあったが、こうまで真に受けられるのもそれはそれで参ったというか、小動物をいびっているかのようで気がとがめた。
「……先輩今のは、」
口を開きかけたその矢先、意を決したような眼差しが日吉を見た。
さっきまでひた隠しにしていた背後から、手提げの紙袋が飛び出し、眼前に突きつけられる。
「え、あの」
面食らった日吉が伺うような問いかけをしても、は俯いた姿勢のまま、黙りこくって動かない。差し出された腕だけがまっすぐこちらに向いている。
なんとなく逆ってはならないような気がして、素直に受け取ると袋の隙間から灰色の塊が見えた。
中にはミトン状の毛糸の手袋がひとつ。
ひとつ?
思わず日吉はは見遣ったが、彼女の視線はまだ床へと落ちていた。何故かその身は何かに堪えるように、ふるふると小刻みに震えている。
意図が読めず、日吉は再び片方だけの手袋を眺めて、はたと気付いた。
手袋の編み目は、規則正しく整ってはいなかった。
機械的とはほど遠い、ところどころ不揃いな。
「………て、あみ?」
突如、破裂したような悲鳴を上げて、は上履きのまま玄関から飛び出していった。



聞き及んでいた体育2という成績が信じられないほど、の動きは機敏だった。うわあああとかいやああとか散々わめき散らしながら駆ける様はさながら猪。日吉もそれなりに本気で追いかけたはずだが、不思議なことに全く追いつけなかった。人は追いつめられてこそ真価を発揮するものである。
とはいえ、火事場の馬鹿力的なものがそう長く続くわけもなく、ほどなく暴走は止んだ。
では捕えることに成功したかというと否で、敵は強かにもスタミナ切れに陥る前に身を隠したのだった。逃げ込んだ先は、慣れ親しんだテニス部の部室である。
我を忘れた中でもここに足が向くとは、三年通い続けた習性だろうか。
まだ日吉との間にマネージャーと後輩の関係が成立していた頃、病欠だとか校内行事などを除けば、彼女は誰よりも早く部活に来ていた。
いつもベンチの隅っこに座ってはなんらかの形で手を動かしていて、一番乗りを確信しながら扉を開けた日吉を早いねと感心したような微笑みで出迎えた。
しごかれ磨かれふるいにかけられ、今やずいぶんと減ってしまったが、日吉が入部した当時、名門氷帝の名に憧れた入りたての一年坊主が山とあふれ返っていて、ずらりと並んだ新入部員が一人一人挨拶するたび、彼女がいちいち律儀ににっこりと笑い返していたのをよく覚えている。
ずいぶんと呑気そうな人だと思った第一印象はその後も覆されることはなく、朗らかでどこか間の抜けた存在であり続けた彼女は時に迫力なく怒り、時にひっくり返るほど笑い、時に心臓を突き刺す寂しそうな顔をして、渦巻く緊張感と闘争心を和らげたりかえって煽ったりといいように日吉をかき回し、他の三年生と共に潔くテニス部から去っていった。
いくら急いで部室の扉を開いても、もうベンチの隅には誰もいない。

日吉は乱れた息を整えて、ドアノブを握った。
内側から施錠されでもしたらお手上げだったが、そこまで頭が回らなかったのだろう。ノブは簡単に回った。
日がゆっくり落ち始め、室内は明るさを失いつつある。
がらんとして、見回しても人影はない。
考えるまでもなく、日吉は壁に沿って整然と並ぶロッカーの群れに目をやった。
往生際が悪いと言おうか、詰めが甘いと言おうか。
一番向こう側のロッカーの隙間からカーディガンの裾が覗いていた。
玄関での件といい、つくづく人を欺く素質に欠けている。
あがくだけ無駄なんですよ。
暗闇で息を殺してるであろう彼女に思い知らせるつもりで、出来るだけ大きな足音を立てて近付いてやった。
籠城するにはあまりに薄っぺらい砦。
その扉にゆっくり手をかけた。

ノーーーー!!

ロッカーが叫んだ。
咄嗟にかけた手を引っこめた。
「ダメ!!ストップ!!やめて!」
「ちょ…っ、暴れないでください!」
狭苦しい中で激しく抵抗しているらしく、ガタガタとロッカー全体が揺れた。中身が暴れてるだけとはいえ、ロッカー単体が縦横に震える様はまるでポルターガイストで、いささか心が躍った不気味だった。
しかしいくら立て篭もっているのが目上の先輩かつ元マネージャーとはいえ、現部長として大事な備品を壊されてはたまらない。
「壊したらあんた自腹切って下さいよ!」
我ながらせこい物言いだとは思ったが、せこいのは相手もまた同じだったようで、すぐに大人しくなった。
安堵か疲労か、盛大な溜息が出る。
「いいですか開けますよ」
押し黙ったロッカーに日吉は再び手をかけた。

「……開けないで」
今度は一転してか細い声がした。
相手の弱点を突くという点では、このしおらしさは怒号や罵倒よりはるかに効果的だ。無理矢理こじ開けてやろうという意志をいとも簡単に挫く。
日吉が手を離すことも思いきって開くこともできずにいると、そのしおらしい声が不穏なことを言った。
「開けたら爆発します」
「……なにが爆発するんですか」
「関東地区、とか」
わずかな息継ぎの気配。
「る、涙腺とか……」
それは困る。
前者もどうかと思うが後者には更なる威力を感じ、日吉はそっと手を引いた。
かといってその場から離れるわけにもいかず、忌々しくも彼女を匿う薄い鉄板と黙って向き合った。
しばしの沈黙のあと、身じろぎするような物音が扉越しに聞こえた。流石に息苦しいのだろう。そもそも人が入るようには作られてはいないのだから。
もういい加減出てきたらどうかと促そうとした時、あのね、と再びロッカーが囁いた。
「なんか、さっき、ちょっとパニックだった」
普段通りの声色に日吉は幾分かホッとしたが、それは悟らせないよう無愛想に答える。
「ちょっと?」
「だいぶパニックだった」
そうみたいですね、と言うと、うんごめんなさい、と実に彼女らしい素直な返事が戻って来た。
もう嵐は去ったのだろうか。
日吉は右手を伸ばし、今度は開こうとしてではなく、ただ手のひらで扉の表面に触れた。
「何も言わずに逃げられて、わけがわかりません」
「うん」
くぐもった声が近くなった。
さっきまで奥へ奥へと逃げ込んでいたのが、今はすぐそこにあると感じる。
「言おうとしてたこと、今から言うから聞いてね」
すう、と吸い上げる音がしたと思ったら、は一息に喋り始めた。

「あれは手編みです」

「ひ、日吉の誕生日にあげようと思って、一ヶ月前から編み始めました」

「肩たたき券は、手袋をあげられなかった時の代打です」

「片方しかないのは、間に合わなかったからじゃなくて、編むのをやめてしまったからです」

「編むのを、やめてしまった理由は、」

ここで彼女の声は詰まった。
日吉は辛抱強く次の言葉を待った。

「て、手作り系、特に手編みは重い、怨念が詰まってそうって、男子が話してるのを偶然聞いたから、です」

一仕事を終えたように、は大きな息を吐き出した。
どこの誰だか知らないが、とりあえず日吉は心の中でその男子とやらをめった打ちにした挙句縛り上げて重石を結び、琵琶湖に沈めた。
これを逆恨みという誉められた行為でないのは重々承知している。ただ今この瞬間、もし体得した武術を試すならこいつランキング堂々第一位に躍り出たことは間違いない。
とはいえ、怨念は言い過ぎだとしても、その意見には日吉もおおむね同意だった。
好意を寄せた特定の相手でもない限り、あまりに手間暇かけて贈られるのは、同じだけの思いを返せない分、正直手に余るものだ。しかしそれはあくまで一般論、どんな場合でも適用されるわけではなく、勿論例外がある。
好意を、寄せた、特定の相手、でもない限り。
「あげられないと思っても捨てるに捨てられなくて、でも日吉の目に触れたら触れたで猛烈に恥ずかしくなった……」
思い出して羞恥に震えたか、ロッカーから弱々しい悲鳴が漏れ聞こえる。
それを耳にして、置き去りにした炭が発火するごとくにカッと熱が来た。
一ヶ月前から、手編み、手袋。
反芻すればするほど、頬が赤くなる。
と同時に、過去、彼女が忍足に眼鏡拭きを贈っていたことを思い出し、扱いの違いに自然と口元がゆるんだ。
懸命に手で口を覆いながらも、日吉はこの時初めて、ロッカーという壁の存在に感謝した。とてもじゃないがこんな顔は見せられない。
扉の向こうで後輩が赤面と戦っているとも知らず、尚もが発する声音には覇気がなかった。
「あの、あれだったら、捨ててくれても、いいので」
「捨てません」
「じゃあ、その、日吉家の鍋つかみにでもして下されば……」
「しません」
一刀両断の受け答えに怯んだのか、でもあんな片方だけじゃ、との声が情けなくなった。
そこへ被せるようにして日吉は言葉を重ねた。
「来年もう片方編んで下さい」
それまで大事に保管しておきます。
間違っても聞き逃すことがないであろう、きっぱりとした口調で言いきった。
ただ追いかけるばかりでは能がない。時には強引な先回りも必要だ。つかまえるために、今までどれだけ走らされてきたと思ってる。
何度も追い払われてきた堅牢な門に、日吉は今度こそしっかりと手をかけた。
「開けて、いいですか」
「……うん」
「爆発しないで下さいよ」
「……うん」
慎重に開いたドアはギシギシと音を立てた。
眩しそうにこちらを伺うと目が合って、
目が合って、
目が合って、

「……爆発してるじゃないですか!」
「ちがっ、これは、誤爆、」
今頃誤魔化すように、カーディガンの袖口が頬や目尻を忙しなく拭い始めたが、もう遅い。
その赤く濡れた目は、油断の隙を突いて、やすやすと日吉の息の根をとめた。
抱きしめるべきか優しくなだめるべきか愛に満ちた言葉を囁くべきか、と到底越えられないそうもないハードルの高い選択肢が去来し、肩に手を伸ばしたり引っ込めたりのわかりやすい葛藤を繰り広げたが、やはりいずれも実行できず、ついには短く呻いて日吉はごとロッカーを閉めた。
「ひ、日吉さん?」
「なんですか」
「開けてください」
「今は無理です」
理不尽と自覚しながらもしばしの猶予が欲しい。
開こうとする扉に両手をついて押し返しつつ、日吉は今になってあの時のの気持ちを少しばかり理解した。
非難か抗議か、向こう側から扉がけたたましく叩かれる。
「日吉!」
ちょっと待てと言いかけた日吉に、鼻をすすった泣き笑いの声が囁いた。
誕生日おめでとう。
「………ありがとう、ございます」
ずるずると。
降参するような気分で、日吉はロッカーにもたれかかった。

不幸にも、たまたま通りかかった者がこのやり取りの一部を目撃してしまい、「ロッカーと話し込んでいた男」として、ややしばらく部員達に遠巻きにされる日々が続いたりするのだが、日吉がそれを知るのはもう少し先のことである。