汗ばんだ顔をタオルで覆ったまま柳はふう、と短く息を吐いた。 視界を左手で塞いだまま空いた片手を手探りで彷徨わせると、いつものように冷えた感触が手の平に広がる。 前半の練習メニューで上昇した体温の中を、甘く冷たい水分が通ってゆくのを感じた。 「柳先輩、柳先輩」 ドリンクの容器が空になった瞬間、という見事なタイミングの呼びかけに軽く驚きつつ顔を上げると、見慣れた後輩が見慣れない姿で目の前に立ちふさがっている。 「…どうしたんだ、ノートなんか持って」 もう1年以上マネージャー業をこなしているくせに、このが記録やスコアをつけることはまずない。 恐ろしく数字や計算が苦手という理由で、細かいデスクワークをすべて参謀の柳や副部長である真田に任せ普段は洗濯物だのペットボトルだのを抱えて走り回っている。 そんな肉体労働専門と呼べるような彼女が部活中に筆記用具を持つ姿というのはかなり稀だ。 「なにとぞ、ご協力お願いします」 柳から向けられる物珍しそうな視線をものともせずに、はペコリと小さく頭を下げる。 「アンケートにお答えください」 「アンケート?」 「柳先輩風に言うと、データ取らせて下さい」 返事も待たず、は手元のノートを捲りながら柳の隣へと腰を下した。 「…」 「はい」 「それは部活と関わりのあるアンケートか?」 「いえ全然」 気持ち良いくらいの否定である。 「とある、柳先輩を慕う方たちから調査依頼を受けてしまいまして」 先輩への質問項目が書かれたノートを渡されてしまいました、とは手にしている大学ノートを柳に見せた。 折り目一つない真新しい紙の上には、様々な彼への問いが女の子らしい丸まったような字でいくつも並んでいる。 柳はそれに一瞬だけ視線を投げ、その後すぐにへと細目を戻した。 「……」 「はい」 「餌付けされたのか」 「その通りです」 今度は清々しいまでの肯定である。 「普段なかなか手が出ない購買の天むすを頂きまして」 おいしかったです、と満足そうに語る彼女の口元に光る一粒の米つぶ。 「それにしても鋭いですね柳先輩。流石です。怖いくらいです」 「…まあな」 教えてやればいいものを、なんとなく真実を告げる気になれない柳はそのまま流した。 「とにかくそういうわけで、報酬をまんまと胃の中に治めてしまった私はもう柳先輩にご協力頂くほか道はないわけで。どうぞひとつよろしくお願いします」 口調は丁寧だが、有無を言わさぬ大変な圧力な上、言い分がさりげなく身勝手である。 当の本人にとってはなにひとつメリットがない、かなり割に合わない申し出なのだが、たやすく断れそうもない雰囲気を察した柳は諦め半分でとりあえず頷いておいた。 「まず1問、柳先輩の好きな食べ物は何ですか?」 「そうだな…薄味のものか」 薄味…と繰り返し呟きつつノートに書き込んでいたがは、やがて顔を上げた。その表情はやや渋い。 「なんか漠然としすぎてる気が…もう少し具体的にお願いします」 「急にそう言われても」 「えーと…じゃあ湯葉とか書いておいていいですか」 「なんでいきなり湯葉なんだ…別に嫌いじゃないから構わないが」 なんとなくイメージですよ、とはノートに視線を落としたまま『薄味(湯葉が大好き)』と勝手に書き込んだ。 求めている相手に対して明確な情報を与えようとする誠実な姿勢は評価に値するが、回答を捏造するのはどうなのだろう。 「じゃあ二つ目、休日は何をしてますか」 「テニス以外なら読書、もしくは書道だな」 「書道…ああ、なるほど、柳先輩と真田先輩は筆字の年賀状でしたよね」 去年の正月、宛に送られてくる他の部員や同級生からのカラフルな年賀状の中でその2通はかなり異彩を放っていた。 最初受け取った時は担任の教師からのものかと勘違いしたほどある。 とても中学生とは思えないセンス、そして筆運び。 浮かれてハッピーニューイヤーなんて書こうものなら、硯で殴られそうだ。 「一瞬読めないくらいの達筆でビックリしました」 「俺は俺で『今年もよろしくお願いしま』で終ってるの年賀状にビックリしたぞ」 本人は「す」まで書いたつもりになっていたらしい。 投函する前に確認していないあたり、年末追われるように書き終えたことを自ら露呈するかのようなミスである。 「…そんなことよく覚えてますね、柳先輩」 が悔しそうに呻くと、柳は何も答えずに細い目を更に細めて微笑んだ。 さきほどまでの汗はもうすっかりひいたらしく、風のように涼しいその表情は太陽の熱を忘れさせる。 確実に季節は夏だというのに、彼のまわりだけが夕立の後のように空気が冷えている気がした。 「続けないのか?」 「あ、はい」 そよそよと柳から流れてくる涼風で一休みしていたは、自分の任務を思い出し再びペンを握った。 「ええと、好みのタイプを教えてくださ…」 読み上げる途中で「あ」とは短く声を上げ、 「これ確か、計算高い女でしたよね?前仁王先輩が言ってました」 と、確認するように目を合わせてきたが、腕を組んだ柳は黙ったまま僅かに眉根を寄せた。 「あれ。違うんですか」 これは問題ないと判断し、次に進もうとしていたはやや面食らいながらも紙の上でペンを止める。 「以前はそう答えていたんだが、今は少々事情が変わった」 柳の含みのある返答には一瞬訝しげな顔を浮かべたが、すぐに書きかけた言葉を黒く塗りつぶした。 「…まず、計算が得意じゃない」 「初っ端から真逆ですね」 「それから、意外と押しが強い」 「押しが強い、と」 「あと…食い物にすぐ目が眩む」 「…………なんか、変わった趣味ですね柳先輩」 「俺もそう思う」 怪訝に思いながらも一応言われたとおりに書き記してみたが、こう羅列してみるとかなり不可解かつ具体的なタイプである。 しばらく紙の上に並んだ「柳先輩の理想」を眺めながらなにか考え込んでいただったが、やがて、その本人をおそるおそる見上げた。 「……あの、もしかしてこれって、ブン」 「言っておくが丸井のことじゃないからな」 よからぬ台詞の気配を察知した柳は、途中で発言をピシャリとさえぎった。 勝手にあらぬ想像を膨らませて勝手に困惑していた勝手な後輩は、勝手に胸を撫で下ろして安堵の息を吐いた。 一瞬黙した2人の間を、生ぬるい風が通り抜けてゆく。 いったん引いた汗を再び呼び覚ますような熱を含んだ空気に、軽く頭を振り、煽られて流れた前髪を元に戻した後、柳は少し間を開けて会話の続きを語りだした。 「……あと、言い忘れていたが」 「はい」 「どうも俺は粗忽者に弱いらしい」 「粗忽者ですか」 「ああ、そうだな例えば」 一つ息を吐いた柳は、静かに眼を閉じた。 「…年の瀬も押し迫った頃に」 「あ、はい、押し迫った頃」 は慌てて、ノートに向かいペンを走らせる。 「ようやっと焦り出して」 「ようやっと…焦り出して、」 「除夜の鐘を聞きながら、年賀状書きに追われるような」 「除夜の鐘、年…賀…?」 首を傾げながらもオウム返ししていたの声は、台詞を追うごとに段々とか細くなっていったが、構わず柳は言葉を続けた。 「その上うっかり語尾を書き忘れたりする、そういう粗忽者が好ましい」 「―――」 先ほどまでノートを上を滑っていたボールペンはもう動いていなかった。 同様に、それを握っている後輩も俯いたまま微動だにしない。 「どうした。もう終わりか?」 「………まだ、ひとつ残ってるんですが」 硬い声と、白い紙の上に伸ばされた遠慮がちな人差し指。 「ふむ」と小さく相槌を打った柳は、未だ下を向いたままのからノートとペンを取り上げ、流れるような仕草で書きつけた。 「これでデータは揃っただろう?」 手渡されたノートをしばらく黙って眺めていたが、やがては実に情けない顔で柳を見上げた。 「……これじゃあ、とても提出できません」 Q. 好きな人はいますか? A.いま口説いているところ |