バスに揺られ始めた時から、おかしいなとは感じていた。
思えば朝起きた時点で、違和感はあったのかも知れない。
停留所をひとつ、またひとつと過ぎるごとにじわじわと体にもたらす変調の波は大きくなり、目的の校門前に着いた頃には立っているのがやっとだった。
転がるようにしてバスから降れば、待ってましたとばかりに襲来する嘔吐感と寒気。
頭のてっぺんから血の気がみるみると下がってゆく。

いかん もう だめ

歪み始める世界に抗えず、バス停にしがみつきながらその場に崩れ落ちた。
登校中の生徒達のものか、周囲の声が遠い雑音として聞こえる。大丈夫かと問われても、とてもじゃないが答えられない。そして大丈夫なわけがない。聞くな。
どんどん混濁する意識の外で、ざわつきを切り裂くような声がした。それを追うように、誰かが駆け寄って来る気配が迫る。
完全に視界が遮断されるその直前、よく知る後輩の顔が見えた。


貧血起こしちゃったのねえと母より年配と思われる養護教諭はのんびり言った。
目が覚めてみると保健室のベッドの上だった。
記憶は全て飛んでしまったわけではなく、断片的には残っている。ただ自分が覚えているというより、余所のカメラのフィルムに残されたものを巻き戻して確認している感覚だ。意識がほとんど内側に向かっていたせいだろう。
「睡眠と栄養足りてる?」
そう言われてみると、ここ2、3日ろくに食べてないかも知れない。
食欲云々の話ではなく、突如として現れた口内炎のおかげである。あれは口内の悪魔。
まあ痛いの痛くないのって、天地がひっくり返るほどの激痛で、食事の際は勿論のこと、就寝時や風呂に入る時など日常生活において四六時中存在を誇示し、うっかり舌で患部に触れようものなら脳天直撃の大惨事を招いた。
あらゆる刺激に敏感に反応するせいで、熱いもの冷たいものは食べられないし、辛味や酸味などもってのほか。普段は歯触りが楽しいフライの衣も、今や急所を蹂躙する凶器である。
固くもなく刺激もなくのど越しの良いもの、と条件をつけると、自然と選択肢は減り、気がつけばゼリーやら飲むゼリーやらこんにゃくゼリーやら、要するにゼリーばかり口に入れていた。しかもおいしく冷やした状態ではなく、どこまでもぬるい。食がすすむわけもない。
そのことを告げると、机に向かって書き物をしていた彼女はあらまあという具合に顔をあげた。
気の毒そうに一瞬肩すくめたが、すぐに少し怖い顔をつくってみせる。
「でも駄目よ、体が出来あがってない時期なんだから。しっかり食べないと」
「ですねえ。ちょっとご飯ぬいただけこんな」
「落ち着いたら病院で点滴打ってもらいなさい」
それはいささか大げさだし煩わしくも感じたが、かといって、滋養のあるものを無理やり口に突っ込まれて悶絶したいかと問われれば答えは全力で否である。想像しただけで、口内が爆発しそうだ。さっきとは違う意味でぶっ倒れる。
多少面倒でも、ここは大人しく忠告に従うのが賢い選択だろう。
素直に頷くと、幼い子を寝かしつける様に布団を肩までかけ直された。
もう少し寝てるといいわ。そう微笑んで彼女は書類の束を手にしたまま、部屋から出て行った。

一度目が覚めてしまうと、慣れない環境で真昼間にそう簡単に眠れるものではない。
とはいえ、起き上がろうという気にもならない。
しばし瞼を閉じ、眠気が訪れるのを身動きもせず待っていると、保健室の扉が遠慮がちな音を立てるのが聞こえた。
もう戻ってきたのかと薄目を開けると、そこに居たのは、途切れた意識が最後に見せた件の後輩、日吉若だった。

聞いたところによると、日吉はあれから本格的に倒れてしまった私を抱えて、ここまで届けてくれたらしい。
よほど慌てていたのか、この保健室の引き戸を必死で押し開こうとしていたという。がたがたと理不尽な苛立ちで揺らされた罪なき扉よ哀れ。
あんまりな勢いだから蹴破られるかと思っちゃったわウフフと彼女は語っていた。笑ってる場合か。
その話を聞いて、ありがたいと感じたのは勿論だが、同時に、朦朧としていて助かったともと思った。
さすがにお姫様抱っこではなく、背に乗せたおんぶの形ではあったらしいが、それにしたって恥ずかしい。
登校時刻という生徒がイワシのように群れている中を、顔を晒して突っ切った日吉はその30倍恥ずかしい思いをしたことだろう。すまん日吉。本当にすまん。
しかし驚くべきは、ほっそりとした体躯には似つかわしくない逞しさだ。
私はビヤ樽のような重量級ではないものの、小枝のように華奢でもない。それなりに骨太で、本人になんの断りもなく肉厚となっている部分も多々ある。
それを抱えて、バス停からここまで全力疾走を可能にするとは、運動部の体力おそるべし。古武術の鍛錬おそるべし。

扉を後ろ手で閉じた日吉はその場で立ち尽くし、私が声をかけてもなかなか近づく気配を見せなかった。
ここに先生はいない旨を伝えても、知ってますとただ答えるばかり。保健室に用がある風でもない。
「日吉?」
尚も呼ぶと、ようやく日吉は重そうな足取りでベッドの方へとやってきた。
なぜか目を合わせようとしない。
「ごめんねありがと。重かったよね」
てっきり『ええまったく、肩が外れるかと思いましたよ』(ここで鼻で笑う)くらいの憎まれ口を覚悟していたのだが、日吉はハッとしたように顔を上げ、緩慢な動きで首を振った。
「……いえ。あんなの重いうちに、入りません」
声が重い。
日頃からライトさに欠けるキャラクターではあったが、今日は特別にずしりと響き、彼特有の慇懃無礼さもなりをひそめている。病人相手の気遣いともとれるが、それにしてもこんなに殊勝な態度はそうそう見られるものではない。
もしや意識をなくしてる間に、私は何かとんでもない事をやらかしてしまったのだろうか。
とんでもない事とはなんだ。
日吉の背中で吐いたとか愛のポエムを耳元で囁いたとか、そんなところか。
残念ながら想像力が足りず、それ以上のことが思い浮かばないのだが、自分のイマジネーションを飛び越えてしまうような斬新な真似はしてないと願いたい。万が一やらかしていたら、私は切腹するしかない。そして星になりたい。
具合の悪さとは無関係に青ざめていると、日吉はすうっと冷えてゆくように顔色を失くし、目を伏せた。
「すいません」
ぎょっとして私は日吉を見上げた。
謝るべきはこちらの方で、日吉から詫びを入れられる覚えなどひとつもない。あるとしたら日頃の敬いゼロの態度についてだろうか。とはいえ、わざわざ今この状況下で出る話とは考えにくい。
私が言葉を挟む暇もなく、続けて発せられた日吉の声は掠れていた。
「あれは、そんなつもりじゃなかった」
本気で言ったんじゃないんです。
長い前髪が遮って、日吉の表情がはっきりとわからない。愉快な顔ではないことは確かだろう。
一体この子は何を言ってるんだ。あれってなんだ。
さっぱりわからないのだが、一言一言に切羽詰まった焦燥が絡んでるように聞こえ、どうしてか心を締め付けた。
いつも人を年上とも思わない不遜な後輩が、今は身の置き場のない子供のように見える。
日吉らしくもない。
「ひよ、」
「無理して痩せる必要なんてありません」
「えっ」

最速で回転しながら答えを検索していた脳の電源が一瞬落ちた。
だが、思いのほか再起動は早く、閃くように日吉の言動と記憶に残された数日前の出来事が繋がった。
忘れていたのも無理はない。
別段特筆すべきことのない、日常に埋もれるたわいないやり取りだったからだ。
その日部室には、ジローと岳人がそれぞれ女子からもらったという菓子がこんもりと積まれていて、私はまあ勧められるままというか、積極的に施しを受けに行ったというか、とにかく口いっぱいに頬張っていた。
傍から見れば飼育係と飼いならされたカバとかそんな感じだったろう。
部室で準備をしていた日吉は、一瞥をくれていつものように辛辣に言ったわけである。そんなに貪ってるからぶくぶく肥えるんですよ、と。
もちろん私も一応年頃の娘さんなので、体重の増減は常に意識するところである。しかも言われた相手が日吉。乙女心にぐさっと来なかったといえば嘘になる。
だが、彼の気質を思えばこの程度の暴言は珍しいことではないし、何より直後口内に活火山の存在を確認してしまったため、全て吹っ飛んでしまった。
しかし時期としては完全に被っている。日吉が誤解してもやむを得ない。
あんな発言の数日後、明らかにやつれて倒れられては焦りもするだろう。
だが私はもっと焦っていた。
考えてもみて欲しい、ささいな一言で思い詰めた挙句意識を失うほど絶食に走る女。
重い。重すぎる。そして怖すぎる。
「ちょ、違っ……!」
取扱注意の警告文が貼られた存在として認識されることを恐れた私は、勢いよく跳ね起きた。
しかし急に半身を起こしたせいか、血が一気に下がり、目の前を暗闇が襲う。
先輩、と叫ぶように飛んできた日吉の手が、ぐらりと後ろに倒れそうになった私を支えた。
まずい。無駄に調子の悪さをアピールする結果になってしまった。これではますます加害者(と思い込んでいる日吉)を追いこんでしまう。
「いや、これは日吉のせいじゃなくてね」
口内炎がね、と半ば必死になって患部を見せようと口を開きかけたが、
「下手な嘘は要りません」
と即座に手でふさがれてしまった。
嘘ちがう!
私が語った揺るぎない真実は、なぜか日吉には相手を庇わんが為の虚偽として伝わったらしい。お前の中の私はどれだけ健気なんだよ。
「……日吉さん、私ただの貧血ですよ?」
「わかってます」
聞こえてましたと小声で呟く。
入って来るその前から、彼は保健室の前でしばらく躊躇っていたらしい。教諭とのやり取りの中で口内炎の件もしっかり触れたはずだが、どうもそこだけうまい具合に耳入らなかったようだ。残念過ぎる。
ふいに、私の手首を捕まえていた五指の力が強くなった。背中を支えていたもう一方の手も、だらりと置かれたままの片腕に伸び、同じように握る。
意識したことのない日吉の手は存外大きく、私の手首はすっぽりと覆い隠された。こんなに自分はか細い腕をしていただろうか。いや違う、掴んでいるこの手が意外なほど骨ばった男の手をしているのだ。
私の思いを読んだのか、簡単に折れそうだと日吉は呻くように言った。
「お、折らないでくれ」
「折るわけないでしょう」
返事はすれども頭は垂れたまま動かない。
電池が切れてしまったような後輩の顔をおそるおそる覗き込んで、私は息をのんだ。
なんて顔してるんだよ。
きりりと整った日吉の精悍な眉も先を見据える強かな瞳も、何もかも今や痛みに耐えるような懺悔の色で押しつぶされそうになっていた。泣いてはいない、泣いてはいないけれど。泣くより痛々しい。
ここに至ってようやく気付いた。

そうか、日吉、

私を傷つけたと思って傷ついたんだね。

言葉が宿す威力は大きい。
多くの場合は投げる側よりも、良くも悪くもその威力をまともに食らった方にこそ根強く残るものだ。けれどこちらが忘れかけていたたった一言を、発した日吉が律儀にも覚えていた。
おそらく本意ではなかったのだろう。言ってしまってからずいぶん後悔したのかも知れない。相手に向けて放った小石は、倍の速度でもって自分へ跳ね返って来る。
私が倒れたことによって、それはついに刃となって日吉の身を刺したに違いない。
今朝一瞬だけ記憶に焼きついた、駆け寄って来た時の日吉を思い出す。どちらの具合が悪いのかわからないくらい、真っ青な顔で私を見ていた。
いくら私が君に非はないのだと説明しても、きっと未熟な切っ先を向けてしまった時点で、彼の中では自分の罪なのだ。
手首に巻きつく力はすでに弱い。
みっともないことを誰より嫌う高潔な男が、一体どんな顔をして私を担ぎ上げながら廊下をひた走ったのか。
「日吉は優しいね」
「俺は、優しくなんかありません」
まるで振り絞るように吐かれたそれは、何故か逆に『優しくしたい』と聞こえた。
日吉が自分を良く見せる為の上っ面の優しさを持ち合わせてないことは知っている。
日吉が相手の傷を見ない振りをして、でもやっぱり振り返ってしまう優しさを捨てられないことを知っている。
加えて、情にまかせて頭なんか撫でたら、きっと怒ってへそを曲げるだろうことも知っている。
そもそも両手が拘束されたこの現状ではそうしたくても出来やしない。
慰めるように慈しむように、私は難儀な性格の後輩の頭に自分の額をくっつけた。
伝わる体温が一瞬震える。
「ごめんね日吉」
ごめんごめん口内炎でマジごめんと一粒で二度、胸中で詫びる。
必要とあらば何本でも点滴を打つし、数日抜いた分の食事を飲む勢いで平らげたっていい。
もう二度とこんな顔はさせない。
そしてもう二度と口内炎に出番はやらない。たかが腫れもの風情が、許すまじ。今日をもって撲滅する。
「大丈夫だよ。もう大丈夫」
唱える様に繰り返すと、頑なに垂れていた頭がゆっくりと上がり、熱を湛えた双眸が前髪の隙間から姿を現す。
音が鳴るほど強く視線がかち合ったが、今度は伏せられなかった。
実を言うと喋った際に舌が口内炎を刺激し、地獄の痛みが全身を駆け巡っていたのだが、それは気合いで全てねじ伏せて、私は自分にできる精一杯の笑顔を見せた。
一度ゆるんだはずの指が力を取り戻し、再び手首は閉じ込められる。さっきまではひやりとすらしていた感触が、今は熱い。
先輩、と控え目に唇が動いた。
すうっと幕が閉じる様に影が落ちる。
顔が、
かなりというか、だいぶというか、相当というか物凄く、顔が近い!!
「手伝ってもらって悪いわねえ」
「気にせんとって下さい」
無遠慮に扉が開かれる音と、聞き覚えのある関西弁が同時に保健室に斬り込んだ。
刹那の沈黙。

「日吉が寝込み襲っとるー!!」

おしたりっ、と敬称をもすっ飛ばして呻いた日吉は、早々に逃げ去った標的を追うべく、弾丸のように飛び出していった。勢いに巻かれて、ベッドにくくりつけられたカーテンがふわりと舞う。
騒がしい足音とともに遠ざかる背中を見送りながら、あらあら病人相手に駄目よう、と養護教諭はころころと笑った。
だから笑ってる場合か!
弁解しようとしてまたしても口内の逆鱗に触れてしまった私は、枕の上で声もなく七転八倒した。