――― ア ウ ト  
       フ ォ ー カ ス ―――







を起こしたのは、廊下を通り過ぎたいくつかの笑い声だった。
少し休むつもりが、いつの間にか眠ってしまった。ああいけない、と霞がかった頭で思う。
寝ぼけ眼でまくら代わりにしていた腕を伸ばしたら、何か当たる感触がして、直後遠くでカツーンと音がした。
顔を上げると、手元に置いたはずの眼鏡がなかった。
眠気は吹っ飛び、即座に立ち上がって見回すも、ぼやけた世界が広がるだけ。
すぐそこに積まれた本のタイトルすら判読が怪しいこの視力で、どこへ飛んで行ったかもすら曖昧な探し物を見つけられるはずもなかった。
静まりかえった図書室には、人の姿はない。
だからこそ、この返却カウンターでうたた寝などという緊張感のない真似ができたのだ。
電灯もつけずにいた室内は、泣きだしそうな空模様を吸い込んだように薄暗かった。茫然とカウンターで立ちつくすのお先も暗かった。
そこへ控え目な足音と共に扉が開く気配がしたので、咄嗟にはそちらへ向きながら叫んだ。
「すいません閉館時間です助けて下さい足元お気をつけて」
切羽詰まる余り、言いたい事をいっぺんに詰めすぎた。
蜃気楼のごとき不確かなシルエットが、一瞬躊躇するように固まった。
?」
男の声。その声には聞き覚えがあった。
しかし何故か視界が歪むと聴覚にまで自信が持てなくなるもので、それが誰か言い当てることができず、は頼りなくも首をかしげた。
白い影は扉を越えてゆっくりとこちらへ向ってくる。近付くにつれ、ぼやけた輪郭はだんだんと明瞭な形を示した。その背の高さとネクタイの色から、かろうじて同学年の男子生徒であろうとは判断できた。
「電気をつけてないのは何か特別の意味があるのか?それとさっきの助けてくれとは」
カウンターの前までやって来た、皺のないシャツと結び目まで美しいネクタイが囁く。
くっきりは見えずとも、落ち着いた気配や雰囲気がにその存在を教えた。
「柳………?」
疑問おびただしい物言いと極限まで寄せられた眉間の皺に対し、何を今更と彼は言いかけて、すぐにああ、と腑に落ちたような声を出した。
「見えないのか」
「いや全く見えないわけじゃないけどね、まあその、見えない」
「どっちだ」
「7割そうだと思うけど3割確信が持てない感じ」
伝わる気がしないの説明に、柳はふむ、と大層真面目な受け答えを返した。
「眼鏡はどうした」
「あっそうだっ、柳まさか踏まなかったよね!?」
食らいつくように尋ねると、流石にわずかだが声に焦りが滲んだ。
「コンタクトを落としたのか?」
「眼鏡だよ」
いくらなんでも眼鏡踏んで気付かないわけがないだろうと柳は憮然とした。ように感じた。残念ながら、ただでさえ変化に乏しい彼の表情の機微を今の視力で読み取れる自信はない。
何故眼鏡を紛失するのかと不思議がられたので、迂闊にも寝起きにぶっ飛ばしてしまったことを告げると、なるほどらしいなと妙に納得されてしまい、それはそれで複雑な思いがした。
「悪いとは思っていたが相当なものだな」
「近眼なのは昔からだけど、どんどん悪くなってるような気がする……」
家族全員裸眼で過ごせる視力を持ち合わせていないので、恐らく遺伝なのだろう。もはや眼鏡やコンタクトが体の一部で、それが当たり前の生活になってはいるが、こうなってしまうと途端に不自由を覚える。失くして初めてわかる、かけがえなのないもの。それは眼鏡。
「正直今こうやって喋ってるけど、ほんとに柳かどうか未だ半信半疑だからね」
カウンターを挟んではいるものの、ほぼ目の前のこの距離感でさえ、手がかりが視覚だけならば本気で危うい。
認識としては、「柳」というよりも、「柳のようなもの」と言った方がいいだろう。
「柳のようなもの」は、それはいささか大袈裟だろうと一笑に付した。
これだから速攻で視力検査が終わるような奴は!
往々にして目が悪い人間はそうでない人種に、やっかみ混じりのコンプレックスを抱いていることが多い。も例にもれず、視力になんら問題を抱えたことのない側の不遜な物言いに若干カチンと来た。
「そんな甘いもんじゃないんだ近眼は。冗談抜きで見えないんだって」
つま先立ちを支えるようにカウンターに手をついて、高い位置のとりすました顔の、その目前まで迫る。
「これくらいの距離でやっと、っていうレベルなんですから」
の視野で初めてはっきりとした姿と持った柳は、寝静まった森のようにどこまでも静穏だ。森は夜風に木々を揺らし、それは失礼したと薄く笑った。
いつもこの調子なので本気で突っかかる気力も失せる。
あっさり毒気を抜かれ、はそのままストンと椅子に腰を下ろした。
「ともかく電気をつけるぞ。これでは見つかるものも見つからない」
が顔の一部を吹っ飛ばしたと思われる方角へ柳が歩き出したので、つられるようにも席を立ったが、一歩目で足元の段ボールの角に脛を打ち付けた。呻きながらうずくまっていると、危ないから動くなよといささか手遅れな忠告の声が降った。
電灯が図書室の隅々を明るく照らした後も、しばらく柳は戻って来なかった。
どうやらに代わって、眼鏡を探してくれているらしい。
カウンターにしがみついて、あった?あった?としつこく繰り返し問いかけてみるも、その度に希望を打ち砕くつれない返事が返るばかり。声はすれども姿は見えず。
「ない?やっぱりない?」
「見当たらないな」
「外側が紺色で内側が白っぽいフレームだよ!?」
「ああわかってる。それに見分ける特徴が必要なほど眼鏡は落ちていない」
やがての元に戻って来た柳の手には、残念ながらというか、やはりというか、眼鏡はなかった。
それほどの勢いで弾いたつもりはなかったが、何しろ寝ぼけていたので記憶が曖昧だ。運悪く、目につきにくい隙間に入り込んでしまったのかも知れない。
定刻通りの鐘が、校舎を軋ませるように鳴り響いた。
は反射的に時計を見上げようと乱暴に席から立って、また脛をしたたかに打ち付けた。どうせ見上げたところで眼鏡がなければ見えないというのに全く無駄な負傷だ。
「大丈夫か
「うぐう……それよりいま何時……」
柳が知らせた時刻は、の帰宅予定をとうに過ぎていた。再び立ち上がろうとして、今度は途中で気付き、は恐ろしくゆっくりと体を持ち上げた。
「弟、鍵持ってないんだ。早く帰らないと」
おぼつかない手つきで鞄を手に取ると、引っかけてしまったらしくペン立てごと鉛筆やらボールペンやら細々したものがばらばらと床に落ちた。見るに見かねたか、それを拾いながら柳が尋ねる。
「眼鏡はどうするんだ」
「いい、今日はいい。明日また探す。家に予備もあるし」
同じくのろのろともボールペンを拾う。
とりあえず家に帰れば、予備の眼鏡もコンタクトもある。行方不明の眼鏡だって煙のように消えてしまうわけがない。こんな頼りない裸眼ではなく、人並みの視界を取り戻して丹念に探せば、きっと見つかるはずだろう。
それより目下の問題は、果たして無事にゴールへ辿りつけるかということである。
この図書室の中、いや正確には半径一メートルに満たない範囲でしか動いていないというのに、すでに二回すねを痛め、筆記用具をばら撒くというヘマを踏んだ。
通い慣れた道とはいえ、自宅までの距離はそう短いものではない。ましてやこの視力。嫌な予感しかしない。
ふと耳をすませば、控え目ながら雨が窓を叩く音が聞こえてきた。どんよりと滅入っていた空は、ここにきてついに崩れてしまったらしい。
天気にまで見放され、が絶望的な気持ちで窓の外を見つめていると、柳が言った。
、傘は持っているか?」



水たまりにはまるぞ、と腕を取られた。
はまっすぐ運びかけた足を一度引っ込め、慎重に地面を選びつつ歩いた。ほんのわずか踏んだ水気が靴裏で音を立てる。
長靴だったら楽なのにと頭の隅で考えたが、実際履いて通学できるかと言えばそんな勇気はないので、瞬間的な思考はほとんど意味を成さずに雨とともに流れていった。
粒は柔らかく雨足は強くはないが、それゆえいつまでも泣き続け、コンクリートはしっとりと濡れている。
通学路として当たり前だった街並みも風景も、一旦眼鏡という拠り所を失ってしまえば、まるで他人のようによそよそしい。見慣れたはずの何もかもが、曇り硝子の向こう側みたいにおぼろげに映った。
いつもより高い位置にある傘は、自分が持つよりもずっと安定してを雨から守っている。
傘にも器用不器用が関わるのだろうかと、隣をふと見上げたら、濁る世界で横顔が振り向いた。なんだ?と落ち着いた声色が降って来たので、なんでもないですとは前を向いた。
柳ともあろう者が、今日に限って傘を持たずに家を出たのだという。
確かに雨の予報ではなかったが、晴天を予感させる空模様でもなかった。ゆえには用心して傘を用意したわけだが、その代わり眼鏡をなくした。
視力はあるが傘のない柳が、視力に乏しいが傘があるを誘導しながら、一つの傘で帰るというのは実に合理的かつ自然な展開ではあった。
柳らしくないねと言うと、俺だって忘れ物くらいはすると笑った。
郊外のひっそりとした住宅街は、都会の真ん中ほど人通りの激しさはない。歩けば互いの肩がぶつかるということもない。
それでもさほど広さのない歩道では幾度も人と行き交うし、自転車も通る。工事中で足場の悪い場所もあれば、踏み外しかねない段差だってある。
そのたび柳はの腕を取り、袖を引き、注意を促した。も素直に従う。
考えていた以上に、裸眼で屋外を闊歩するのは心許ないものだった。まさか道路に突如として落とし穴がぽっかり口を開けてるなんてことはあり得ないはずなのに、行く手への不安は尽きない。そんな中での柳の存在は、にとって光明のように頼もしかった。
柳が知らせてが避ける、そのやり取りが五回ほど続いた後、柳は唐突に告げた。
、腕をつかめ」
「え?」
「いちいち口頭で伝えるのは効率的とは言えない」
だから俺に預けろ。
そう言って、柳は歩みを止めた。
「本来なら手を引いてやるべきだろうが、あいにく傘でふさがっているんでな」
「い、いいよそんな」
照れよりも何よりも真っ先に戸惑いの感情が顔を出し、は手を振り辞退した。そこまで甘えるわけにも、という遠慮もある。
「気にするな。その方が俺も楽だ」
立ち止まったまま、柳はを見下ろした。従わない限り動く気がないと見える。
柳はあまり上から押し付けるような物言いはしない。では与しやすいと問えばこれは完全に否で、口調は穏やかなのに相手に有無を言わせない独特の迫力がある。つっぱねるにはそれなりの覚悟が必要だ。
しかしこの場でそんな悲壮な覚悟を用意するほど意地を張る何物もないので、は観念して腕というよりシャツを握った。すかさず手が伸びて、握り直される。結局、がっちり、と音がしそうなほどの手は腕にしがみつく形になった。
行こう。さらりと何事もなかったようにして、柳は傘を持ち直した。

「後ろから人が来る」
警告と同時に、手すり代わりの腕が引かれた。
つかまったまま柳の方へと身を寄せると、ほどなく青い傘と二人分の話し声が達を追い抜いて行った。少年少女の声と、傘から下で翻る制服のスカート。
カップルが仲良く相合傘か。
僻み混じりにそう考えて、次の瞬間、自分も変わらぬ状況にあることに気がついた。
年若い男女が身を寄せて、そう大きくない傘一つを分けあう。実情は違えど、傍から見ればカップルという同じ仕分け番号でしかない。更に言えば、男の腕にしがみついている始末である。誤解されない方が難しい。
なんとも言えず、後ろめたい気持ちがの背中を撫でた。
が知る限り、柳にはお付き合いしている相手はいない。恐らく、だが。そういった話を聞いたことがないのだ。
ただ同時に、バレンタインのチョコの数も、手にしたであろう手紙の類も、果たしていくつに昇るものか本人が決して口を割らない為、どれほど柳がもてるのかも、は具体的に知らない。
だが、女子が彼に見向きもしないなんてことは、まずあり得ないだろう。年齢にそぐわぬ落ち着きと所作は、ただやかましく幼いだけの同年代の異性に愛想を尽かしている彼女達にとってひどく魅力的に映るはずだし、端正な顔立ちには楚々とした品がある。頬を染めながら彼の背を見送る下級生の姿を見かけたのも、一度や二度ではない。
要するに、彼女という絶対の存在がなくとも、柳に思いを寄せる女生徒が大勢いることは、簡単に想像できる。
は、今更だが大変よろしくない相手に介助をお願いしたのではないかと少しばかり後悔の念を抱いた。
しかし咄嗟に別の選択肢を思いつかなかったし、何よりあの場で縋る相手は柳のみだった。
他に手段がなかった、緊急事態だった、取るべき道はひとつだったのだ、とは誰に向けたものか、必死に言い訳を並べた。
ギャン!
真横から突然吠えられ、は弾けたボタンのように跳ね上がり柳に飛びついた。
振り返ると、アパートのガラス窓に黒い物体がこちらに向って張り付いている。
そうだ、毎日ここで一鳴きされるのが恒例だったと心臓を抑えながらは得心した。わかりきっている日常も、心に構えがない無防備な有様だと、抜き身のナイフのように危なっかしい。
「猛犬注意……」
柳が窓辺に垂れさがる、虚しい警告文を読み上げた。
「チワワに見えるが」
「見えるっていうかチワワだから」
ただし腹の底から声を出すことに命をかけた根性の入ったチワワだ。前世は猟犬に違いない、と窓から目をそらしてから、腕と言わず全身でしがみついている我が身に気が付き、うわごめんとは一度全て手離した。
「雨にあたるぞ」
柳は短く告げて、はずみで傘の外まで飛び出してしまったを引き戻した。そして取った手を再び自分の腕へと持っていった。がおずおずと握ると、うんと頷いてようやく柳は歩き出す。傘は相変わらず、しっかりとの身を覆い隠した。
正直なところ、傍目からどう見えようともにとっては、孫とおじいさんのいう構図に近かった。二人を繋ぐものは、親切、優しさ、助け合い、という微笑ましいキーワードである。ついさっきまでは。
今はもっと別の何かが、ボランティア精神の枠からはみ出した得体の知れないものがの中に流れ始めている。それに名前を付けるまでには、まだ至らない。
視界の不安定さとは異なる違和感、それから居たたまれなさ。束になっての動作をぎこちなくしていく。
「柳、なんかごめんね」
「なんだ急に」
「いや色々面倒かけて………」
は傘を提供し、柳は補助役を買って出ることで交換条件を成立させたものの、比較してみると明らかに柳の比重が大きい。はサポートされながら安全にまっすぐ帰路につくことができるが、柳は世話を焼きながら相手を家まで送らねばならず、自分が帰宅できるのはその後だ。傘一本でこれは割に合わない。
「なに、大した事じゃない。帰る方向はそう変わらないしな」
それに今日は水にぬらしたくない書類も入っているから、鞄を盾に帰るわけにもいかなかった。
柳は淡々と応える。にはそれが、真実なのかに負担をかけない為の方便なのかわからなかった。
元からせかせかとした気性ではないが、今日の柳はとてもゆっくりと進む。玄関を出てから一貫してその速度は変わらない。だから、は焦ってつまづくということが一度もなかった。道理で、やけに後から人に抜かされるわけだ。
「もし変な誤解されて面倒なことになったら、私のせいにして構わないからね」
は本気でそう思ったからそう言ったのだが、柳の返事には面白がるような色が見て取れた。
「変な誤解とは、たとえば?」
「たとえばも何もあんた……付き合ってることにされる、とかそういうのしかないじゃないですか」
口に出しながら、柳にとっては今更なのかも知れないとは思った。もてる人種というのは、噂にいちいち頓着しない生き物なのだろうか。確かにひとつひとつご丁寧に振りまわされていたら、身が持たない。
「気遣いはありがたいが。誤解されて困るような相手もないから、何をどう言われても俺としては特に問題ない」
平坦に流れる言葉のあと、息継ぎほどの間を開けて。
は困るのか」
まさか逆にそんなことを問われるとは夢にも思わず、返事に一瞬詰まる。
が気をまわしたのは柳側の体面だけであり、羨望や憧憬の眼差しとは無縁の己の身についてはさほど案じる要素がない。困るのかと言えば困るような、困らないと言えばさほど困らないような。柳に差し障りがないならばそれで一向に構わないような。
「まあ問題ないっちゃないけどさ……」
思考が定まらないまま呟くと、柳は「そうか」とずいぶん物柔らかな声で応じた。
雨の匂いがした。


ようやくが我が家の前に辿り着いた時、まるで三千里たずねたかのような達成感に満たされた。ただの自宅がこうまで懐かしく思えた事など今まで一度もない。どれほど恵まれた生活をしていたことか、とこれまでの自分を悔い改める気持ちになったが、三日ほど経てば喉元をすぎるだろうなという自覚もあった。
幸い、まだ弟は帰ってきていないようだ。ほっと息を吐きながら振り向くと、ぼやけた形の柳が傘をさして立っている。少し微笑んでいるように見えた。
「どうもありがとうございました」
は馬鹿丁寧にお辞儀をした。
「おかげで無事ついたよ。遠回りさせてごめんね」
いや、と柳はわずか首を振った。
「傘はいつでもいいから。それこそ予備がいっぱいある」
「そうもいかないだろう。明日にでも持っていく」
「律儀だね柳は」
じゃあね、と手を振ろうとしたを遮るように、柳は口を開いた。
「時に
「うん?」
「おせっかいついでに、二つほど忠告しよう」
その口元には変わらず微笑みが浮かんでいる。
目を瞬かせているの返事を待つこともなく、ひとつめ、と柳は静かに囁いた。
「いつまたこういう事が起こるかわからない。予備の眼鏡は常に持ち歩くべきだ」
「はーい……」
真っ向からの正論だ。弁解の余地もない。世話になった手前もあり、は従順に頷くしかなかった。
「ふたつめ」
柳は手招きをした。
すぐ目の前に互いの姿があって、手招きが必要な距離ではない。訝りながらも、招かれるままは歩み寄った。
すると、傘を持たぬ左手が胸ポケットへ伸びて、取り出したのは、

「………あまり不用意に男に顔を近付けるものじゃない。その気がない男でもつい下心を抱く」

淡く滲んだ世界は、突如くっきりと実体を持った。もう輪郭はあいまいではなく、鮮明に形を示す。思慮深い瞳を縁取る睫毛、薄い唇、少しの吐息、それら全てがの視界をレンズ越しに占拠した。肌になじんだ重量が両耳を懐かしくも圧迫する。
「ましてや、端からその気がある男なら尚更だ」
雨だれが一粒、フレームで弾けた。道をつくりながら、レンズの上を滑って落ちる。にはそれが、自分の胸の内に流れる一筋の汗と重なって見えた。目が合うなんて程度ではすまない距離でを覗いた双眸は、添えられた大きな手と共に、細くしなりながら遠のいて行く。魔法がいま解かれたように、は息を吸い上げた。
「……ちょっ、どうっ、なん、めがね、いつっ」
「これからは用心することだ」
一斉に喚きだす疑問符に喉を詰まらせたを尻目に、また明日、と柳は優雅に背を向けた。絹糸の雨はまだ止まない。
冴えわたる眼界の中で少しずつ小さくなっていく自分の傘を、は棒立ちで見送った。