「それで、お前はなにが食いてえんだ」 突然そう問われ、は返事をする代わりにぽかんと口を開けた。 これまでさも会話が続いていたように「それで」と振られても、いま来たばかりの人間には返しようがないのである。 しかし白い壁で覆われた部室には跡部一人の姿しか見えない。明らかに会話の対象は自分である。 ぼんやりしながら「なんの話でしょう」と間の抜けた声を返したは、間の抜けた顔のままとりあえずパイプ椅子に腰を下ろした。 「なんの話でしょうじゃねえよ、とっとと答えやがれ」 「だってそんな唐突に言われても」 「ちょっと前に好きなもん奢ってやるって言っただろうが。俺様のありがたい申し出を覚えてねえのか?ああ?」 確かにそんなことを言っていたような気がする。憐れみの視線と共に降ってきたような記憶が薄っすらだが、あるにはある。 しかしそれは、ところてんという誤解を下敷きにして差し出された特例と言っても差し支えないお言葉で、疑惑が晴れたと同時に無効になったと誰もが思っていたし、半ば忘れていた。だが有言実行をモットーする跡部の中ではその宣言は取り消されることはなかった。やはり200人の頂点に君臨する男は責任感が違う。 答えるまで呼吸も許さずとでも言うかのような厳しい眼光に、の頭は一瞬白くなった。 食べたいものなどその気になれば大学ノート一冊丸々埋まるほどあるが、いざとなるとなかなか出てこない。 じゃがりことか肉まんだとかうまい棒だとか、食べたいものというより常日頃お世話になっているものばかりが浮かぶ。まさか跡部相手にコンビニ行こうぜと言うわけにもいかないので、ない頭を絞りに絞って考えたところ、ようやく「寿司」というなんとも庶民らしい回答が口からこぼれた。 「寿司だな、なら銀座か。席を取らせる」 「ぎ、」 小さく呻いたは思わず椅子から腰を上げた。 寿司という響きだけでも十分眩しいのにその上銀座などというバブル的単語が加わった日には、いよいよ中坊同士のおごりの域を越えてしまう。今更跡部という男を一般的な中学生に分類する方が間違いだと言われればそれまでだが、あいにくこちらは分類上等の側にいる人種だ。 人生初のお好み寿司体験。銀座。しかも隣の席に陣取る跡部。 どう考えても味どころの騒ぎではない。酢飯が喉に詰まる。 「いやあの先輩、わたし回転寿司がいいです回転寿司」 携帯を耳に当てたまま、跡部は無言で眉を吊り上げた。 あ?回転寿司?誰に言ってんだ俺様に言ってんのか?それともちょっとした独り言か? 黙してはいるが、彼の面にそう言葉が張り付いている。 顔だけで喋るのはやめてもらいたいと思いつつ、抵抗することを覚えたは尚も「回転寿司…」と庶民の願いを控えめに訴えた。 弱々しい声が琴線に触れたのか、憮然とした表情ではあったものの跡部は手の中で携帯を静かに閉じた。 「なんだって回転寿司なんか行きたがるんだてめえは」 本気で理解できないという風に跡部は大きく息を吐いた。 「そんなに寿司のニセモンが食いたいのかよ」 なんという傲慢さ。これがブルジョアの本音なのか。 全国の回転寿司職人から一斉にしゃもじを投げられても文句は言えない。むしろ寿司桶くらいぶつけられてもいいと思う。 「ニ、ニセモンとは何ですか、最近の回転寿司はグッとレベルが上がってるんですよ」 「グッ」のあたりに力を入れ、は懸命に回転寿司の魅力を伝えたのだが、何しろ相手は銀座の寿司屋でカウンター席である。梅だの並みだのカッパ巻きだのというキーワードとは無縁の人間である。板前の親父に直接オーダーするシステムが寿司屋の全てだと認識しているのである。 回転寿司の味が下がろうが上がろうが、だからどうしたといった感想であろう。 「そう酷いもんでもねえって、案外いけるぜー回転寿司」 着替え終わった岳人が、ジャージのファスナーを上げながら回転寿司を巡る議論に割り込んできた。願ってもない心強い味方の登場である。今にも投降しそうになっていたの士気は一気に上昇した。 「ほら向日先輩もこう言ってるじゃないですか!結構いいもんなんですよ回転寿司は。メニューも豊富だし」 「そーそー寿司だけじゃなく唐揚げとかも食えるんだぜ!」 「寿司が食えりゃ充分だ」 「そんな、食後にはプリンも楽しめるんですよ」 「寿司屋にプリンは必要ねえ!」 擁護派と反対派の溝は深い。 と岳人は思いつく限りのセールスポイントを懸命に提示するも、冷徹に次々と一刀両断してゆく跡部。 まぐろや平目に混じってハンバーグという異文化が堂々と存在したりする幅広いお品書きこそが回転寿司の最大の魅力なのだが、跡部にはその自由奔放さが癪に障るらしかった。 達の回転寿司に対する意気込みも無駄に熱いが、跡部の頑なな拒みようも相当な熱量だ。 寿司屋には寿司があればいい。そう繰り返し語る跡部の頑固な姿勢は取材拒否の店の主人をほうふつとさせる。 一体なぜ寿司のことでこんなにも? 己の必死さにそれぞれが違和感を感じてはいたがお互い今更引くに引けず、遅れてやってきた長太郎のストレッチが一通り終わってもその不毛な押し問答は続いていた。 とにかく一度行ってみるべきだと熱弁をふるわれた跡部は、口を開くのも面倒になったのか短く舌打ちをした後、机の上で頬杖をついた。 目の前には挑戦的な視線を投げつけてくるちんまりした2人組。 それを心底面倒そうに一瞥しながら、跡部は溜息と共に呟いた。 「…そもそもあれだ、何で寿司が回る必要があんだよ」 思っても見ない言葉に、は一瞬目を丸くした。 「え…それは、便利だからじゃないですか」 「どこがどう便利なんだ」 「どこって、ほら、わざわざ運ぶ手間が省けるというか…」 そう答えるも、同意や納得の色が跡部の顔に浮かぶ気配はない。 それどころか言葉を交わすたび眉間に深く刻まれる皺が、不可解だと雄弁に語っている。 「……跡部先輩、回転寿司ってどういうところか知ってます?」 「今更なにほざいてんだ、回転寿司っていったら名前そのまま寿司が回転してる店だろ?」 合っている。 ジェスチャーを交えながら自信たっぷりに語ったその内容にひとつも間違いはない。 だが「回転している」と言った時の彼の手は、明らかにおかしな動きを見せていた。 「…もう一度聞きますよ…回転寿司ってどういう所ですか」 「何度言わせんだよ、回転寿司ってのは寿司がこうやって回転してんだろうが」 「ど、どうやって回転…?」 「だから、こうだろ」 跡部の手の動きは、ろくろを回す陶芸職人のそれに酷似していた。 「先輩…なんかその回転違います…!!」 「違うって何が」 「回転といっても、その、コマのような回転ではなく…流れるプール系の回転で、あの、」 「なっ…!!寿司が流れてくるのか?!」 ここは笑ってはいけないのだろうが、目頭が熱くなるのが止められなかった。 跡部の中での回転寿司は、本当に寿司が回っている。寿司の皿がその場でくるくると回っている。確かに回転寿司をそう認識しているならば「なぜ回る」という思いが湧くのも無理はない。回転する意義が見当たらない。どういう無意味なアトラクションかと苛立ちさえ感じることだろう。 だが、残念ながら回転寿司は寿司が回ると言うより回転に乗っかっていると呼ぶべきものである。別に伊達や酔狂で回っているわけではない。 「ベルトコンベアーみたいな機械に乗って、寿司が店全体を回転するんですよ」 跡部は絶句した。 閉じるのを忘れたのだろうが、半開きの口は高慢でお綺麗に整ったその顔を見事に台無しにしている。 自分のミスを信じたくないのか回転寿司に対しての新鮮な驚きなのかわからぬが、相当なショックだったのは間違いない。 しばらく呼吸すら忘れたように表情を失っていた跡部だが衝撃の波が引いていったのか、じきに顔色を取り戻した。と、同時に耳が燃える様に赤く染まった。 「跡部すげーバカ!寿司自体が回ってどーすんだよ!!意味ねーじゃん!」 「一皿一皿回ってたら食べるの大変そうですよね」 岳人のみならず完全に傍観者だった長太郎からも冷静な突っ込みを入れられていよいよ追い詰められたのか、跡部はどんどん増してゆく耳の赤みをどうすることもできないまま黙りこくった。羞恥心とカルチャーショックの狭間で未だ呆然としている。跡部様、世紀の大失態である。 試合のたびに繰り広げられる一連の儀式(氷帝コール)の方がよほどハードな羞恥プレイだと思うのだが、彼にはそうではないようだ。 恥じている。 あの。跡部景吾が。耳まで染めて。恥じている。 あまりにも稀な姿なのでは笑うことも忘れて思わず見入ってしまったが、その物珍しそうな視線が跡部には更に屈辱的だったらしく、突然椅子を蹴り飛ばしながらラケットを掴んだ。 「…ッッいつまでくっちゃべってんだお前らコート行けオラァ!」 「げえっなんだよいきなり!普通ここでスマッシュ打つか?!」 「うるせえとっとと行くぞ!」 「寿司ごときでキレないでくださいよ」 「キレてねえ!回転寿司は寿司じゃねえ!」 「マジギレじゃないですか」 顔を上気させた部長が繰り出す殺人スマッシュの切れ味は流石の一言で、流れ弾をくらった被害者の眼鏡を砕いたとか砕かなかったとか。 この後しばらく、回転寿司という単語が部内でタブーとされたのは当然の結果である。 |