わずかに湿り気のある地面の感触が、ブーツの裏から伝わってくる。
細長いじっとりとした緑の道筋を抜けた先には水場。すぐそばに朽ちた動物の屍がある。洞窟を思わせる薄暗さを縫うようにして光が幾筋も突き刺さっていた。
ここは見覚えがある、ような気がする。さっきハチミツを拾いに来た、はずだと思う。
一歩一歩動かすのがようやっとの重い足を止め、水辺の岩にぐったりと腰を下ろす。
疲れのままに項垂れると、腰にくくりつけているアイテムポーチが視界に入った。
さっきかき回したばかりだというのに、縋るようにそこへ手が伸びる。
当然だが何度漁っても中身は変わらない。どう広げようがひっくり返そうが、この身を救ってくれそうなアイテムはひとつとして見当たらなかった。
ああもう、なんてこった。
は膝を掴みながら天を仰いだ。

体力もスタミナも尽きていた。
走れば即息切れして倒れそうだし、ただ鬱陶しいばかりのハチの一刺しも今は命に関わりかねない。
ギルドから支給された応急薬はイノシシ二匹に突撃されて早々に使い果たしてしまった。スタミナ補給の携帯食料もとうにない。もちろん支給品のみでクエストをこなせるような腕ではないので、いつもは必ず自腹で回復薬や元気ドリンコなど、使い切れずに余るほどの量を持ち込んでいる。
そう、いつもは。
どういうわけだか、今回その二つが荷物に入っていなかった。
回復薬は出発準備の段階で完全に詰め忘れ、元気ドリンコはいざ飲もうと思ったら活力剤だった。
悲しいことにビンがやたら似ているのである。パッと見、どっちがどっちなのか区別が付かない。
己に非があることは間違いないものの、もっとラベルに個性を持たせろと憤りが湧くのも無理はないと思う。勿論活力剤は役立つアイテムである。しかし今は正直かさばるばかりでなんの助けにもならない。
あげくの果てに、命綱の地図まで盗まれた。
しゃがみこんで実や草をごそごそと拾い集めていたら背後からいきなりどつかれ、振り返った時にはすでにスられていた。
取り返そうと追いかけたものの、黒猫はこちらを小馬鹿にしたようなステップを踏んで、奪った地図を咥えたまま土の中に消えた。
聞いた話では、この地に手癖の悪い猫の根城があって、そこへ行けば盗まれたものが見つかるというが、地図を盗まれた以上、その場所がどこかわかるはずもない。それ以前に現在地すら不明である。
体力なしスタミナなしだけでも十分すぎる危機だというのに、更に迷子の三重苦。
何度も訪れた狩り場なら記憶を頼りにキャンプに戻れたろうに、運悪く森と丘が続くこのエリアは駆け出しハンターのにとってほとんど未知の世界だった。うろうろと不慣れな地形をひたすら歩き、走り、各地のモンスターと小競り合いを繰り返している内に、徹底的に迷いくたびれた。
空腹と疲労で目が回る。
本能的に、その視線はポーチの中でひしめく特産キノコに吸い寄せられた。小ぶりながらもつやつやとした傘。
高値で買い取ってもらえるこの高級食材こそが今回の目的であり、懐の寂しい貧乏ハンターにとって貴重な収入源である。
依頼された10本はすでに確保している。あとはキャンプに帰って納品さえすれば任務は完了のはずだった。が、そのキャンプが今は天竺より遠い。
特産キノコが放つ芳醇な良い香りに鼻をくすぐられ、正直すぎる腹がぐるると音を立てた。
いっそガブリと貪ってしまおうか……
めばちこを患って引退したという眼鏡の先輩ハンターがいつだか言っていた、特産キノコはうまいで、絶品やという言葉をふいに思い出し、の心が揺れる。
が、でもそんだけや…うまいだけなんや…全然回復とかせえへんねん…という言葉も続いて思い出され、掴んだキノコを静かにポーチに納めた。

いつまでもこうしているわけにはいかない。腹は減るばかりだし、減った体力は戻らない。
受注したのが指定されたモンスターを討ち取らねばならない討伐クエストではなく、言われたままキノコを集める採集クエストだったのは幸いだった。もしいま大型モンスターなんかと出遭ったらと思うと身震いする。
とにかくキャンプを目指して行けるところまで行くしか道はない。
散らかしたアイテムを荷物に詰め、肩から下ろしていた弓を背負った。
その時、ふいに頭上から突風が吹き荒れ、は立ち上がりかけた姿勢のままひるんだ。
咄嗟に庇うようにして上げた両腕を隙間から、なにかピンクの塊がはばたいているのが見えた。翼があるものの鳥ではない。鳥にしては大きすぎる。
に背を向ける形で舞い降りたそれは、悠然と翼をたたんだ。同時に扇のように広げていた耳もそっと閉じられる。
イャンクック!!
声を出しそうになって、思わず口を両手で塞いだ。
桃色の鱗に、異様に大きな耳。
その特徴的な姿は密林の空で、森で、洞窟で、幾度か目にしたことはある。
といってもいずれも遠巻きかつ物陰からこっそりという消極的なファンのような距離感で、ここまで間近に迫ったことは過去にない。
飛竜の中では小柄で危険度も低いとされているイャンクック。狂暴かつ巨大なモンスターを数々調伏させたG級ハンターは言った。あれは小鳥のようなものだと。
しかし目の前にしてみると、がやり合ったことのあるドスランポスやドスギアノスのようなトカゲの親玉と比べたら、その迫力は歴然である。
でかい。翼がでかい。耳がでかい。影もでかい。とにかく色々とでかい。こんな小鳥いてたまるか。
息を殺しながらは思った。
潔く逃げよう。
まともに戦っても勝てる気がしない相手に、天使のお迎えがスタンバイしている衰弱しきった状態で一体誰がやあやあ我こそはと高らかに名乗り出られるであろう。
もしいるとするなら、よほどの豪傑かはたまた現世にピリオドを打ちたい方である。
猛者でもなければこの世にたっぷり未練を残しているは、とにかく見つからぬようこの場から離れることを選んだ。
イャンクックは無防備にも池に首を伸ばし、くちばしで水をすすっている。
幸いまだ気取られてはいない。
私は自然の一部です岩です草ですバッタですと念じつつ、岩場からそっと腰を浮かせる。身をかがめて、慎重に慎重に、音を立てずに足を踏み出した
―― つもりが一歩目で小枝を踏んだ。
パキ。
乾いた音。
実にささやかなものであったが、耳が自慢の怪鳥にはそれで充分だった。
振向くなり、きょろりとした目をむいたイャンクックは敵襲!とばかりに雄たけびを上げた。
見つかった!
うわわうわわわわわと身を起こしたは転がるようにして、というか実際足がもつれて転がった。
尻餅をついたすぐ脇を奇声を上げながらイャンクックが猛然と滑り込む。
が態勢を立て直すより先に起き上がったイャンクックは初対面だというのに攻撃心をむき出しにして、踊るように頭を振りながらいくつも火の玉を噴いた。その一つが目の前わずか数センチ、というところで落ちて砕けた。舞い散った火の粉が前髪を焦がす。
「ヒイー!」
気が動転して立ちあがることもままならない。へたりこんだままエビのようにあとずさるを、怪鳥は啄ばみながらあっという間に追い詰めた。目前に迫った鋭いくちばしが、脳天を突き刺さんと落ちてくる。
瞬間、閃光が走った。
世界が弾け飛んだように白くなった。
次にがおそるおそる目を開けた時、星を飛ばしながら目を回すイャンクックが見えた。
「ばかやろうボサッとすんな!!」
声に振向くと、天まで届きそうな槍を背負い頑強な鎧に身を包んだハンターがこちらに向かって走っているところだった。その姿が誰のものか、にはすぐわかった。
「あ、跡部団長」
このあたりのハンターなら名を知らぬものはいない跡部景吾。
氷帝という名のエリートが集う猟団の頭領を務め、いくつもの難クエストを、時に屈強な仲間たちと共に、時に単身で挑んでは見事成功させてきた泣く子も黙るG級ハンターである。
その端正な顔立ちと絶対的な強さは男女問わずハンターらを魅了し、彼に憧れて氷帝の門を叩く者は少なくない。
はといえば特に門を叩くつもりもなかったのだが、迂闊にも帝王と名高い跡部に粗相をしでかし、その落とし前をつけた結果、彼のオトモになるという無茶苦茶な契約を結ばされ、不本意ながらの入団を果たすこととなった。
以来、俺のような一流ハンターの片腕になるにはそれ相応の実力をつけろなどと言い、いやお前の狩りはどうしたよという熱心さで初心者用クエストに付いてきてはあれしろこれしろそれはするなとの一挙一動に目を光らせている。
にとっては団長であり(理不尽ながらも)ご主人様であり鬼監督であり、ハンターライフを送る上で最も逆らいようのない相手である。
いつもならこんな怒号が響けばすくみ上がるところだが、今はひたすらに頼もしく心強かった。
跡部の出現で我に返ったは思い出したように腰を上げた。
「走れ!」
「へ、へい!」
威勢良く応じたはいいが、駆け出した途端によろめいた。たった数歩で息が上がる。
「スタミナ切れか」
舌打ちと同時に地を蹴った跡部はおぼつかない足取りのをひっつかみ、背後へと庇った。いいか離れんなよ、という言葉に、呼吸を整えるので精一杯のは頷きだけで返事をした。
「すぐに終らせてやる」
ナイフとフォークでも扱うような優雅な所作で跡部はすらりと得物を構え、未だクラクラと自失しているイャンクックを見据えた。槍の先端が数回動いただけで、象徴ともいうべき見事な耳は見る影もなく綻び、大きな体がのけぞる。
やがて突くことをやめ、吐くための息を吸い上げるように静かな唸りを上げていたガンランスは、イャンクックが目を覚ましたと同時に大火を噴いた。

「片付いたな」
地に伏した怪鳥はもう動くことは無かった。
大砲のごとき絶大な威力をみせたガンランスが役目を終え、静かに主人の背中へと戻る。それに取って代わるようにして、今度は使い手である跡部が火を吐いた。
「この馬鹿!!あれほどはぐれるなって言ったろうが!」
おお…とクックが倒れゆくさまを跡部の盾の影から見ていたに鬼のような形相が迫った。敵が去っても危機は去らない。
耳をギュウとつねりあげられ、あいたたたすいませんあいたたたと悲鳴と反省をサンドイッチさせつつも、この身に起きた災難という名の言い訳を、は厳しい面持ちの団長に必死で訴えた。
当然だが、更に怒られた。
へなちょこはへなちょこらしく、いやへなちょこだからこそアイテムの確認は絶対に怠るな!と一喝が飛ぶ。反論の余地も無いというか、全くもっておっしゃる通りである。似てようが似てまいがビンのラベルはしっかり見るべきである。
「いいか、この世界じゃ一瞬の油断やミスが命取りだ。あと少し俺が遅れてたら今頃お前ここにいねえぞ」
跡部から分け与えられた回復薬とドリンコを一気に飲み干し、はようやく生きた心地がした。
さきほどの生命線を断ち切ろうとした桃色の体躯が絨毯のように地べたに広がっている。手強い奴だったぜ……と自分で戦ってもいないのに一仕事終えた気分になった。
「団長が来てくれて本当に良かったです、助かりました」
「ふん、当然だな。ありがたく思えよ」
素直な感謝の言葉に気を良くした跡部はさっきまでのしかめっ面を引っ込め、「まあ何事もなかったし今回はこれでよしとするか」と急に態度を軟化させた。意外とあいつは簡単な男だと同期のハンターから囁かれるゆえんである。
「ところでさっき眩しかったやつ、あれってなんなんですか」
イャンクックが気絶した強烈な光、はそれに助けられた。
「なんだ閃光玉も知らねえのか?」
跡部は呆れたような声を出したが、の本当に分かっていない様子を見て、覚えておけよと少し真面目な顔で向き直った。
「一時的に敵を目くらましにするアイテムだ。素材玉と光蟲を調合すれば出来る」
素材玉と光蟲…と呟きながらはメモを取る。
「つっても投げればいいってもんじゃねえぞ、目の前に食らわせないと駄目だ。これから頻繁に使うことになるだろうから、今からタイミングなんかを練習しておくんだな。あと全てのモンスターに有効ってわけじゃないから気をつけろよ。目が退化した敵や耳を頼りに生きてる奴には効果がない。まあ、今のお前じゃ光蟲もそこそこ貴重な素材だろうし、少しばかり分けてやっても……って、てめえ何やってんだ、人に説明させといてクック剥いでんじゃねえ!話を聞けこの野郎」
せっせと剥ぎ取りに精を出し、でた!怪鳥の翼膜!などと歓喜の声を上げているに、跡部は愛のムチ(ゲンコツ)を食らわせるべく歩み寄っていった。



本日のハンターメモ:忘れ物は生死を分ける