月曜の朝は絶望からスタートを切った。 そもそもが気だるい休み明け。そんな日に、頭から憂鬱をかけられて、私の世界はますます鼠色に曇った。窓際の日当たりの良さが恨めしい。死にたいとまでは思わないにしても、時間を巻き戻したいと切に願った。一日でいいから。 じっと机に張り付いていることに耐えられず、一度お手洗いで気持ちを整えようと席を立つ。 前も見ないで小走りで、人と衝突するのは当然のなりゆきだった。 「あっ、ごめん大丈夫?」 その声に勢いよく顔を上げ、勢いよく後ずさった。ガタガタといくつかの机や椅子に激突した気がしたが、感覚が門前払いをしていた。そして私は、大丈夫ですっごめんなさい、と言葉だけは丁寧に、しかし顔も見ずに小走りどころか全速力で廊下に飛び出した。今もっともホットな、会いたくない相手だった。 どうせもともと、まともに目も合わせられない。すぐに顔が赤くなるからだ。気が小さく、打ち解けていない人、特に男子と接するのが得意でないせいもあるけれど、滝君に対してはそれがずば抜けている。 彼は他の多くの男子のように、幼い言動や乱暴な所作で、私を傷付けたり竦ませたりしたことは一度もない。 たまたま一緒に図書委員をやっていた二年の時、ずいぶん整理に時間をかけて本やファイルを押し込んだのに、私が持ちあげた途端に段ボールの底が抜けて、台無しになった。青くなる私に駆けよった彼は、一番に「怪我しなかった?」と心配そうに尋ねた。一言も責めたりはしなかった。 私はというと、やってしまったことへの怯えと、滝君の大人びた気遣いにひたすらうろたえた挙句、「にゃいです」と震えた声で言うだけだった。 なんという間抜け。他にもっと答えようがあったろうに。思い出すだけでも頭を抱えたくなるけれど、きっといま同じことが起きたとしても、気のきいたことは言えやしないだろう。 何故かうまく言葉が出てこない。視線が行き先を見つけられない。体温も変わる。顔面の筋肉が洗いたてのジーンズみたいにばりばりと固くなって、笑顔が引きりもする。彼に話しかけられるたびに、いつも逃げたい気持ちに襲われる。私は滝くんが怖い。 あてもなく飛び出したところで、あいにくふらりと海に行くほどの行動力も破天荒さも私にはない。始業の鐘がなれば教室に戻るのみだ。極力あの席を見ないように、早足で、自分の席にまっしぐら。 その日私は、授業中は黒板しか見つめない、休み時間になれば忍びのごとき迅さで教室から消えるという行動を徹底した。なるべく彼の目に触れないように、そして私も彼を視界に入れない為に。少しでも心の平穏を取り戻したかった。大人しく席についていても、きっと好いことはないと今日の私は信じていた。 四時間目の授業も終わり、鐘と同時にさあ飛び出せ、と立ち上がった時だ。 その渦中の人物が近付いて来たのは。 固まりかけたが、何も私が目的とは限らない。私の周囲の友人達にこそ用があるのかも知れないし、窓から外を眺め、たそがれたい気分なのかも知れない。 しかし、滝君はまっすぐこちらに足を向けて、私の方を見てにこりと口を開いた。 「さん、そのか」 彼が言いかけた台詞を、最後まで聞くことはできなかった。 なんのことはない。私が逃げたからだ。脱兎のごとく走り去ったからだ。それも完全に目が合ってから。 気付かずに行ったのだとは解釈されないだろう。意図的に避けたことがありありと伝わる、ひどく感じの悪いやり方で背を向けてしまった。 薄暗い階段の踊り場で、思わず崩れ落ちる。どうして私はいつもこうなの。 彼の意識が自分に向いていると感じた瞬間、恐ろしくて動転して、していい事と、するべきではない事、両方わからなくなった。謝るべきだと思う反面、これ以上なににも触れたくないとも思う。今朝のように、聞きたくもない話を耳にねじ込まれるのは御免だ。 向日君はさっぱりしていて悪い人ではないけれど声が少しばかり大きすぎる。 滝って髪の長い子が好きなんだってさ。 なんでどうして、このタイミングでそんな情報が転がり込んでくるんだろう。よりによって、私がばっさりと髪を切った翌日に。 信念があって伸ばしていたわけじゃない。何かに挫折して切ったわけでもない。意思とは無関係に、健康に生きていれば髪は伸びる。私の茶色がかった面白味に欠ける髪も、つとめて素直にするすると成長した。気付けば結構な長さを誇っていた。それだけ。切った理由にしても同様で、夏も近いしさっぱりしようかなとなんとなく思った。ただそれだけ。 切らなければ良かった。 美容師に大変よくお似合いとおだてられ、今朝のあの瞬間まで割と気に入っていた髪型が急に疎ましくなった。隠したい。失敗だった。やってしまった。裏目に出た。心の中は後悔のスタンプラリー。全部集めると残念賞のお皿がもらえます。いりません。 手ぶらでとんずらしたせいで、自動的にお昼は抜きとなった。頭がそこまで回らなかったし、あんな事をしでかしておいてのこのこと教室に弁当を取りに戻るような神経の太い真似はさすがにできない。空腹は辛くあったが、午後が男女で分かれる体育であったことは救いだった。 やる気もおきないままサーブをミスし、レシーブはアウトになり、トスで若干つき指を患った。後片付けをしながら、友人達が私の髪を撫で、短いのもいいね、洗うの楽そう、と口々に誉めてくれたが、でもちょっともったいないねと惜しむ様子も見せた。私は物足りない手櫛の感触に、えへへと力なく笑った。 「げえっお前髪きったの!?」 体操着のまま廊下ですれ違った瞬間、目を剥いたのは向日君だった。今朝の事もあり、その大声に私はびくっと肩が震えた。構わず、彼はぐいぐいと遠慮なく近付いてくる。 「いつ切った?」 「き、昨日……」 私を指さしたまま、やべえマジかよと顔を大きく歪ませた向日くんは、今更何言ってんの、朝の段階で気付くでしょと女子数名に冷たくあしらわれている。それでも彼は一人やべえ、と幾度も繰り返して、しかしそれが何に対する「やべえ」なのかは知る由もなかった。 だから放課後、帰ろうとした玄関で、担任が呼んでると向日くんに声をかけられた時も、特に疑問を抱きはしなかった。 騙されたと知ったのは教室に入った瞬間。担任とは似ても似つかない姿が私を迎え入れた。 ぎゃっと声を短く上げて身を翻そうとした私を、 「待って」 滝くんは静かに制した。 「お願いだから逃げないでくれるかな」 無視して逃走した昼休みの罪悪感もあって、足はそこから動かなかった。けれど抵抗感も消えない。追いつめられた私が折衷案として弾き出したのは、鞄で顔を隠すという限りなく姑息な手段だった。無駄な悪あがきなのは承知の上。 閉ざされた視界の中、脅かすまいと注意を払った控え目な足音が、ゆっくり近付いてくるのが聞こえる。 「なんで隠すの」 鞄の下からきちんと着込まれた制服が見える。その近さに、私は息を呑んだ。滝くんは私の沈黙を、答えたくないと踏んだのだろうか。伺うように優しい声がした。 「もしかして、髪のせい……?」 私はもう一回「ぎゃっ」と鳴いた。自分でも持て余している自意識過剰さを見破られて、平気なわけがなかった。赤面どころじゃない、恥ずかしさでゆであがって肌の上で餅が焼けそうだ。すぐにでも逃げ出してしまいたい。けれどこの至近距離、叶いそうもない。 「いつまでそうして隠してるつもりかな」 横から覗きこもうとする気配に、いっそう強く鞄を顔面に貼り付ける。 「まさか髪が伸びるまで?」 知らず指に力をこもる。盾で抑えているのは泣きたい気持ち。 短い髪は嫌いじゃない。切り終わった時、すっきりと快かったし、鏡に映った自分は新鮮だった。 でも同時に、私が持つたった一つだったかも知れない「滝くんに好かれる要素」を自ら捨てたと知って寂しいものが立ちこめた。もともと持ち合わせの少なかった、彼に向き合う自信が更にはがれおちた。 「……さん、俺のこと怖い? 嫌い?」 急に霞んだ鞄越しの声で心臓が跳ねる。流れ伝わってきた不安をちぎるように、私は違う違うと鞄ごと必死で首を振った。 滝君は、良かったと小さく息を吐きだした。 「でも、あんな風に避けられたらそう思うよ。少し怖かったよ」 身を守るにはあまりに粗末な盾に手が添えられる。 私は滝君が怖かった。 彼自身が怖いのではなくて、彼にどう思われるのか、自分がどう映るのか、それを考えるのがとても怖かった。 優しくされると浮ついて、そつなく滑らかに応じられない自分が格好悪くて、その度にいつもうなだれていた。彼の目に触れる時は、せめて少しでも上等な私で居たかった。 手にかかる力に合わせて、城壁を崩すように鞄を顔から下ろしていく。多分みっともなく潤んでいるだろうから、目を合わせることはまだ出来ない。常にうろつく視線は彼のネクタイに縫い付けた。やっぱり言葉はすんなり吐き出せなかった。 「すっごく似合う。隠すなんてもったいないよ」 すっごく、の発音の力強さに、ついネクタイから視線が外れた。口元は弧を描き、睫毛までも柔らかくしならせて見下ろしている。輪郭を縁取る、私より綺麗で長い髪がさらさらと落ちて。 もったいない、の言葉の行く先はついさっきまで失った髪への未練と惜別だった。 清々しい彼の物言いにつられて、引っ込み思案だった声がようやく外の世界に踏み出す。 「滝君は、髪の長い子が好きって」 全ての元凶を弱々しく投げつけると、滝君はばつが悪いのかはにかんでいるのか判断しにくい表情を浮かべてから、それを全部溶かし込む優雅さでゆったり目を細めた。 「うん、そう」 すっかり短くなった私の髪を指が絡め取った。 「正しくは昨日まで髪が長かった子、ね」 |