平べったい暗闇でぽつんと光る銀色を目指し、懸命に何度も腕を伸ばした。 すぐそこに見える光は思いのほか遠く、指が触れるのは空気と冷えた床の感触ばかり。 くそ、最後の一枚なのに。 はバッタのように這いつくばったまま、自販機の下に身を潜めた100円玉を忌々しく睨んだ。 「どうしたの、女の子がそんな格好で」 持ち上げた視線の先で、優雅な微笑みが自販機にもたれかかっていた。 「あ、滝先輩」 「もしかして小銭落とした?じゃ、ごちそうしてあげるよ。どれ飲む?」 「えっでも」 「細かいのが溜まりすぎて財布が重いんだ。減らすのに協力してよ」 素敵だ! スマートな物言いに胸打たれたは未だ自分が土下座スタイルであることも忘れ、ごちそうになります!と元気よく答えた。 散々迷った末に選んだコーヒー牛乳を抱えて90度に頭を下げると、自販機に向かい合った滝は大袈裟だなあと目を細めた。その時滝は財布の小銭入れのジッパーを閉めていたところで、どうということはない動作だが引き寄せられるように目が行った。 財布の中身が気になったとかそういう下世話な興味では断じてない。気になったのは外見の方だ。 形はごくごくシンプルな皮製の横長財布だが、色がやたらとパワフルな黄色で、50m先でも確認できそうなその発色はターメリックパウダー大爆発とでもいうべき強烈さである。 普段モノトーンや淡い色味でまとめている滝のセンスから考えると意外すぎて違和感すら漂う奇抜なカラーリングに、は驚きを隠せなかった。 「先輩、その財布…」 「ん?財布?」 「夜道で発光しそうなビビッドさですね」 どう考えても褒め言葉として失格なコメントであったが、滝は気にした様子もなく「ああ」と短く笑って手招きした。促されるまま差し出した耳に秘密めいた声が囁く。 これすっごい色でしょ、僕も普通なら選ばないところなんだけど。でも、ちゃんと意味があるんだよ。 意味、とが繰り返すと滝の目が縦に大きく広がった。 「金運が良くなる」 「なんと!」 「黄色の財布はお金を呼ぶの」 「マジで!」 「マジで」 は色めき立った。 これまでも金にまつわる運に恵まれたためしなどなかったがここ近頃の見離されぶりときたら酷いもので、今さっきのように小銭が自販機の下に吸い込まれる程度はザラ、穴が開いたポケットに突っ込んでお釣りをばら撒きながら帰ったかと思えば、そもそも釣銭をもらい忘れていたこともあった。 中でも一番痛かったのは、コンビニの行きがけにうっかり500円玉を募金してしまったミスだろうか。投入する直前にそれが10円玉ではないことに気付いたものの、募金箱を持つ子供たちの「わあ500円も!ありがとうございます!」という無垢な歓声とダイヤモンド級に輝く瞳を裏切ることできず、は胸の赤い羽根をなびかせて立ち去った。コンビニには寄らなかった(寄れなくなった) いずれも小銭単位の小さな話ではあるが、月々頂戴するささやかなお小遣いが全ての軍資金である中学生にとっては世界平和と同じくらい深刻な問題である。一円を笑うものは一円に泣く。泣くどころか号泣。金運が良くなると言われれば食いつかないわけがない。 「わ、私も財布黄色の財布探します、なかったら黄色く塗ります。き、きん、金運上がるんですよね?」 「うん、ただ金回りは良くなるけど同時に浪費もしやすくなるからね、蓄財が目的なら内側だけ黄色で外側は黒っぽいのがベスト」 「はーなるほど…先輩ってすごいですね……」 感謝の視線は今やすっかり尊敬の眼差し。 気を良くした滝は、不要なレシートなんかはすぐに捨てること、財布の中は常に整理しておくこと、なるべく財布は三年たったら買い換えることなどなどの金運に恵まれるための極意を惜しげもなく披露し、はいちいち頷いたり感嘆したりしながらそれらを真剣にメモに取った。 「あと、お札をしまう時は上下逆さに入れたら出て行き難くなるよ」 「はい!あ、でも財布にお札入ってることあんまりないな……」 「(うっ)……で、出来ることからコツコツやろうか」 その日、部室は静かなざわつきに支配されていた。 傍目には特に変わりはないものの、隠しきれない心の揺れが、投げ交わされる落ち着きのない視線の数々に現れている。ロッカーを開けたり、漫画をめくったり、携帯をチェックしたりとそれぞれ別の作業をしてはいるが、目が向かう場所は結局同じ。 いかに逸らそうと努力しても、部員達の意識はパイプ椅子でヤクルトを飲んでいるへ吸い寄せられた。正確に言うならば、が首から下げている光る物、いわゆるネックレスという存在に。 これまで指輪やピアスはおろか、腕時計すらほとんど身に付けない素っ気無さだった女が急にどうしたのかと一同は不思議でならなかった。 もちろん女子が着飾ることに関しては何の異論もない。 決して地味ではないロザリオを堂々と首から下げていてもお咎めひとつない実力重視の氷帝は、基本的に制服さえ着ていれば何を身に付けていようが個人の自由であり、かくいう彼らも思い思いの着こなしで学校生活を謳歌している。が、時に個性の一言では捨て置けない例外もあるのではないか。 全長15センチのペンダントトップとか。 大きさだけでも話題性充分だというのに、またデザインがお洒落というものに真正面から喧嘩を売っているとしか思えないごっつい金メッキのドラゴンで、その迫力たるや今にも七つの玉によって願いを叶えそうである。 もしや跡部のプレゼントかとも考えたが、いかにあの男のセンスが常人と異なるとはいえ流石にこれを選ぶほど突き抜けてはいまい。そもそも跡部愛用のブランドがこんなもん扱うわけねえだろ、という話である。むしろ一体どこに行けば手に入るのか逆に知りたい。 不可解な好奇心に屈し、まず切り込み隊長となったのは宍戸だった。 「お前のそれ……なに…?」 宍戸の言う「それ」が何を示しているか察することが出来ず、はハ?という目で見上げながらヤクルトを飲み干した。その平然とした態度に苛立ちを覚えた宍戸はそれだそれ!その金ピカ!と責め立てるようなテンションでペンダントを何度も指差したが、返って来たのはまたも淡白な反応で、周りを大いに脱力させた。 「なにって。龍ですけど」 「いや……龍はわかるけどよ」 「なんで急にそないなもんを…」 ようやく視線を集めているのが自分の首元だと気付いたは、悪びれもせずそのきらめきを持ち上げて見せた。 「これ、幸せを運んでくるんですよ」 あ、こいつやばいな。 宍戸達は相手が一線を越えたゾーンに踏み込んでいることを一瞬にして悟った。真顔であるのが尚怖い。 世にはねずみ講やらキャッチセールスやら詐欺と名のつくものが腐るほど横行しているが、まさか最も厄介な宗教がらみ系にひっかかってしまうとは。 どんな手口で丸め込まれたのだろう、元気そうに見えたが実は毎日が肝試しのような学校生活に疲れ果ていて、それが心に隙を作ったのかも知れないなどと考えるとテニス部関係者として少なからず責任を感じてしまう。もう壷は買ってしまったのだろうか。 「さん、お願いだから目を覚まして」 「いつからだ?一体いくらむしり取られた?」 「でもまだ間に合うで。クーリングオフっていう制度があるさかいな」 「え、いやあの、これはそういうのじゃなくて、」 「バッカお前!騙された奴は最初みんなそう言うんだよ!」 妙に実感のこもった向日のリアルな発言に一同がたじろいだその時、 「なんの騒ぎだ」 お待たせしました、とばかりに部室の扉が開いて跡部が現れた。が、すぐに巨大なドラゴンと目が合い「ウッ」と呻いた。 跡部をも怯ませるとは、幸運云々はどうかわからぬが魔よけの効果はあるのかも知れない。 跡部はしばし黄金の龍とにらみ合いを続けていたが、金属に喧嘩売ったところで全く意味のないことに途中で気付き視線を部員達へ投げた。 「どうなってる」 眉間に刻まれた皺は深く、お世辞にもにこやかとは言い難い。別に彼らがをどうかしたわけでもないのだから、そんな面構えを向けられても困る。しかしこのまま放置してどこの男からもらっただのと妙な斜め読みで一大喧嘩祭りが始まってもそれはそれで非常に困る。 「こいつ、行ったらあかん方向に進み始めとるで」 「あ?そりゃどういう意味だ」 「何かに縋りたくなってるってことですよ……神仏とか人ならぬ力とか」 その時初めて跡部がハッと目を開き、振向きざまにの肩を掴んだ。 「ウワ、なんですか…って顔怖っ!」 「お前まさか……!変な宗教に……」 「まさか……!じゃないですよ入ってませんよ!なんでそうなるんですか」 「さっき幸せを運ぶとか最高に胡散臭いこと言ってたじゃねーかよ」 「いやそれはマジな話ですけど」 「……こいつこのまま放って置いたらやべえよ」 「早くも手遅れっぽいけどな」 「しっかりしいや。自分ちょっと信じやす過ぎなんちゃうんか」 複数の哀れんだ眼差しに屈するどころか、は違う違うというように首を振った。 「生きていくのに貪欲なだけです」 なんか言ってる! 「お前怖いよ!どこまで操られてんだよ!」 またしてもは部員達にぐるりと取り囲まれ、すぐ脱退しろとか現実から逃げるなとか朝まで生討論もびっくりの激しいテンションで代わる代わる諭された。全部まとめてシベリアに送りたいほど個々のエネルギーが熱い。勿論跡部もそんなもんに走る前になぜ俺に泣きつかないのかと肩を掴んだまま押し倒さんばかりの勢いでヒートアップしていたものの、それは逆に「泣きつくも何も元凶はお前だよ」と周囲に冷静さをもたらしていた。 渦中のはというと、浴びせられる熱気に最初は呆然と圧倒されていたが、同じような説教を聞かされてるうち段々うんざりし始め、信仰というものを考えるために今度みんなで教会に行こう、という話が出たあたりで我慢しきれず「ああー!」と腹から叫んだ。 「この流れどうかしてる!行きませんよ教会!ほんとマジ勘弁してください…!なにをそんなに勘違いしてるか知りませんけど、そういうのとは違うってずっと言ってるじゃないですか」 「違うって何が違うんだよ。みんなも一度入会すればわかるとか言い出しやがったらヘリから吊るすぞ」 「じょっ、冗談でもやめて下さい……ああもう、さっきから入会とか宗教とか勝手に騒ぎすぎなんですよ」 そう言うと、はおむもろに鞄の中から目に眩しい黄金色をした財布を取り出した。 「なんだよそれは」 「お金が溜まる財布です」 まだ溜まってませんけど。 振られた財布から小銭の安い音がした。 「龍とか黄色は金運が上がるらしいですよ。風水では」 「………風水?」 「風水」 訪れた長い沈黙。 白けきった静けさで部室はしばし静止画像の状況が続いたが、じきにを掴んでいた両手からゆるゆると力が抜け始め、搾り出すような深い息が跡部の口から吐き出された。しかし安堵の表情は一瞬で去り、取って代わったしかめっ面が短く舌打ちをした。 「あいつか……」 「なに?わざわざ教室まで来るなんて」 物珍しそうに来客を見上げ、滝は雑誌を静かに閉じた。そこから煙が上がるのではないかと思われるほど、女子の視線が一点へと集まっているのがわかる。この男が居るところ、決まって見られる光景だ。 しかし熱いまなざしを一身に浴びる色男は湧き立つ嬌声に一瞥もくれず、憮然と滝を見下ろしていた。 「お前が風水だかに執心してんのは前から知ってるが、あいつにまで吹き込んでんじゃねえ。バカだからインチキだろうがなんだろうがすぐ信じちまうだろ」 誰の話かすぐにぴんと来た。 はっきり名前を出さずとも、跡部直々のお出ましが全てを物語っている。 「素直でいいじゃない。それにインチキとは心外だなあ。風水はれっきとした学問だよ」 「シャチホコみてえな首飾りしてんの見たら誰だってインチキだと思うだろ」 「シャチホコじゃなくて龍」 「とにかくこれ以上おかしな真似させんな」 それだけ言って立ち去ろうとした背中を柔らかな声が追いかける。 「跡部」 「なんだよ」 振向いた仏頂面とは対照的な菩薩のごとき微笑み。 「恋愛運に効く風水ってのもあるんだけど」 翌日、校内を闊歩する跡部の首からはローズクォーツが腐るほどぶら下がっていた。 その奇異な姿は世代問わず幅広い層の氷帝関係者に衝撃を与えたという。 罰ゲーム?修行?最新ミラノコレクション?校内で様々な戸惑いと憶測が飛び交う中、一部のテニス部員だけが悟ったような痛ましいような生ぬるい目でローズクォーツの王子様を見ていた。 「跡部お前さあ……」 「生きていくのに貪欲なだけだ」 「パクりおった!」 これ以後、跡部ファンであろう女子を中心に空前のローズクォーツブームが氷帝学園を席巻し、猫も杓子も首元にローズクォーツという奇妙極まりない現象がしばらく続くことになるのだが、流行の発祥である当人とその引き金となったが肝心の風水の効果を得られたかどうかは未だにはっきりしない。 |