この世で最も美しい朝









きょうはなんの日?


容赦なく光を拒絶する遮光カーテンのせいで、この部屋は何時でも夜のように暗い。遠慮のない青白い光はどんよりとした闇を切り裂いて、起きぬけの私にそう問いかけた。
しばらく何も反応できなかった。目は開いているが、それ以外はすべて閉じている。眠い。意識が今にも途切れそうだ。
メールの受信時間は、4:08。PMではなくAM。要するに午前4:08。つまりは早朝だ。
眠くて当たり前じゃないか。
脱力してそのまま夢の中へと消えてゆく勢いだったが、送信者の名前がそれを踏みとどまらせた。
from芥川慈郎。
普段からやり取りしているのでメールが来ることに問題はないが、時間帯が問題だ。
どうして起きているのですか。他の誰よりも深く眠りについているであろうあなたが、なぜ。
下がりゆく瞼と戦いながら、液晶画面の文字をもう一度追う。きょうはなんの日?
今日はなんの日と聞かれても、そもそも今日は何日なんだ。確か今は5月の連休中で。そうだ、昨日が4日だったから、今日は5日だ。きょうはなんの日。5月5日はなんの日。5月5日はこどもの……あ。


お誕生日ですね


送信ボタンを押してから、すぐにしまったと後悔した。せめて、おめでとうございます、くらい付け加えるべきだった。
なんという淡白な文面。なんだこりゃ日吉か、と素っ気無いことでは他の追随を許さない同級生を思い浮かべてむなしくなった。しかし指が重くて重くてどうしようもない。「!」マークを出す気力すら湧かなかった。
かといって適当な気持ちで打ったわけではなく、これでもありったけの根性と気合を総動員させたつもりである。すぐにでも、おやすみなさいの誘惑に負けてしまいそうなところを最後まで堪えて乗り切った。
冗談抜きで就寝5秒前といった極限状態だったが、あの覚醒時特有のわくわくした瞳で返信を待っているのかと思うと、とても後回しになんて出来なかった。これがジロー先輩ではなく他の誰かからのメールならば、私の意識はとっくに消えてなくなっている。

軽快なメロディと痺れるような小刻みの振動にハッとした。携帯を握り締めたまま、再び眠りに落ちてしまったらしい。さほど時間はたっていないようだったが、ずいぶん長く眠っていたような気がする。
開きっぱなしの画面には、こちらのまどろみなどものともしない溌剌とした文字が躍っていた。


いわって!


並んだ文字はどろんとした目を通り私の中に入ってきたが、意味を持たずにただぐるぐると回った。
いわって。イワッテ。岩って。
常識的に考えればそれが「祝って」であることは明らかなのだが、のろまな頭は残念ながらまだ眠りについているらしく、その正解にたどり着くまでには相当な時間を要した。
寝てばかりのジロウ先輩のことを笑えない。ちっとも目覚めようとしないこの怠惰な脳をどうにかしてくれ。もしいま目の前に九九の問題を差し出されたら、きっと半分も答えられないだろう。七の段とかが特に怪しい。そんなとりとめのないことばかりがもやのかかった頭の中を通り過ぎてゆく。
すっかり闇に同化していた液晶の画面が、布団とシーツに挟まれたまま微動だにしない私を追い立てるように再び手の中で光った。


まってるから!


寝惚けで半分とけかけていた私の脳もさすがに飛び起きた。
この「まってるから」はどう考えても「待ってるから」だろう。「舞ってるから」では絶対にない。そんな報告されても困る。しかしいきなり待ってると一方的に宣言されても、それはそれで大いに困る。
ジロー先輩は待っているらしい。そして私は待たれているらしい。こんな早朝に一体どこで待っているというのか。手がかりが少なすぎる。
今どこにいるんですかと、私はすぐさま先輩にメールを返した。
電池が切れかかったような緩慢さから一転、覚醒した親指の動きは我ながら驚くべき滑らかさである。やればできるじゃないかと、無駄な自信がついた。
しかし、いくら待てどもジロー先輩からの返信はやって来ない。
ノーヒントのつもりなのか、それとも先程の自分のように送信後力尽きて眠ってしまったのか。
ジロー先輩!と携帯に向かって呼びかけてみたものの、当たり前だが返事はない。無駄な抵抗であることは自分でも充分わかっている。

甘やかしてくれる布団を断腸の思いで蹴り飛ばし、鉄壁の守りを固めるカーテンを思い切り引いた。どっと光が流れ込んでくるかと身構えていたが、時間が時間だけに窓の外はほの暗い。肩透かしをくらい、再び私は突き放したはずの布団にもぐりこんでしまった。
あまりに早い、早すぎる。朝陽もお目見えしてないじゃないか。せめて電車が動き出す時間までお待ち下さいな先輩。
言い訳するようにぶつぶつと呟きながら、布団の中で小さく体を丸めた。しかし何故か手から携帯が離せない。そうだ無心になろう。無心になって、全て忘れてしまおう。
まってるから。
無心どころか根底からグラグラ揺り動かされそうなものが浮かんでしまった。これはいけない。心を静めるために、固く目を瞑ってみる。
まってるから。
なかなか上手く心を空にできない。
まってるから。
無だ。無にしなければ。
まってるから。まってるから。まってるから。

結局私は、家族の幸福そうな寝息をすり抜けて、冷たさの残る朝の空気の中自転車に跨った。




「おはよー!」

息切れしてろくに返事もできない私とは対照的に、ジロー先輩はとても生き生きとしていた。
大きな枕を両手で抱いて、ソファに寝転がっている。私が来るまでの間ほおばっていたのか、チョコレート菓子の空き箱がゴミ箱の脇に転がっていた。投げ入れようとして外したのだろう。
お互い着ているものがユニフォームでも制服でもないという点をのぞけば、いつもの部活の風景となんら変わりがない。ただ、朝練時よりも更に澄んだ早朝の空気が見慣れた部室の雰囲気を少しよそよそしいものにしていた。
自転車を漕ぎながらどこを目指したものかと頭を悩ませたものの、よく考えたらこれまで一緒にどこかへ出かけた思い出などひとつもないし、家の場所すら知らない。私たちの接点といえば毎日毎日飽きずに活動しているテニス部くらいで、ジロー先輩が私を待つ場所として思いつくのは、この汗臭い部室だけだった。

「部室…よく入れましたね」

この大型連休の間、自主練習に来る部員の為にコートは解放されているが、確か部室は閉鎖されているはずである。
途中の長い坂道で体力を使い果たしてしまった私がよろよろとソファの端に腰掛けると、先輩はポケットから鈍い銀色の鍵を取り出し得意気に目の前で振った。

「俺、合鍵もってるー」

昼寝にちょうどいいから。まったく悪びれた風もなく笑っているが、果たして跡部先輩はこれを許しているのだろうか。いやそれより榊監督は知っているのだろうか。この部は厳しいようで妙なところが寛容だったりするから不思議だ。

「それより先輩」
「うん」
「なんでこんな時間にそんな元気一杯なんですか」

普段は起きてて当然の時刻に眠たそうな、というか本当にぐうぐうと寝ている癖に、多くの人が夢を見ている超ド級の朝時間にこのテンションとは納得いかない。爛々と瞳を輝かせながら、落ち着きなく狭いソファの上を転がったり起き上がったり。ラケットを持たせたら飛び跳ねながらコートに走ってゆきそうだ。
見れば、着ているものもそのまま街へ繰り出せる程度に小奇麗で、まったくくたびれた感じがない。
私はといえば、寝巻きに毛が生えた程度のいでたち。しかも威勢のいい寝癖という嬉しくないオプションまで付いている。年頃の女の子が年頃の男の子の前に出るには相当しなびた姿ではないか。悲しい。

「あのねえ昨日、妹がミッキーに会いたいっていうから行ってきたんだけど、あ、ランドの方ね!」

言いながら、ジロー先輩は例のネズミの耳が施された帽子を私にかぶせた。

「ゴールデンウィークだしすっげ混むじゃん?だから朝早く行って、遅くなる前に帰ってきたわけ」

やっぱすごい人でさ、マジ疲れたCー。家に着いた途端寝ちゃって、それが6時とか7時とか、とにかくすごい変な時間だったの。んで、いつもより早めに目が覚めたんだけど、よく考えたら今日オレ誕生日じゃない?そしたら急にじっとしてられなくて、ついここ来ちゃった!そんでにメールしちゃった!

しちゃったのである。思いついたからには、しちゃわずにはおれなかったのである。多分、時計なんて無粋なもの彼は見ようともしなかったのだろう。瞬発力で生きていることでおなじみの芥川慈郎である。今更それを咎めても何も始まらないし、何も終らない。不毛なだけである。
悟りを開いている間、私は興奮気味にアトラクションの感想を語るジロー先輩からランドで買ったらしきお土産を次々と手渡され、気付けば両手がいっぱいになっていた。

にしか買ってないからみんなにはナイショねっ。あと、お菓子はオレと一緒に食べること!」
「は、はいっ、ありがとうございます」

色とりどりの可愛い缶やぬいぐるみの数々に胸がキュンとなる。でも何より、自分にだけというあからさまな贔屓が嬉しくて私はにこにこと頷いてしまった。だが、にこにこしている場合ではないのである。忘れてはいないか、本日お誕生日を迎えたのはどなたかということを。

「ジロー先輩ええと、これ」

出遅れたことを悔やみつつ、私はぶら下げていた紙袋から大きくて厚みのある四角い包みを取り出した。自転車カゴの揺さぶりを直に受け続けずいぶんと弱りきっていた紙袋に比べ、中身を包んでいた包装紙の方は傷もなく無事だった。

「えっ、なになにコレ!?」
「誕生日プレゼントです」
「うっそ!すっげ嬉Cー!」

ジロー先輩は子供のように飛び上がり、何度も嬉Cー!を連発しながら包み紙を開けた。

「…あー!もしかしてタオルケットー?!」

言っておくが、物置にあったものを適当に引っ掴んで来たわけではない。休みが明けたら部活の時にでも渡そうと、前もって用意しておいたのだ。まさか当日、しかもこんな時間に呼び出されることになるとは思ってなかったけれど。鼻ちょうちんを出しながら眠るヒツジの柄が、妙にジロー先輩っぽい。

「今まで使ってたのはクタクタになってたみたいなんで…」
「うん!ふかふかしてすげー気持ちEー」
「あの、言うのが遅れてごめんなさい、誕生日おめでとうございます」
「ありがとー!」

衝突と呼ぶにふさわしいいつもの勢いで、ジロー先輩は未だミッキー帽を装着したままの私に抱きついた。先輩の腕と共にタオルケットにも巻きつかれ、羊たちに取り囲まれたような気分になる。一番大きな羊はもこもこしているどころか結構骨ばっているので、慣れているとはいえ乙女としては抱擁される度にやはりどきどきしてしまう。
しかし喜んでもらえてよかった。誕生日にタオルケットとはいかがなものか、プレゼントというよりお中元やら快気祝やらの贈答品系なのではないかと少々ばかり不安に思っていたので、心から安堵した。

「ねー
「はい」
「なんか眠くなってきちゃった」
「……」

そんなあんた、朝陽のご登場よりも早く人を起こしておいて、眠くなったですと?早朝一番自転車レースをしてきたおかげでこっちはすっかり目が冴えてしまったと言うのに、眠くなったですと?
果てしない脱力感が私の全身を包んだが、不思議と怒りが湧いてこないのは、どこかでこうなることを予感していたからだと思う。ジロー先輩と言えば睡眠で、睡眠といえばジロー先輩なのだ。切り離せない。丸眼鏡と忍足先輩くらい切り離せない。いやあれは伊達なのだから外せば済む話だろうが、まあ正直どうでもいい。
常日頃からそうしているくせに、お誕生日だから膝枕ね!とジロー先輩はタオルケットにくるまりながら、私の足の上に転がり込んだ。

「起きたらさ、どっかに朝ごはん食べに行こうねー」
「いいですけど、とりあえず一度家に帰らせて下さい」
「なんで?」
「とても出かけられるような姿じゃないんで…」
は今日もかわいいよ」
「かわいくないですボロ雑巾です…」

そんなことないのに、とフォローを入れてくれる優しいジロー先輩。しかし瞼がかなり頼りない。寝そう。今にも寝そう。

「起きるまでちゃんと待ってますから。ゆっくり寝ていいですよ」

私の声に安心したのか、ヒツジ柄の中で丸まった先輩はふるふる震えていた瞼をようやく下ろした。
天使が迎えに来てしまいそうな愛くるしい寝顔。張り切った後の彼の睡眠時間は仮眠と呼べる程短いものではない。さっきまでのテンションから考えるに、朝ごはんが昼ごはんの時間になることは容易く予想できた。
さて、眠り姫が起きるまでどうやって暇を潰そうか。パーカーの紐をいじりながら思案していると、寝ているとばかり思っていた膝の上の姫が突然目を開けた。

「ホントはね、誕生日なんてどうでも良かったんだ」

色も形も変わらないのに、吸い込むように見上げた大きな瞳はいつもより男の人に見えた。

「なんでもいいからに会いたかったの、俺」

大好き。
そういい残して、ジロー先輩はあっという間に眠りの淵に落ちた。私の心臓を跳ね上げたことなど知る由もなく、無邪気な寝息を立てて。
手を伸ばして触れた金の髪はいつも通り柔らかくて、やけに眩しい。
顔を上げたら、朝陽が街並みから這い上がるように昇っていた。窓ガラスを溶かさんばかりに降り注ぐ光の洪水。瞼を閉じても沁みこんで来る蜂蜜色に打ちのめされながらも、目が覚めたら一番に言おうと私は強く決心していた。

私も好きですとてもとてもとても