鳥のさえずりとともに、日吉家の呼び鈴はリンリンと忙しなく鳴り響いた。
まだまだ空の真上に太陽の姿はなく、まだ朝と呼んでも差し支えない時間帯のことである。

鳴り止まぬ音に日課の鍛錬をまんまと中断させられ、仕方なく道着のままで玄関に出ると、見覚えのある顔が現れた。


「…先輩?!」 

 
引き戸の向こうに立つ彼女に、いつもの覇気はない。
清々しい早朝の雰囲気にはずいぶん似つかわしくない淀んだ表情である。
  
「……おはようございます日吉サン」

「あ、おはようございます……じゃなくてっ」

低テンションながらも丁寧に挨拶されてついついつられてしまったが、すぐに我に返った。

 
この人、一体どうしたというのか。


いくら夏休み期間だからといって、何もこんな朝早く来ることはない。用事があったのなら電話をかけてくればいい。
直接会う必要があったとしても、事前に連絡くらいはするものだろう。
確かに彼女はいきなりな感じの人ではあるが、そのへんの礼儀は意外とわきまえている。
…はずである(そう思いたい) 


「どうしたんですか、こんな朝から」

「思い切り、殴っていただきたく」

「え」





殴?




 
「ガツンと横っ面を」







横っ面?






「できることならグーで」

「な、殴るとはそもそも、グーの状態ですよ…じゃなくてっ(2回目だ!)」


 
殴るって、いったい誰を? 

 

から連発される突然な台詞の数々に、日吉の方こそ殴られたような衝撃だ。
なんの前置きもなく早朝押しかけてきた挙句、いきなり殴れとは。
さっぱり、意図がつかめない。

「うわ…ちょっ…先輩!?」

なにひとつ飲み込めない後輩にもどかしさを感じたのか、キッと顔を上げたは、日吉の両腕に飛びつくように掴みかかった。
 
「ひよし!」

「な、なんですか」
 
「早いとこ、私をぶん殴っとくれ!」

「なっ…!」

「…じゃないと…
もう…はが…

「は!?」

「歯が…!」

「歯!?」
 









 


 
















「…朝も、こっ早いうちから、どうもすいません」

「まったくですよ」
 
これ以上玄関先で騒がれても困るので(家人の目も気になる)とりあえず、日吉はを自分の部屋へと上がってもらった。

さきほど玄関先でとんでもないことを口走って取り乱していた彼女だが、今は大人しく湯飲みから立ち上る湯気を見つめている。 
時間がたってだいぶ頭も冷えたのだろう。
出された座布団の上で申し訳なさそうに座るその姿は、悪ノリしすぎて叱られた子供そのものである。

その出来の悪い童子に説教を垂れるかのような役割を感じつつ、日吉は腕を組んだまま溜息を吐く。
 
どうして、自分のポジションが「厳格な父」なんだ。
こちらは年下で、この小さくなっている方が年上だというのに。 
立場が、まるで逆ではないか。
 
まあ、今に始まったことではないが。



 
   
「先輩…まだ乳歯あったんですね」

「ばっ…馬鹿にしたな…!」

「いや、別に馬鹿にはしてませんよ」

「………うん」

テーブルの向かいに座る子供は、再び項垂れた。
  
「あのね…最後の一本なの」

それが、なかなか抜けなくてイライライライラするのだと、ひとつ年上のはずのこの人はこの部屋に辿り着くまでの間中、必死で自分に訴えていた。 
(切羽詰りすぎてたのかなんなんか歩こうとしないので、半ば無理矢理引きずる格好だ)
おかげで廊下を「乳歯が!乳歯がへばりついて抜けない!」という、聞き返したくなるようなうわ言が通り過ぎてくこととなった今朝の日吉家。
後で家族から問いただされた際、なんと説明したらよいのかと考えるのも憂鬱な日吉である。
 
「最後だからなのかも知れないけど、この歯…すごくしつこいの」 
 
しつこい。
 
抜けない、ということだろうか。

「今までは自然にとれてたから、放っとこうと思ったんだけど」

そっと、は人差し指を奥歯に当てる。

「これ微妙にくっついてて、ずっとグラグラしてんだよね」

あと、ほんのちょっとなのに…とは心底悔しそうな顔をした。
歯の一本くらいで、そんな大袈裟な。

「そんなにグラついてるんなら、すぐとれるでしょう。もうしばらく大人しく待ってたらいいじゃないですか」

「待っておりましたとも!」

テーブルに叩きつけられた彼女の握り拳は、かなり力がこもっていた。
 
「いつとれるかいつとれるか、5日前からずっと待ってたのに!」

思ったより、長く戦っていたらしい。
すっかりそれで神経をすり減らしてしまったのか、どこか遠くを眺めるようにはうっすら目を細めた。
 
「とれそうで、とれない日々が続くばかりで…歯茎にこう、歯の根元がようやくぶら下がってるっていうか…歯肉に鋭い洗濯バサミが食らいついてるっていうか」

「生々しい説明はいいです」

こちらの歯茎まで緩んできそうな気がして、日吉は話を遮った。
 
はというと、少し残念そうである。
これ以上、何を聞かせようというのか。

「もう気になって気になって…昨日の夜なんか部屋で一人、時計の秒針の音にあわせてずっと歯をグラグラいじってた」

「……」

これはちょっと危険な状態だったのではないか。
さりげなく昨晩、彼女は極限を迎えている。
 
さすがに日吉は心配になった。

 
「母さんはさ、歯医者で抜いて来いって言ったんだけど」

「行けばいいじゃないですか。むしろ行ってください、早く」

そうだ。その道のプロの元へ行け。
ここに来るのは明らかに間違っている。
 
「いつも行ってるところ、お医者さんが入院して長期休院になってたから」


肝心な時に頼りにならない歯医者だ!


日吉はまったく面識はないにも関わらずその歯医者を心の底から忌々しく憎憎しく思った(八つ当たりだ) 

   
淹れたての茶はまだ熱い。
猫舌ではないはずだが、は一口飲んでわずかに顔をしかめた。
どうも、とれかけた歯にしみるらしい。
 
「無理矢理むしりとるほどの度胸はないしさ…だからいっそのこと、」
 
 


殴ってもらって、歯が上手いこと飛んでいけばいいと思ったんだけど。




そう言いながらおそるおそる見上げてくるに、日吉は再び深い溜息をつくほかなかった。
 

 
「なんて短絡的なことを考えるんですか」


物心ついた頃から学んできた武術の腕前はそれなりに自信がある。
いくら手加減したところで、与える衝撃は相当なものだ。
乳歯どころか、下手したら永久歯まで飛んでいきかねない。 
  

5日以上もイライラに耐え抜いていた割には、殴られてもいいから歯を抜いてしまいたいなんて。

気が長いのか短いのか、さっぱりわからない人だ。

 
「…それにどうして、俺なんです」

返ってくるであろう返事を予想しながらも、一応日吉は問うてみる。

「だって一番いい拳してそうなの、日吉だし」

やっぱり。

普段から彼女は、自分の古武術をすごいすごいと褒め称えてくれていたので、そう来るのではないかと思っていた。

「だいたい、こんなこと頼めるの日吉しかいない…」

それは、俺なら先輩を殴るだろう、という意味か。
 
妙に日吉は腹が立った。
 
「簡単に女の人を殴るように見えるんですか、俺は」
   
「そういうわけじゃなくてさ…殴られたら痛いじゃない、頼んだこととはいえやっぱ腹立つじゃん」
 
「……?」

「や、だからですね、殴られても別に許せる相手を選んだわけですよ。日吉に殴られるならいいかな、と」

「……!」

その回答は、予想していなかった。
 
「それに、歯がとれたら縁の下に投げなきゃいけないのに、うちマンションだからさ。日吉の家はその点ちょうどいい」

「……」

その回答も、予想してなかった。





「あと…日吉の道着姿、見れたらいいなとも思ってた」






日吉は、思わず顔を伏せた。
  

きっと自分は今、耳の先まで赤くなっていることだろう。
道着の合わせを見つめながら修行不足だ、と痛感する。 
 

「俺の古武術はそんなことのために続けてるわけじゃありません」

「うん、そーだよね…ごめん」

照れくさくて視線を落としたまま放った言葉の後に、明らかにシュンとした声が続いた。
顔を上げれば、声以上にしょんぼりとした彼女の姿。 
 
鳳あたりならシュンとしようが凹んでようが、お構いなく突き放したり出来るのに。
 

あなたにそんな顔されたら、放り出すわけにいかないじゃないですか。


日吉は、もう何度目か判らない溜息を大きく大きく吐き出した。
今回はに吐いているというより、自分に対して、だが。

「…仕方、ないですね」 

「え?殴ってくれんの?」

「殴りません!」

まだ諦めてないのかこの人は。 
大体、殴れるわけがない。
他の誰に手をあげても、彼女だけは殴れない。

「…1人で引きこもっているからそのことばっかり気になるんでしょう。歯が自然ととれるまで、一緒にいてあげますよ」 

恩着せがましくそうは言ったが、本音はどうだか怪しいものだ。
「一緒にいてあげる」なのか、それとも「一緒にいて欲しい」なのか。

「いいの?せっかくの夏休みなのに」
 
「拳を要求されるよりマシです」

「…うん、ありがとう日吉」

「いえ」

「良かった。もし日吉がだめなら、最終手段で忍足家を考えてたんだー。親が医者だからなんか薬あったりするかなと思って」

   
日吉の背中を、冷たいものが走った。


薬は薬でも、おかしな薬を打たれたらどうする気なんだ。
最悪の場合、歯だけでなく他の何かまで奪われてしまう。
「キヒヒヒ」と歪んだ高笑いをしているメガネの姿が、日吉の脳裏に浮かび上がった(忍足いい迷惑)

 

「…その最終手段、絶対使わないでください」 

「え」

「というか、他の手段も考えないでください」
 
「は」
 
「…頼るのは今後、俺だけにしておいて下さい」

「は…はい!!」

 
 
先輩は確かに手がかかる。
放っておくにはどうも頼りない。
だが、他の奴に世話をさせるなどまっぴら御免だ。


 
この人の面倒は、俺がみよう。



『厳格な父』だろうが『祖父』の役割だろうが、もうこの際構わない。
むしろ、釣り合いが取れているではないか。
相手が子供なぶん、それくらい自分が大人にならなければならないのだ。

 

幼くて、手がかかる、年上のその人は、目の前でなかなか冷めないお茶をじっと覗き込んでいる。




「大人」のメンツとやらを保つために、とりあえず。 


俺の奥歯がまだ乳歯であることは黙っておこう、と日吉はまだ熱い茶をゴクリと飲み干した。







20万キリバンで日吉をリクエスト下さった、海様に捧げます。