君が風邪を引いたので ……………………………………………………………………… |
呼び出し音が3回鳴った。 誰から、と考える必要はない。電話を鳴らせるのは、当たり前だが電話番号を知っている人間だけであり、この携帯に限ってそれは一人しかいない。電話が鳴るということは、すなわちその人が呼んでいるということになる。 その人、跡部景吾が呼んでいる。 何度も何度も呼んでいる。 早く出ろといわんばかりに呼んでいる。 わかってる、わかってる、いま出るっつうの、とは心でぼやきながらピロロロ、と繰り返し奏でる携帯に手を伸ばした。 この飾り気のない音色が着信音として設定されたのはほんの少し前のことである。着メロどころかアーティストが艶やかな歌声でお知らせしてくれるこのご時世にピロロとは若者にしては極めて地味なセレクトといえるが、は十分満足していた。なにしろそれ以前は着信を受けるごとに「俺だ俺だ」と跡部様ご本人のお声が高らかに鳴り響いていたのである。 毎度心臓が飛び跳ねる。携帯が震えるたびに一緒にも震えたものだ。 あんまり落ち着かないものだから、これでは学校はもちろんのこと家でもマナーモードを解除できぬと、勇気を振り絞って跡部に申し出た。当然あっさりお許しを頂けるわけもなかったが、しつこく頼んで粘って縋って頭を下げて、しまいには周りから失笑を買うレベルの下手な嘘泣きまでしてのち、ようやく頷かせたという汗と涙の結晶である。公共の場で堂々と鳴らせる音ならば、ピロロだろうがペロロだろうがドンドコだろうがこの際何でもいい。 ようやっと枕元に手が届き、しつこく騒ぐ携帯にたどり着いた。 が、驚いた。指の1本1本が言うことを聞かない。 掴むのを半ば諦め、は耳の上に乗せるようにして開いた携帯を当てた。 「やっと出たな、遅えじゃねえか何してた!さっきのメールの休むってどういうことだお前、サボろうってのかっ!?」 耳が割れそうになった。 「なに黙ってんだ返事しろ、お、おいまさか事故にでもあったんじゃねぇだろうな!」 黙っていたというより口を挟む暇がなかったのだが、電話口の跡部はこちらの都合など汲み取ってはくれない。 わんわんとかきならされる大音量に携帯がの耳の上で震えている。 出来ることならこのまま電話を切りたかったが、はなだれ込んでくる怒声を無抵抗に鼓膜で受け止めた。身体が思うように動かなかったし、なによりそんな気力が湧かなかった。 「今どこだ」 「い゛え゛でず」 「あ?」 「い゛え゛……」 無理に空気を吸ったせいか、途中で二三度咳き込んだ。喉に熱い痛みが滲み、そこに枯れ果てた声が張り付いて出てこない。 「風邪、か?」 さすがに跡部も相手がどういう状態か気付いたようで、電話から漏れてきた声は先程と一転して控えめなトーンへ。 あのまま怒鳴り声が続いていれば、何事もなかったはずの頭が痛み出すのも時間の問題だったろう。病状の悪化を免れたは小さく息を吐いた。 「熱は」 喉を振り絞って39度ちょっとだと答えると、跡部の声がひっくり返った。再びの鼓膜が震え、携帯が耳の上で踊る。せっかく遠のいた頭痛の予感がUターンしてきた。 電話口の向こうでご主人様が、薬は、医者は、食欲は、と世話焼きなオカンのように早口でまくしたてているようだが、判断力が大いに低下している病人にはほとんど答えられない。そもそもハキハキと回答できるほど元気ならば、こんなところで寝込んではいない。 それでも流れ行く声の端にかろうじて「大丈夫か」という言葉を聞き取ったは、反射的にガラガラ声で「大丈夫でず」と全く大丈夫ではない返事を返した。案の定「どこが大丈夫なんだ」とすぐさま突っ込まれたが、それに反論する力はもう残っていなかった。 寒気と熱に揺さぶられた体は指の先までだるく、耐え切れぬほど瞼が重い。 しぼみかけた聴覚の奥底で、心配そうな声音がの名を呼んでいる。 応えようとして喉に力を込めた。 かさついた唇を幾度か上下させた後、耳から滑り落ちた携帯がベッドの下へと転落していった。 支えられるようにして病院に連れて行かれた、と思う。 体の汗を丁寧に拭いてもらった、ような気がする。 すった林檎のようなものを口に入れられた、かも知れない。 すべて曖昧な言い方なのは記憶が曖昧だからだ。意識が途切れたり繋がったりして断片的にしか覚えていない。 最後に熱をだして寝込んだのは小学校に入るか入らないかくらいのはるか昔のことだったから、風邪がどんなものだったかしばらく忘れていた。咳や鼻水程度の症状ならば身に覚えがあるものの、ここまで重いのは記憶にない。 今は昼をまわったくらいなのかそれとももう夕方くらいなのか。うっすらと瞼を開けてみても、カーテンが締め切られた部屋は薄暗いままで時間の感覚はつかめなかった。 時計を見るのに半身を起こそうにも、力が入らない。 こんなに弱ってしまうものなのかとは朦朧とする意識の中で唖然としていた。 ほんの少し、気にしてはいたのだ。授業中、周囲8席から浴びせられる激しい咳の音については。 しかしその時のは風邪のかの字も見当たらぬ、いたって健康体だったのでうつされるとはあまり考えていなかった。威勢良く飛んでくる唾を避け続けるミッションの方がよほど重要だった。 だがそれは甘かったのである。人より丈夫に出来ていると思われていた(そして自分もちょっと自覚があった)の体も、8人分の風邪菌を一身に受けてしまっては流石に持ちこたえられなかった。歯が抜ける勢いでくしゃみと咳を繰り返していたくせに、誰一人としてマスクを着用していなかったクラスメイトらが恨めしい。 昔から、風邪は人にうつすと治ると云う。 迷信だとは思うが、もし今頃全員けろりとしていたらどうしてくれようかと布団の端を弱々しく噛んだ。 まったく一身に受けるのは寵愛くらいにしておきたいよ、とは鼻をすすったが、残念ながらすでに自分自身が暑苦しいほどの寵愛を受けていることと、それが日々に波瀾万丈をもたらしている最大の原因だということは本人の知らぬところである。 処方された薬が効いて来たのか、緩い眠気が波の様に打ち寄せてきた。時計の音がゆっくりと遠くなる。 眠っているのか起きているのか、どちらともつかないふわふわした暗闇で夢をみた。 跡部が床にばらまいたナッツ盛り合わせの中から、えんえん箸でカシューナッツを拾わされる夢だった。馴染み深い部室の床は見事にナッツの絨毯で覆われ、柔らかい茶色に染まっている。そこに這いつくばっては必死でカシューナッツを捜した。渡されたのは割り箸ではなく無駄に高級な漆の箸だったので滑りやすくてなかなか挟めない。額に汗をかきながら、ツルツルと逃げるナッツをやっとの思いで掴まえると、背中に跡部の声がした。 てめえそれはバタピーだろうが! 「おい、」 はっと目を覚ましたは、苦行のような夢から覚めたことに一瞬安堵した。 が、その直後、カシューナッツを拾わせていた張本人と目が合い、再び意識を失いそうになった。 眼前に跡部の顔がある。 憮然とした表情のまま、起きたか、とその口が動いた。 まさかの夢の続きロングラン上映には返事をする代わりに激しくむせた。 咳き込みつつも跡部の足元を見やると、当たり前だがカシュナッツもバタピーも落ちていない。やはり夢はあそこで終っている。さっきの跡部は夢だったが、今ここにいる跡部は現実である。 なるほど跡部様二本立てか、と朦朧とした意識は意味のわからない納得をした。 「い、いづ、」 いつ来たんですか、がしわがれた声を出すと、跡部は今さっきだと答えた。 学校帰りなのか見慣れた制服姿である。 ただいつもに比べて発する威圧感が薄れているように見えるのは、神経まで風邪でやられているせいだろうか。 跡部はしばらく田んぼのカカシよろしく、ぼおっと突っ立ったままの顔を穴があくほど見ていたが、やがて短く息をつき、クッションを引き寄せながら床に腰を下ろした。そして部屋が狭い、と言わなくていい文句を言った。 にとっては別段狭くもなんともない至って普通の広さだが、なるほど、跡部が居座ると異常に部屋が狭苦しく見える。狭いというか、貧相にうつる。跡部一人がやけに煌びやかで、背景が追いついていない。都落ちした貴族みたいである。 だが紅茶がワゴンで運ばれてくるような家(勝手な想像)と一緒に考えられては困るというものだ。 彼らにはスキマ家具やデッドスペース有効活用などの収納テクニックがいかに重要か一生わかるまい。 貴族は育ちの良さを蹴飛ばすようにあぐらをかき、肘をついた姿勢でじっとを見張っている。不機嫌というか強張っているというか、なんとも形容しがたい表情で力いっぱいこちらを見ている。悪いが睨まれるような覚えはない。 ぶしつけな視線を全身に感じつつも、それをはねつける元気のひとつもないは、ぐったりした体を支えながらこの人何しに来たんだろうと思った。 ふと、部屋が明るいことに気が付き、首を後ろへ捻るとカーテンが開け放たれていた。おそらく跡部が開けてくれたのだろう。 夕方が近付きつつある空には雲ひとつなく、気持ちよく晴れ渡っている。 「飲め」 振り向くと目の前にスポーツドリンクが突き出されていた。 熱でひからびた体に、この冷たい甘さはとてもありがたい。ただ、もう少し手頃なサイズならばもっとありがたかった。 重い。 今の状態で2リットルペットボトルはさすがに重い。 弱った体に鞭を打ち、は必死でそれを持ち上げた。 何とか飲み終えて礼を告げると、跡部はまだいっぱいあるぞと誇らしげに親指を向けた。目で追うと、部屋の隅にダンボールが3箱詰まれていた。 跡部の買い物は箱買いダース買いが基本だと巷で囁かれていたが、本当だったのだなと大量のポカリ(2リットル)を見つめながら少し途方に暮れた。 飲みかけのポカリをよろよろと持っていると、跡部の手が伸びてきてそれを支えた。 「もういいのか」 「はい゛」 「ここに置いとくからな」 ベッド脇の机に置かれたポカリは汗をかいている。その雫がゆっくり垂れてゆくのを目で追っていると、視界に四角い桐の箱が飛び込んできた。目を細めても見てもやっぱりそれは桐の箱で、乱雑な学習机の風景からとてつもなく浮いていた。 注がれている視線に気付いた跡部が、訝しげな顔でを見た。 「ぞれ゛…」 「あ?これかよ」 こういう時の定番だろうがと言って、跡部は蓋を開けて見せた。つまった鼻にも香りが届きそうな高級メロンの青い肌が覗いていた。 そうか、お見舞いにきてくれたのか、とはその時ようやく気付いた。 食欲が大きく低下している今でさえ、メロン(しかも高級)の輝きはの視線を釘付けにした。 素直に喜びを感じる中、確かあの高級百貨店のフルーツ屋でひとつ一万五千円……と病に伏していて尚いやらしい金勘定をしてしまうのは、性根に染み付いたセレブへの羨望と嫉妬であろうか。セレブコンプレックス、略してセレコン。 自分が持って来たメロンに青い顔ぶらさげた病人が悲喜こもごも見出しているとも知らず、跡部は部の連中からだと一枚の色紙を渡してきた。様々な筆跡で思い思いの場所に書かれたそれは、どうみても寄せ書きである。 ダンボール三箱分のポカリを目にした時以上には途方に暮れた。 たった一日休んだ程度の病人が頂くには逆にプレッシャーのかかりそうな代物だ。向こう一週間くらい床に伏せってないと申し訳ない。 見ると、「元気出せ」とか「頑張れ」など見舞いの寄せ書きとしてわかりやすいものもあれば、「下剋上」や「目指せ全国優勝」など明らかに勘違いコメントも混ざっていて実にカオスである。 個人的には樺地の「早くよくなって下さい」がシンプルだが一番心に沁みた。向日の「侍ってんぞ!」は漢字が間違っていた。宍戸に至っては字は汚すぎて判読不可能だった。 どちらかというと色紙から伝わってくるのは倒れた友への労わりというよりも、抑えきれない好奇心といったウキウキ感で、さてはこいつら風邪が珍しいな、と咳ひとつしたことのない極端に丈夫な部員達に思いを馳せてしまった。 「熱は下がったか」 その時、急に真剣な声と手の平が額に降ってきたものだから、は一瞬背筋が伸びた。 跡部の手の平が冷たいのか体温が高いのか、触れたところがぼんやりとしてよくわからなかったが、朝よりは体が楽だったので多分下がっただろうと、傾げかけた首を持ち上げて曖昧なまま頷いた。すると跡部は「適当言うな」と床に転がる体温計を引っ掴んで寄越した。 数分後、脇から抜いた灰色の表示画面には37.8。 その数字を見て、やっぱり少し下がっていたとはホッとしたが、横から取り上げた跡部は胸を撫で下ろすどころか、カッと音がしそうなほど大きく目を見開いた。 「7度8分って、お前、この……!全然下がってねえじゃねえかァ!」 最後の「かァ」は幾分か裏返っていた。 確かに平熱ではないが、そう青ざめるほどの高熱でもない。だが跡部の慌てぶりは凄かった。 「何してんだ寝ろいいから寝ろとにかく寝ろ布団から肩出してんな!」 バカとかこの野郎とか罵倒されながら起こしていた半身を引き倒され、なすすべもなく布団に押し込められた。 その一連の流れは実に荒っぽく強引で、布団をかけてもらったというよりもスマキにされたという感覚に近く、やたらと息苦しい。 37.8℃の体を包んでいるのは肌に優しいタオルケットと羽毛布団の二枚。 季節を考えれば充分だが、それでは心もとないと判断したのだろうか、跡部はバスタオルやハンガーに吊るしてあったカーディガンなどを目ざとく見つけ、その上にどんどんと重ねていった。直接重さを感じないものの、目の前がこんもりと高くそびえていく様は視覚的にかなりの圧迫感である。漬物になった気分がした。 しかし、病人の上に山を一つ築いてもまだ跡部は満足せず、おぐしを乱しながら忙しくベッドの脇で動いていた。とはいってもその大半は立ったり座ったりデジタル体温計を振ってみたりと無駄な動きである。 やがて落ち着きのない貴族は机の上に冷却シートを発見し、これだ!という顔で駆け寄ってきた。 ひんやりした感触が心地よくては大人しくされるがままになっていたが、跡部が更に三枚ほど貼ろうと手を伸ばしてきたので、さすがに必死で首を振って拒否の意を示した。顔中に貼られては困る。 「…よし」 何がよし、なのかはさっぱりわからぬが、かっぱ巻きからはみ出したキュウリみたいな有様になっている病人を見下ろして頷いた跡部はベッドの端に座った。 その途端、軽妙なメロディが胸元から鳴った。 もしもし、と控えめな声、続いて軽い舌打ち。電話の相手が誰であるか、その態度で大体予想がついた。 …本当にうるっせえダブルスだな、後ろの関西弁黙らせとけ。あ?スポーツドリンク?買った買った、忘れず持ってったつうの。一番でかいボトルな、そうだ2リットルの…って、誰がバカだよ。数?三つだ。3本なわきゃねえだろそんなしけた数買えるか、三箱に決まってんだろうが。ああ?だから何でバカなんだよてめえ。もう切るぞ、後ろで熱出して寝てんだよ。いいからお前らはグランド走ってろ。来たら殺す。 部屋の隅から声が消え、代わりに豆腐屋の甲高い音が表で鳴り響いた。 もう日が暮れる。 「そろそろ帰ってくんだろ」 「?」 「お前の母さん」 「え゛」 「買い物に行くっつってたぞ」 来た時玄関先で会ったんだよ、とシャム猫のような瞳を眩しそうに細めた。 夕陽の赤い光が鋭く射し始めている。 長い指が桐の箱の上で跳ね、乾いた音がコツコツと鳴った。 「帰って来たら、メロン切って食わしてもらえ。それまで寝てろ」 ああ、もしかして、これは、看病だったのだろうか。 ひんやりとした額の温度に身をゆだねながら、はまたしても遅れて気付いた。 夕焼けは部屋をどんどん赤く染め上げてゆく。 は眩しさに負けて目を閉じた。 そして、跡部に遭遇した時の母のことを想像した。 いきなり男が訪ねてきてびっくりしただろうか。それとも娘の見舞い客を純粋に喜んだだろうか。少なくとも、あの類稀なる容姿と手土産に桐の箱メロンというセレブ感に度肝を抜かれただろう。親子だけあって感性がよく似ているから、あれはどこの貴族かなどと言い出すかも知れない。どういう関係か聞かれたら、説明が面倒だから嫌だなと思った。 カシューナッツを拾わせるような人なんですよ母さん。あ、違う、それは夢だった。そうじゃなくて、バタピーを掴むと怒るような人です。ああ、これも夢だったか。メロンとスポーツドリンクを箱ごと持って見舞いに来て、手荒い看病をしてくれる人です。おかしいな、これじゃいい人みたいじゃないか。 夕陽と同じ速度で意識はどんどん地の果てへ暮れてゆく。 「もう二度と風邪なんか引くんじゃねえ」 冷たい指に鼻をぎゅうと掴まれて、痛いとは思う。 それから、優しい、と普段絶対に思わないことを思った。 一晩寝たらきっと忘れるだろうとも思った。 |