いつか来たる季節に




みかんを貪っていたら朝が来た。
空き缶だのつまみの袋だのの宴の残骸を端に寄せただけのこたつは狭苦しく、やっと両手を置けるくらいしかスペースがない。そこを作業場にして私は黙々とみかんの皮を剥き、時々顎を乗せては浮れた正月番組を眺めていた。
大晦日を酒とチーズ鱈と演歌で見送った家族は寝室で地鳴りのようないびきをかいている。私は欲張って年越し蕎麦を誰よりも多く食べたせいか睡魔に襲われるのも誰よりも早く、居間でうとうとと船をこいでる内に盛り上がりに乗り損ねた。
そのせいか、年明けだというのに今ひとつ晴れがましい気持ちが湧いてこない。
今日のこの日をめでたきこととして主張している真新しい日めくりが静かにプレッシャーをかけてくる。
さあさあさあ新年の慶びを謹んで申し上げろ、と日本全体を包む声なき声。
明けましておめでとうございます!
めでたさで全身を固めたようなレポーターが、私の代わりに元気に応えた。背景として獅子舞が画面せましと暴れ狂っている。
少し前まで遥か彼方で他人みたいな顔をしていた「来年」は、猛スピードで駆け寄ってきてあれよあれよと「今年」に成り代わった。
私はしゃしゃり出てきた「今年」にまだ気を許していない。どこの馬の骨かもわからない。おとうさんは認めませんよ。
しかしおとうさんが認めようが認めまいが、年明けの現実は曲げようもなく、全国的に本日は元旦である。それを思い知らせるがごとく、近づくバイクが音を立て、年賀状が我が家に投げ込まれた。
メールが普及し廃れつつあると聞くが、どっこいみなさん意外と律儀なもので、束ねられたそれは結構な厚みだった。自分と家族の分をせっせと分けながら、私の年賀状も今頃こうして配られているのだろうかと思った。
まずは一枚一枚差出人を確認して、全員出していることに安堵する。
可愛いデザインや見るからにやっつけ仕事、恐ろしく淡泊なもの。十人十色の年賀状を、眺めては重ねた。
跡部先輩からの年賀状は毎年きらびやかだが、ラテン語だったりスペイン語だったりして一片たりとも読めないのでチラ見して飛ばす。
親戚、クラスメイト、塾の友人、部活の先輩後輩。
自分宛てのものは全て目を通した。重ね終わったそれを、一からひっくり返してみる。
分けたはずの家族宛ての山にも手を伸ばし、もう一度差出人を確認した。見落としはなかった。
無意識に小さく息を吐いたところで、携帯が震えた。

外みろ外!

メールの文字に導かれて窓に顔を寄せると、向日先輩が手を振っていた。

あけおめ!という屈託ない第一声に、私はなんの抵抗も覚えず「明けましておめでとうございます」と素直に言えた。くすぶっていた新年への不信感がやや遠のいていく。
「どうしたんですか、こんな朝から」
てかてかと光る鮮やかなオレンジ色のダウンジャケットが、目に眩しい。
寒そうに手をこすり合わせていた先輩は、おうよと言って手を背後に回し、デニムのポケットを探り始めた。
「郵便」
様。
やんちゃな字で書かれた私の名前が視界を独占した。
「ぜってー元旦に間に合わねえから直接届けに来た。一番乗りだろ?」
「あ、ついさっき……」
言葉を濁すと、得意げだった顔が歪む。
「もう来たのかよ!なんでそんなに早えんだよ!」
向日先輩が地団太を踏んだことにより、年賀状を受け取ろうとした私の手が空を彷徨った。
郵便関係者の勤勉さに対してここで訴えられても困る。
あと10分早く出れば良かったと口をとがらせていた向日先輩は、行き場をなくした両手を見て、まあいいやと頭をかきながら手のひらに乗せた。
触れた年賀状は、外気を吸いこんでひやりと冷たかった。
「お前初詣行った?まだだよな?」
この人は結構、疑問形で寄こしておきながら人の答えを聞かない。
実際初詣どころか、こたつからもまともに出ていない始末なので特に異論なく頷いた。
「じゃ行こうぜ」
「え」
これから?
てっきり先輩はこのまま各所へ年賀状を配り歩くつもりなのかと思っていたので、意外な提案だった。
私が断るとは露ほども考えてないのか、ほら早く支度しろ!あったかくな!と先輩は急かすように足踏みしながら、突っ立っている私を追いたてた。


「さ……さっむいですね」
「だからあったかくしろっつったろ」
ぐるぐると巻きつけたマフラーに顔半分を突っ込んだ先輩が鼻をすする。
新年の空は薄い棘のように鋭く冷え、澄み渡っていた。吐きだす息が、ことごとく白く凍えて霧散する。せめてもの気休めと持ってきたカイロの反応は鈍く、なかなか暖をとる手助けになってくれない。
早朝とはいえさすがに元旦。
厳かな空気を吹き飛ばすように境内は多くの参拝客で賑わっていた。
神社へ向かって歩いている時はさほど感じなかったが、いざ到着し、参拝待ちの行列で立ち止まっている間にすっかり全身が冷え切ってしまった。
じっとしていると余計寒いので、自然と早足になる。
これほど密集しているのに、先輩は不思議と人にぶつからない。人混みのエアポケットが見えるのだろうか。
すいすいと泳ぐように抜けてゆく先輩に手を引かれて、溺れることもなく人の海を抜けた。
ようやく視界に参拝客の背中以外が入りこむ余地が出来た頃、尖った北風に乗って、ふんわりと甘い香りが鼻孔をくすぐった。
香りの先は巫女さんがふるまっている甘酒だ。普段は好んで飲まないけれど、芯まで冷えた今なら何よりもごちそうだった。
「お前さっき」
「はい?」
「なんの願い事してた?」
向日先輩は冷める気配のない甘酒に視線を落としていた。
私も甘酒を両手で抱えて、立ち上る湯気に息をふきかける。
願い事。
私の願かけはいつも、そこそこのお賽銭の金額に見合ったそこそこのものだ。
成績が今より下がりませんように、とか。
お小遣いが上がりますように、とか。
今年もそんな類のささやかな神頼みのはずだった。
けれど、手を合わせた瞬間、真っ先に浮かんだのは神前で願ってはいけないようなことで、それを消し去る為に一生懸命願い事を探した。
でも結局、沢山あるはずの望みはひとつも形を成さず、神様にお願いらしいお願いもできないまま合わせた手を離した。
「……良い一年になりますように」
「なんだそれ。漠然としてんなー」
「そういう先輩は?」
なんとはなしに聞いてみただけなのに、先輩は一瞬ぐっと言葉に詰まった。
誤魔化すように紙コップに口をつけて、すぐに顔をしかめた。熱々の甘酒はまだ飲み干せるような温度ではないらしい。
少しばつが悪そうに視線がそれる。
「背ェ伸ばしてくれって頼んだんだよ」
納得のような意外なような気がして、私は目を丸くした。
「てっきり、テニス関係のことかと思いました」
「バッカお前、こういうのは自分じゃどうにもなんねーことお願いすんだよ」
振り返った勝気な目が私を射抜く。
「テニスは自力でなんとかなんだろ」
なんでもないように言い切った後、先輩はまた甘酒に息をふきかけ始めた。
そうだった、こういう人だった。
知っていたはずの朝陽の美しさを日の出に立ち会って改めて思い知るような、尊いものが音もなく落ちて、胸の内に広がった。
霜が降りたせいか踏みしめる土の感触は固く締まり、石畳は控え目に輝いている。肌に冷ややかさを感じて顔を上げると、真綿のような雪が落ち始めていた。葉を失った木の枝の隙間から、薄い雲に覆われた空が見える。
ここの境内は名の知れた花見の名所で、時期が来ればそれは見事な桜のトンネルになる。去年もおととしもその前もそのまた前も飽きることなく光景は再現され、きっと今年も変わらず繰り返す。今は寒々と震えている木々も、競うように蕾をほころばせることだろう。
花びらでむせ返るその季節を、これまで私はただ美しいとしか思わなかった。華やかに彩られた始まりの象徴に、希望すら見出していた。
「卒業しないで下さい」
驚いたことに私は泣いていた。
えっ、おい、と取り乱した先輩の顔がいくつも瞼の向こうでゆらめいている。立ち上る甘酒の湯気が目の端に触れて、涙腺がどんどん溶け出していった。
「高等部なんて、いがないでぐださい」
大人達は皆口を揃えて云う。
一年なんてあっと言う間だ、人生の内の瞬きほどでしかないと。歳をとればわかることだと。
けれどそれは、振り返る過去として歳月を手にした者だけが語れる言葉だ。
私はまだ手にしていない。
私にとっては過去でも一瞬でもない。
瞬きをしても、ただ遠く果てしなく横たわるばかりだ。

春なんて、

春なんて、来なければいいのに

睫毛をしとどに濡らしゆく涙は、いくらでも底の方からあふれ出た。これ以上は慎んでくれと懇願しても外れた蓋は戻らない。困らせている、と理性が囁くのを聞きながら、下を向いて歯を食いしばった。ふと、困惑の色を湛えていた目の前の気配が消える。
わかった、ときっぱりとした声がした。
「卒業しねえ」
えっ。
怒涛のように押し寄せていた涙が引っ込んだ。咄嗟に目を上げると、微塵もふざけていない真剣な顔が私の方を向いていた。
「え、いや、ごめんなさい言葉のあやというかすいません卒業してください」
「ドン引きすんなよ!自分で卒業すんなって言ったくせに」
「だってその、なんていうか、これは」
瞼にたまっていた涙が、置きみやげとばかりにもう一粒こぼれる。すぐさまつるつると光沢のある感触が少し乱暴に目尻を撫でた。
「ハンカチなんかねえからな」
撥水効果に優れたポリエステルは、吸い込まずに涙を粒のまま袖口に残して離れていく。つるりと途中でそれが落ちて、自分の代わりに泣いてるように見えた。
先輩はデニムや上着のポケットを探っていたが、私がショルダーからティッシュを出したのを見て、少しホッとしたように上着のポケットにそれぞれ両手を突っ込んだ。丸まった背なかがゆっくり歩きだす。
居たたまれない思いもティッシュで丸めて捨ててしまいたくなった。
「……駄々こねてみたかっただけなんです」
「知ってる」
私と先輩は同じタイミングで鼻をすすった。私は泣きべそをかいたせいで、先輩は単純に寒さで。
「お前、自分でもびっくりした顔もしてたもん」
俺もびっくりしたけどな。白い息がそう言った。
「今泣いて、卒業式でも泣くんだろ」
「すいません」
泣きませんと嘘でも破るとわかっている約束はできない。
足元に散らばる雪が少しずつ重なって、境内を白く覆ってゆく。先輩は空になった紙コップを取り上げて、二つ重ねて屑かごへ放り投げた。ナイッシューと喜ぶ声を子供のようだと聞いていたら、手袋した右手がぐいと引かれた。
「泣くなとはいわねーけど。ちゃんと一年待ってろよ」
隠れるように更に深く、先輩はマフラーに顔を潜らせた。手袋と手袋が重なった手のひらは感覚が鈍くなっていたけれど、さっき人混みを抜けた時より、先輩の手に力がこもっている気がした。雪混じりの風にさらされて、濡れた頬がしびれるほど冷たい。
「顔、寒い」
「そりゃそうだろ」
雪に凍りつく桜の枝を見上げながら、帰ったら顔を洗おうと思う。部屋にかけっぱなしの去年のカレンダーもちゃんと捨てようと思う。
大きく息を吸いこんだら、肺がびっくりしたのか盛大なくしゃみが出た。
「もう帰んぞ」
「冷えますしね」
「おう。あと」
俺まだ年賀状書いてねえんだよ、と赤い鼻を覗かせて笑った。