作業に没頭していた手を一旦止め、首を伸ばして窓を覗き込む。
 三階の正面に位置する生徒会室からの見晴らしは悪くないものの、あいにくの空模様ではあまり慰めにはならない。夕焼けを隠した薄暗い景色。先ほどぱらぱらと降り出した雨は、そのままどす黒い雲とともに空に居ついてしまった。
「まだ降ってるなー」
「諦めろ。今日からしばらく雨の予報だ」
 隣から聞こえた無慈悲な一言に私は口を尖らせた。
「傘がないんだよ」
 跡部は四つ折りにしたプリントを淡々と封筒に押し込んでいる。
「俺もない」
「まじですか、何故そんなに余裕なの」
「傘はなくても迎えが来る」
「うわあ出たあ」
 息をするように育ちの違いを見せつけられ、仕事に戻ろうとしていた手がまた止まる。
 ひどい。ずるい。格差は闇を生むんですよ。
 怨嗟を込めた声色で詰ると跡部は横目だけで私を見ながら、小さく笑った。
「そう噛みつかなくても乗せてってやるよ。労働の対価だ」
 


 突然の雨は、帰ろうとしていた私を校舎に足止めした。止むまで待とうと教室へ戻りかけた先で、行きあったのが跡部だった。雨で部活の予定がつぶれた分、生徒会の雑務に充てることにしたのだと言う。立派な心掛けだ。私ならこれ幸いにまっすぐ帰宅して昼寝コースだろう。
 明らかに忙しい跡部は、明らかに暇そうな私を見つけて嬉しそうだった。
 手が空いてるなら付き合えよ。
 跡部の含み笑いを目にした時から、薄々気づいてはいた。
 実を言えばこういう展開は初めてではない。彼が一年生にして生徒会入りしていた頃から、こうしてタイミングが合った折に、人手として引っ張られるのはままあることだった。無論私は部外者なので、手伝うとは言っても誰がやっても変わらないような雑用のみであるが。
 しかし流石は跡部、一度としてタダ働きで終わっただったためしがない。ジュースやアイス、購買の焼きそばパンなど、ささやかではあるが必ずご褒美を寄越した。今回も例にもれず、コーヒー牛乳一本を餌に私は雇われた。
 
 生徒会室を照らす電灯は二つ。天井には四つ備え付けられているが、部屋に二人しか残らないなら、半分の灯りで充分だ。
 書類を四つに折り、封筒に入れて、テープでとめる。
 細い光に助けられながら、私と跡部は単調な仕事を続けた。時に黙々と、時に他愛ないおしゃべりを挟んで。跡部はスポーツ選手としても一流だけあって、長く集中力を保てるだろうが、私の方はとても持たない。
 完成した十数通の封筒を積み上げて、またも飽きずに窓を覗いた。雨は弱いながらもしぶとく景色を濡らしている。窓ガラス越しの風景をぼんやり眺めている内に、人影を見つけた。校門の前で傘をさしたまま、誰かを待つように立ちつくしている。遠くてはっきりと見えないものの、制服から察するに男子生徒だろう。
 その姿は、記憶におさめたばかりのワンシーンを刺激した。テレビで流れていた、少し古い映画だ。確かあの日も雨で、私は出かけもせずにその映画を観ていた。
「あのさ、日曜日の午後に映画やってたんだけど」
 跡部の目だけが動いて応じる。
「四時からやってたやつだろ。俺も観た」
 自分の顔がぱっと明るくなるのが分かった。説明する手間が省けたのと、同じものを分かちあえるという仲間意識が私を嬉しくさせた。
 静かな感動が押し寄せる、いい映画だった。少し泣いてしまった。けれど鑑賞後、印象に残ったのは本筋とは別の部分。

 劇中、老いた男が年若い主人公にこんな話を語っていた。
 とある兵士が姫に身分違いの恋をした。姫は窓の下で100日待ってくれれば扉を開けて求愛を受けると応え、兵士は雨の日も風の日も雪の日も窓の下に立ち続けた。しかし約束まであと一日に迫った99日目、兵士は去った。

 謎めいた結末は、なにかの暗喩か教訓か。ひどく意味深に思えるがしかし、映画の中で解答が示されることはなかった。
「なんで待つのやめちゃったのかな」
 千切ったテープを張りながら問うと、跡部も視線を落としたまま答える。
「さあな。明確な答えは用意されてない。観客の数だけ解釈が存在するってやつだろ」
 模範解答のない問いは、私の雑な感受性を試されているようで苦手だ。
 完成した封筒が跡部の手によっててきぱきと段ボールに詰められてゆく。一度に二つのことができず、手が止まりっぱなしの私とは大違いだ。 
「多い意見としては、兵士が希望を失わない為っていう解釈だな」 
「兵士が? 希望?」
 思わず瞬きを繰り返す。深い霧に包まれたように、私にはその真意が見えなかった。
 よほど怪訝そうな顔をしていたのだろう、跡部が肩をすくめながら口を開く。
「自分が誓いを通したからといって、相手が応じる保証はどこにもないだろ。99日までは夢見ていられも、100日目には審判が下る。絶望的な結末を知るくらいなら自ら去った方が望みを打ち砕かれずに済むからな」
 理路整然とした語り口のおかげで、目の前を覆っていた霧はいくらか晴れた。
 惨い未来が待つかも知れない現実よりも、確実に甘い夢を兵士は選んだ、と跡部はそう言っているのだろう。悪い想像は心を強張らせ、臆病にする。長い時と想いを積み重ねた兵士は、たった一人きり、崖の上で合否を待つような悲壮な心持ちだったのかも知れない。そう思うと腑に落ちるような気もするが、やはりもやもやとしたものは依然胸の内にとどまっている。
「うーん、それでも頑張ったんだから、結果見よう? 合格発表見ていこ? って思っちゃうね」
 納得はしても、共感はできなかった。  
 たとえ、捧げた99日が報われず、無残に砕け散って終わったとしても、自分のエンディングくらいは見届けたい。
「みんなお前みたいに勇敢じゃねえってことだ」
 そう言って、跡部は意味深な流し目を寄越した。その視線が何を意味しているのか察した私は、ぎこちなくも曖昧に笑った。

 私が委員会の先輩に盛大に失恋したのは、もうどれくらい前になるだろうか。あれは確か冬の出来事だったから、ゆうに半年以上経っていることになる。どこが好きだったかなんてもう思い出せないし、ふさがった傷とともに薄れかかった輪郭を無理に鮮明にする必要もない。ただ、目が合えば心臓が騒いだし、言葉を交わした日は馬鹿みたいに嬉しかった日々が、懐かしい過去として残っているだけだ。
 私は片思いも失恋も誰かに語ったことはないから、跡部のほかに知る者はいない。もちろん跡部にも告げた覚えはないのだが、恐るべしインサイトというべきだろうか、何故か彼にはお見通しだった。幸いにも跡部は他の幼い級友たちとは違い、過度に応援することも囃し立てることもなく極力触れずにおいてくれた。
 果たして私の「好きです」は「ごめんね」の一言で散った。その日、東京では珍しい大雪が降り、白く冷え込んだ道を私はびいびいと泣きながら帰った。跡部は何も言わず、そんな私の横を歩いてくれた。私を追い抜いて行った高級車からわざわざ下りてきて、溶けて凍りかけた悪路に足を取られながら。傘も持たず、頭からつま先まで雪まみれになって、風邪をひかなかったのが不思議なくらいだった。

 ばつの悪さを誤魔化すようにコーヒー牛乳をつかんで思い切り吸い上げる。が、ほとんど残っていなかったせいであっという間に軽くなり、ズズ、と情けない濁音をたてた。残骸をゴミ箱に放るも、見事外す。こんなに近いのに。
「へたくそ」
 拾い上げた跡部はそのまま捨ててくれればいいものを、わざわざ私より遠く離れた位置から綺麗にシュートを決めた。どうだとばかりに意地悪そうな顔が振り返る。
「お前のノーコン相変わらずだな」
 どうも私は生徒会のゴミ箱と相性が悪い。初めて助っ人として連れてこられた時も、至近距離から投げたのに豪快に外した。今より幼い顔立ちの跡部は、今と同じように得意げな顔でゴミを投げ入れててみせた。お前ノーコンだなと笑って。
 あの時一年生だった彼がすでに生徒会長だったことを思うと、今更だがとんでもないなと思う。とんでもない跡部が、取り立てて要領がいいわけではない私をずっと戦力として買ってくれているのは、どこかくすぐったく、そして仄かに嬉しい。
 ふと、窓の外に目をやった。もう校門には誰の姿もなかった。待ち人が無事現れて去って行ったのか、それとも。
 私は隣へと首をひねった。
「跡部なら待つ? 100日」
「相手が望むならな」
 間髪入れず返って来た言葉に、つい目を丸くした。
「えっ、100日だよ100日」
 働いていた手がゆっくりと止まる。隙なく美しい横顔が、真正面を向いて笑った。
「それくらい待ってやるよ。でも俺は口約束の遊びに付き合うほど暇じゃないからな、待つからには本気で手に入れる。それでもし期日にガタガタほざくようなら、」
「ほざくようなら?」
 剣呑な表情を作った麗人が、悪巧みをするように口角を上げた。
「窓を破って押し入るまでだ」
「賊の手口だ」
 騎士道に反している気がしないでもないが、その強引さがいっそ跡部らしくもある。眼前にいるのは臆病風に吹かれる兵士というよりも威風に満ちた稀代の王という風情だ。それくらいで丁度いい。むしろ、私が驚いたのは、100日もの”待て”に従うという王様の宣言だ。
「思ったより跡部って気が長いんだね」
 感心しながら頬杖をつくと、鏡にうつしたように同じく跡部も肘を机に預ける。横に並んだ机に沿って、顔が向かい合った。
「意外か?」
「ちょっと」 
 私が正直に告げると、ふ、と跡部の表情に微笑みの形が浮かんだ。
 跡部を我慢もできない男だなんて思っていない。ただ、いともあっさり100日を投げ打つとも思っていなかった。人それぞれ違うと言われればそれまでだが、私の感覚では決して短い時間ではない。
 ぎぃ、とパイプ椅子の軋む音がした。
 私と目が合ったのを確認してから、知らしめるように端正な唇が動く。
「こう見えて、俺はけっこう辛抱強いんだよ」
 お前が知らないだけで。
 跡部はそう付け加えた。
 私が背負う窓には薄曇りの空しかないのに、夕陽を眺めるみたいに青い目が眇められる。優しげに見えて、当たれば穴があきそうな眼差しだった。
「何しろ100日どころか2年も大人しく待ってるんだからな」
 跡部の体が机から離れる。あ、と思う暇もなく距離が近づいた。迫る美貌の上にはからかうような笑みもなければ、威嚇する様子も見えない。
「お前はあの解釈をよしとしなかったな。俺も同意見だ。待つだけ待った末に、尻尾巻いて逃げるなんて誰がするかよ」
「跡部」
 吐息が近い。いや吐息だけではない。やっとの思いで声を発したが、多くの言葉は集められなかった。頬杖から外れた手を長い指に絡め取られる。荒々しい物言いとは裏腹に、その手つきは甘えるように柔らかい。
「ま、」
「待てなんて言うなよ。充分待った」
 切実な声に頬を打たれた思いがした。
 100日は長い。
 それよりも更に長い、半年以上前の、恋が砕けて涙を凍らせながら帰った道を思い出す。当時もっとも色濃かったはずの、喪失感も寒さも絶望も、今はずっと遠くにある。寄り添って響いた足音に比べれば、ずいぶんと印象が薄れてしまった。あの日、足音は私の家の前まで続いた。元気出せとも大丈夫かとも跡部は言わなかった。ただ耳に優しい二人分の足音で、私の孤独をやわらげてくれた。
 手を取ったまま、やおら跡部が椅子から下りた。膝をつき、熱を湛えた両目でもって私を下から覗き込込む。見上げるような恰好は、ひたすら待ち続ける兵士に重なった。 
 けれど兵士は100日を待たずして去った。
 煌びやかで豪奢な鎧の王様は、100日を越えても200日を過ぎても、もっとずっと長い間、閉ざされた窓を見上げていた。
「呼吸しろ」
「う、ん」
 何とか息を吸い込んで目を開けると、いつの間にか跡部は立ち上がっていた。さっきとは打って変わって高い位置にある王様の顔は、すでに賊と呼ぶべき雰囲気に塗り替えられている。
 危うい笑みが耳元まで近付いて私に囁いた。  

「蹴やぶられる準備はいいか?」


 



ピンと来た方も多いでしょうが映画は「ニュー・シネマ・パラダイス」です