初  恋





という人間を認識したのは、進級してから初めての国語の授業。
妙にうららかな天気の日で、確か三時限目のことだった。
幸運にも教壇から見えにくい位置の席はうたた寝には最適で、しかも相手が日付通りにしか生徒を指名しない教師ならば、なんの警戒心も持たずに惰眠をむさぼる事が出来る。
日夜ゲームで削り倒した睡眠時間を補うにはまさにうってつけ。
いつものように過酷な放課後に備えて、教科書を枕に赤也は充電に入っていた。
眠りは深い方だ。
一度寝入ったら、授業が終わるまで、もしくは気付いた教師にげんこつを見舞われるまで、自発的に起きることはほとんどない。
けれどその日は自然と目が覚めた。
叩き起こされるのとは違う、水面から優しく引き上げられるような、ゆるやかな覚醒だった。
まだ重い瞼を持ち上げると、教師から当てられたらしき女生徒が、夏目漱石のこころの一節を朗々と読み上げていた。
高くもなく低くもなく、震えることも張ることもない澄んだ声。
いにしえの音楽のように懐かしいその音は、夢うつつの中でひどく耳に心地よかった。
きれいなこえ。
そう思った。




という人間に親近感を覚えたのは、五月の英語のテストの返却日。
自分の答案が壊滅状態であることは知っていた。
問題に向き合った時点で、もっといえばテストを受ける前に悲惨な結果となるであろうことは薄々予感していたことだ。
英語は苦手だ。
以前青い目の外人に道を尋ねられた時も、赤也が口にした英語といえばアイ ライク テニス だけだった。オーウと肩をすくめられたが、構わず日本語で押し切った。
そもそも一番大事な言語は、よその国の言葉なんかではなく母国語だと思う。
日本人なのだから日本語さえできればそう困ることはない。では国語の成績が優秀かと問われれば、答えに窮するのだが。
目も当てられない答案を過去の遺物としてゴミ箱に放ろうとしたが、思いなおして手をとめた。
親はともかく、真田や柳の目に触れると面倒になるからだ。万が一のことを考え、小さく丸めて鞄の奥底に沈めることにした。
おのれの点数にそれぞれ安堵の溜息や悲鳴が漏れ聞こえる中、教師から「次もう少し頑張れよな」と苦言まじりに丸めた用紙で頭を小突かれていた者がいた。
彼女は答案を手にしながら天を仰いでいたが、教師が立ち去ったあと、机に突っ伏して蚊の泣くような声で呟いた。
日本人は日本語ができればいいんだよ………




という人間に意外性を見出したのは、夏も盛りの休み時間。
居眠りから覚めると、教室がやけに騒がしかった。
中学生の休み時間なんてものは大概お行儀のよいものではないが、その日はまた特別にやかましく落ち着きがない。
何事かと身を起こせば、渦の中心に一匹の蜂。
あちらこちらに飛びまわり、級友達を追いまわしていた。
なんだ蜂かと侮ったのも束の間、物騒な羽音が間近を横切って息を呑む。
窓から虫の類が入り込むのは珍しくない。が、その侵入者はとびきり巨大で、黒ずんだ体躯がいかにも危険そうに見えた。要するにびびった。人のことは言えないが、普段は威勢のいいヤンキーも熊みたいななりをした柔道部も、一様に青ざめててんで役に立たない。突き出すように針を向けられれば誰だってそうなるだろう。
しばらく宙に浮いて威圧していた黒い塊は、やがて吸い寄せられるようにして、とある生徒の方角へと一直線に飛び始めた。
周囲がわあきゃあと散り散りに逃げまどう中、その人は慌てふためくこともなく、近付く外敵に一瞥をくれると、やおら机の中から分厚いテキストを二冊ほど取り出し、右手と左手それぞれに掴んだと思ったら、次の瞬間バシンと打ちつけた。
喧騒は、一瞬にして止んだ。
叩きつけた格好そのまま立ち上がった彼女は、静まりかえった教室をしずしずと割って歩き、窓まで辿り着くと、ようやくサンドイッチの具にされた蜂(だったもの)をテキストの間から放り捨てた。
まるで茶道の作法のひとつであると錯覚するような、優雅で無駄のない立ち振る舞い。
もう平気よとばかりに振り返った救世主の、何と頼もしかったことか。
しかし次の授業が始まってすぐ、救世主は突然悲鳴を上げながら椅子から転がり落ちた。
あとで聞いたところによると、どうも天井から小さな蜘蛛が落ちてきたらしかった。




という人間に初めてまともに接触したのは二度目の席替えの直後。
つまり本日を意味する。
ド真ん前は勘弁、と念じながら引き当てたのは、ラッキーなことに一番後ろ。
理想通りの窓際ではなかったが、遅刻の際にこっそり忍びこむには好都合の廊下側で、それなりに満足のいく位置だった。周囲の顔ぶれを確認しても、居眠りをやかましく咎めたりわざわざ告げ口するようなマークすべき敵はいない。引っ越し先での平和を確信し、赤也はほくそ笑んだ。
事態が急転したのは、机の移動を済ませた後のことだ。
隣の席についた女子生徒が近眼を理由に、席の交換を願い出た。
それはあっさり受理され、新たな隣人としてが机と椅子を抱えながらやってきた。
「よろしくー」
びっくりした。
同じクラスで同じ時間を過ごしているのだから、こうして間近で口を利くタイミングなんていくらでも降って来るはずで、なんの不思議もない当たり前のことなのに、何故かその時は自分でも戸惑うほど面食らっていた。
反射的に「うん」とか「おう」とか返事をしたことはしたと思うが、あまりよく覚えていない。
実を言うと昨日もろくに寝ておらず、教室に入ってからというもの睡魔と闘っていた。
席替えが済んだらさっさと眠ってしまうつもりで、否、すでにうつらうつらと船を漕ぎ始めていたところだったのに、一気に眠気が銀河系まで飛んだ。
定まらぬ心情と相反して視線は動かず、無意識に目が隣に釘づけになる。
すぐ横からまじまじと眺められて気付かないわけはなく、は不思議そうに見返した。不審そう、ではなかったのがいくらか救いだった。
なに?と目で問いかけられて、
「それ、どしたの」
咄嗟に視界に入った包帯を顎で示して誤魔化した。
「あ。これね」
は左手を持ち上げて見せた。人差し指と中指が仲良く包帯巻きにされていた。
「朝、家でる時に慌てて玄関のドアにはさんだの」
バーンて。
口で説明するだけでは伝え足りないのか、彼女はもう一度バーンと言いながら思い切りドアを閉めるアクションを追加した。今まさに痛めたかのように顔をしかめて。
つられて顔を歪めると、はふと気付いたように表情を崩し、包帯の指で自分の頬を突いた。
「切原君こそどしたの、絆創膏」
きりはらくん。
ただの名前も、あの声で呼ばれると特別な価値があるように響いた。何故そう思うのか自分でも不思議だった。
「朝練でやられた」
「先輩?」
「そ。遅刻して誤魔化そうとしたら言い訳とはたるんどるって平手飛んできた」
「バーンって?」
「そうバーン」
負けず劣らずオーバー気味に、熊をも殺すといった気迫で引っぱたく副部長を再現してみせた。やり過ぎて風が巻き起こった。
「バーンどころじゃないね」
風に前髪をもてあそばれながら彼女は破顔した。
きれいなのは、声だけじゃなかった。




という人間がただの級友ではなくなったのは席替えをした放課後。
見落としてもおかしくない距離の背中が、誰のものだかすぐにわかった。
フェンス越しに見える後ろ姿が校門へと吸い込まれてゆく。どんどんと離れてゆくのが妙に寂しい心地がした。
知らず知らずの内に指がフェンスを握りしめ、気付けば名を叫んでいた。
自分で呼んだくせに、振り返った姿にひどく慌てた。
更にフェンスへ走り寄ってきたのを見て、心臓が飛び出しそうになった。
まさか近付いてくるとは思ってもみなかったから、会話の用意がない。いやまて、そもそも会話は用意するものじゃない。わかっていても頭は働かない。
いつもは言葉なんてろくに意識せずに消費しているはずなのに、今はいくら蓋を開けてみても、底に穴があいたように空っぽだった。
、」
「うん」
「帰んの?」
聞くまでもなかった。
今まさに帰ろうとしているところを引き留めておいて、帰るのかもなにもない。帰るんだろう。そりゃそうだろう。意味のない問いに心中で歯ぎしりする。
フェンス越しの煩悶とは裏腹に、うん、と朗らかには頷いた。
「うち火曜日休みなんだ」
合唱部なんだけど、と親切に付け加えてくれたが、教えられずとも赤也はとうに知っていた。
彼女がその声でどんなに美しく歌うのか、よく知っていた。
「休憩?」
「おう」
「テニス部、間近で見るの初めて」
の目が背中の向こうにいるであろう先輩達へ移り、一瞬にして胸がざわめいた。
が、特に興味を示した風でもなく、あっさりとそれは赤也のもとへと帰って来た。途端に、得体の知れない不安がしゅるしゅるとしぼんで消えうせる。
自分でも持て余すほどの目まぐるしさに、呆然となった。
なんだこれ
なんだこれ
なんだこれ
その時、高く響いたホイッスルが脳と耳を殴りつけて、赤也は唐突に思い知らされた。
「休憩終わっちゃったね」
「………」
「どしたの」
「えっ、あ、いや」
「早く戻らないとまたひっぱたかれるよ」
バーンて。
虫すら殺せそうにないゆるい張り手が空を打った。
きれいな声。
声だけじゃない。
包帯で不格好に巻かれた、その指すら。


身を翻してコート目指してひた走る。
走り込みに筋トレ、激しいメニューはこれからだというのに、すでに鼓動が速い。急かされるようにして動く足には地を蹴る感覚がなかった。まるで空気を踏み台してるみたいに。
浮いてるんじゃないかと立ち止まって足元を見たけれど、しっかりと汚れたシューズがグラウンドの土を踏みしめていた。
去り際に手を振って、頑張ってね、と微笑まれた。
また明日ね、とも言われた。
きっと集合に遅れたと副部長にどやされるだろう。鉄拳が飛んでくるかも知れない。
悪い予感を引っ張り出して言い聞かせても、無責任に追いたてるふわふわとした甘い焦燥はおさまらなかった。
まだ殴られてもいないのに頬がひどく熱い。

――― 今からこんなんでどうすんだよ。
――― 明日から席、隣だぞ。

顔を覆いながら、へなへなとその場にしゃがみこむ。




ああ


恋って大変だ