鈍い銀色の蛇口を捻ると、すぐに水があふれ出た。
炎天下に晒されているのは何も人ばかりではないようで、すっかり冷たさを失ったそれは、皮膚に触れたところでさほど刺激をもたらさない。膝を蛇口の下に差し出して、弱々しい水圧に打たれながら砂と血が入り混じった傷口を洗い流した。
久しぶりに派手にやってしまった。
ボールを足ごと持って行かれた瞬間に受け身はとった。
倒れた瞬間、筋や骨におかしな感触は走らなかったし、息が詰まるような衝撃もなかったから、あとに響く致命的な怪我はないと直感して、差し出された仲間の手を借りてすぐに立ち上がった。
念の為、その場で二度三度とび跳ねても何の違和感もないのですぐに戻ろうとしたが、手を貸してくれた子が痛々しい顔をして私の膝を指した。
かすり傷とは言えないダイナミックな範囲の傷口が、膝から下にかけて生々しくも占拠していた。
まるで気付かなかったが、足を着いた時に激しく擦ったのも知れない。なんにせよ、この程度の傷で済んで助かったと思った。
しかし人の目はそう判断しなかったのか、こぞって保健室へ行けと私を促した。別にこのくらい、と言いかけると、もう休憩にするから今の内に行けと半ば追い立てられる形でピッチから出されてしまった。

保健室の窓とカーテンはぴったりと隙なく閉じている。
外から見てもわかる、これは養護の先生の不在のしるしだ。
職員室まで出向けば、代わりの教員が誰かしら開けてくれるだろうが、正直億劫だった。遠いのだ。
部活の生徒の為に保健室は外からも出入りできるようになっているが、職員室は生徒玄関から入ってぐるりと遠回りせねばならない。面倒だし、何よりそんな悠長なことをしていたら休憩を過ぎてしまう。時間が惜しい。
どこかを挫いたわけでもない、所詮皮膚一枚の上っ面の怪我だ。どうってことないだろう。
そう言い聞かせた私は水で傷口を洗い流すだけにして、ずぶ濡れの左足もそのままに立ち去ろうとした。
「待ちなさい」
背中に向って馴染みのない声が放たれた。
「それで処置したつもりかね」
振り返った私は、何を言うでもなく目を瞬かせた。
埃っぽいグランドの片隅で目にするにしてはそのスーツは上等過ぎて、彼が教師の一人であることを理解するのに少しばかり時間がかかってしまったのだった。
確か。
さ、かき、先生?
氷帝は中等部だけでもかなりの規模を誇る。膨大な生徒数に比例して職員も相当な数にのぼり、担任や教科の受け持ちとして直接関わるのは全体のほんの一握りで、接触の機会がほとんどない教員に関しては薄ぼんやりとしか把握していない。
ただ、薄ぼんやりには違いないが、その曖昧さの中でも、なんとなく彼の人は記憶にあった。生活臭がまるでしない、どこか浮世離れした印象は、不思議な違和感として水底に沈む小石のようにひっそりと存在していた。
手入れされ尽くした革靴が近付いてくる。それを他人事のように見ていたら、いつの間にか落ち着きはらった瞳に見下ろされていた。
「雑菌が入れば長引く。せめて消毒くらいしなさい」
一連の言動が、私の傷について触れたものだとようやく気付く。至って物静かなのに、妙に威厳ある佇まいのせいか、問い詰められているかのような心持ちになった。声が少しばかり怯んでしまう。
「すいません、保健室が閉まっていたので、つい」
私の言葉に従って、ちらと保健室の方へ目が動く。そして、その視線を戻すより早く榊先生は言った。
「クラブで救急箱くらいは用意しているだろう」
「いつもはそうなんですが、ええと、今日は男子が遠征していて、」
どこから説明したものかと頭を悩ませていたところ、榊先生は得たりとばかりに頷いた。
「そうか、サッカー部は他校で練習試合だったな。同行したマネージャーが全部持っていったか」
思わぬ先回りに若干ぽかんとしながらも、話が早い事を歓迎して、はいそうですそうです、と私は何度も首を縦に振った。
傷口の下の、ふくらはぎまで覆うソックスと汚れたすね当て。ユニフォームの類は着ていないから、恐らくこれを見てどこの部員か察してくれたのだろう。
私が所属する女子サッカー部は発足したばかりで、全国優勝やベスト4入りが当たり前の強豪が軒を連ねる氷帝の中ではひよっこの弱小と言っていい。部員数も他に比べると歴然で、部内でチーム戦がギリギリ行える程度の人数しかいない。一応、部として成立はしてはいるものの、扱いは同好会とそう変わらず、予算の都合で様々な設備や練習場、果ては顧問やマネージャーまで男子サッカー部に間借りしているのが実情だ。多分、女子サッカー部というものの存在自体、あまり校内で把握されてないのではないかと思う。残念だが。
だからこうも当たり前のように認識されることは驚きであり、そして嬉しかった。教員としての立場上、知り得ていただけだとしても、存在を認められているような安堵感を覚えた。
ふいに私の上に落ちていた影が動き、視界からブラウンのスーツが消えた。離れてゆく後ろ姿を目で追っていると、背中が振り向く。
「何をしている。早く来なさい」
榊先生は、保健室の外玄関のカギを回した。

開けてやったのだから後は自分でやれと放り出されるかと思いきや、榊先生は私に椅子へ座るよう指示し、無駄口も叩かずさっさと処置の準備を始めた。
確か音楽の担当と記憶していたはずだが、それにしてはずいぶんと手際が良い。私は背もたれのない丸い回転椅子に腰かけて、手持無沙汰でそれを眺めていた。
何故マスターキーを持っているのか不思議に思ったものの、特に聞く気にもならなかった。教員全員が持っているとも思えないが、教頭や主任などの肩書きはなくとも榊先生はある程度高い位置にいるのかも知れない。
なんの前置きもなく、消毒の泡が束になって患部を覆う。これだけ派手な傷口であれば沁みないわけはないが、擦り傷切り傷は日常茶飯事だ。声を上げるほどの痛みではない。
むしろ私は、おいくらなのか見当もつかない先生のお召し物が汚れやしないかと、そればかりが気になった。ほとんど縁のない私にすら高級感が伝わってくるのだから、さぞや質の良い仕立てなのだろう。主に洗濯機で回るのが仕事のような体操着とはわけが違う。
けれど榊先生には少しも惜しむ様子はなく、なんでもないことのように床に膝をついていた。手のひらに祝福を施す、騎士にも似た姿勢で。
怪我の手当てとはいえ、そうさせているのが自分だと思うと、妙に申し訳ないような落ち着かないような気持ちがした。
「いつもああして放置する事が多いのかね」
急に沈黙を破られたことに動揺はしたが、すぐに怪我の事だと察しがついた。
「え……はい。あっいや、ひどい時はちゃんと見てもらうようにしてますよ。手当ても、受けますし」
時々は、と心の中で付け加える。
今日負ったのは舐めときゃ治ると捨て置ける傷ではないし、それなりの処置が必要だという自覚は一応あった。けれど、男子サッカー部が遠征に行った今、普段は制限付きのピッチが丸ごと自分達のものだ。広々と自由になんの遠慮もなく使える。こんな機会はそうあるものではなく、だからこそ一秒でも早く戻りたかった。
私の逸る思いを諭すように、榊先生は流れ落ちる消毒液を丁寧に拭き取る。
「そう侮らない方がいい」
手を止めることなく告げた。
「激しい運動は身体を鍛えるよりも壊すことに長けている。少しでも良好なコンディションを保ちたければ、肉体を過信せず、メンテナンスを怠らないことだ」
叱るでも脅すでもない淡々と響く音に、私は頭で考えるより前に、はい、と素直に応えていた。
面持ちは厳しく、傷をガーゼで包む手は優しく、声は聖堂のように奥深い。胸の内に、すんなりと沁み込んでゆく。
やがて一通り処置が済み、私は出来るだけ丁寧に礼を告げた。立ち上がってそのまま後片付けを手伝おうとしたら、榊先生はここはいいから、とグランドの方を見た。
「あまり部長の帰りが遅いと心配するだろう。早く戻りなさい」




後で聞いた話だが、榊先生はあの有名なテニス部の顧問だったらしい。なるほど、と私はいくつも納得した。
あんな不似合いな場所に居たのも、処置に慣れているのも、運動部の事情に精通していたのも合点がいく。
あれから私は何度も転び、倒され、飛び込んでは沢山怪我をした。大きいものもあれば小さいものもある。手持ちの絆創膏では、とても事足りない。手近に手当てできるものがなければ、つい横着の虫が騒ぎ出す。
けれど、血だらけの手足を目にする度、水道の蛇口を捻ろうとする度、上品な語り口が頭をよぎっては私を諌めた。何故か逆らえなかった。
ごく軽いもの以外は、なるべく男子部の救急箱の世話になり、都合が悪ければ、多少不便を感じても保健室へ行くようにした。何度か面倒を見てもらう内に、男子部のマネージャーが、最近やっと気軽に来てくれるようになったね、と嬉しそうに言った。荒い競技で怪我も多いだろうにあまり姿を見せないから、遠慮しているのではないかと心配していたのだという。図星だった。
常日頃からなにかと便宜を図ってもらっている上に、自分達の世話まで焼かせては負担をかける、と気が引けていた。だが、それが逆に気を遣わせることになるとは気付いていなかった。
彼女は、どっちも私の仕事なんだからちゃんと頼ってねと朗らかに笑った。手慣れた治療は少し荒々しく、ほっとして、ありがたくて、荷物が軽くなった。
本人はそんなつもりがなかったろうが、結果的にそう仕向けてくれた榊先生に感謝した。
特に教科の受け持ちでもない私は、直接顔を合わせる機会はそう多くない。
ほとんどは遠くから見かける程度だったけれど、私が見失ったボールを校舎の周りで探している時、音楽室の窓際に佇んでいた榊先生が、行方を指で示して教えてくれたことがあった。
音楽室からは控え目にピアノの音が流れていて、疎い私には誰の曲なのかわからなかったが、綺麗な曲だった。榊先生が背負うには、よく似合うと思った。
示された通りの場所に転がっていたボールを抱え、私は三階に向って大きな声でありがとうございます、と言いかけたが、すぐに口元に人差し指を立てた先生の仕草が目に飛び込んで、慌てて手で蓋をした。ピアノの音は淀みなく続いていた。そのまま口を押さえた格好で大きく頭を下げると、先生の目元が少し和らいだ気がした。




「ごめん大丈夫!?」
叫びに近いような声に、習慣的に大丈夫大丈夫と答えたが、あまり大丈夫ではなかった。実際の傷の深さはともかく、見た目にはなかなかに悲惨だ。
部員と違い、血だらけの姿に慣れていないクラスメイトは青くなって私を担ごうとしたが、それは丁重に辞退して、保健室行ってくるから練習続けてて、とグランドを後にした。
夏の日差しも遠くなって、思い出したように吹く風は心地よく秋を含んでいる。
傷の具合を見ようとしたが、景気良く全身で倒れ込んだので、もはやどこをどう負傷したのかわからない。簡単に泥を落として、校舎に足を踏み入れると、保健室ではないものが私を出迎えた。
「君と会う時はいつもひどい怪我をしているな」
「今日は部活ではないですよ……」
「そのようだな。体育祭か」
「騎馬戦で潰されました」
いつにも増して薄汚れていることに私は少し恥ずかしくなったが、榊先生は眉ひとつ動かさず、保健室に?と聞いた。この有様で向う先と考えるならば、保健室か洗濯槽かの二択だろうと思う。はい、と私は頷きながら額の汗を腕でぬぐった。
「養護の先生なら、さきほど体育祭の練習があるからと外に向かったが」
救護班として。
「えっ」
行き違いになったな、と至極冷静に榊先生は告げた。
無駄足、の三文字が浮かんで消える。しかしまさかこの人を前に舌打ちするわけにもいかないので、大人しく引き返そうとすると、あの日のように榊先生はすたすたと歩きだした。ほどなく、保健室の扉が解錠される音がした。

「あまり適役とは言えんな。下で担ぐにはいささか小柄かと思うが」
「たまたま人数が足りなくて」
背丈が合わないのは承知の上だったが、やはり支えるにはバランスが悪すぎたのか、一人が態勢を崩すと、あとは雪崩のようになってぺしゃんこに騎馬は潰れた。運悪く、その塊の一番下にいたのが私だった。
五歩進んでこのザマでは勝負以前の問題だろう。後ほど本気でフォーメーションを練り直す必要があると見た。
ぺり、と乾いた音がして、大判の絆創膏がシートから剥がされる。
すでに消毒された足はどちらも痛々しい色を晒していた。
サッカーの時はソックスで守られているが、体育の授業では当然むき出しのままなので、すねのあたりまで大きく傷が走っている。どれも浅いが、数が多い。肘や腕のかすり傷は、自分で絆創膏を貼った。
改めて見ると、痣やら傷やら絆創膏に湿布と、我ながら賑やかな身体をしている。風呂に浸かる度に感じる、ちくちくと皮膚を刺す痛みにも、もう慣れた。
榊先生も同じ事を思ったのか、
「怪我をしない日はないという感じだな」
と、感嘆にも似た息を吐いた。
誉めそやすかのような物言いに、どんな顔をして良いものかわからず、口の端を持ち上げたり歪めたりしてしまう。
「両親には心配の種みたいです。特に父が。女の子なのにって」
古い人間ではないが、一人娘が山ほど傷を作って帰るのを歓迎する親はそういないだろう。
下を向いたまま榊先生が、君はどう思う、と尋ねてきたので、柱の傷みたいなもんだと思ってます、と正直に答えると低く笑う気配がした。
「柱の傷か」
笑うという感情をはっきりと見たのは、恐らく初めてだったろう。私は静かに驚いていた。それを隠して、他愛ない話を捻りだした。
「先生は私が部長だって知ってたんですね。部活自体あんまり知られてないから、ちょっとびっくりしました」
一瞬顔を上げて私を見た後、榊先生はまた視線を戻す。
呼吸と同じくらいの自然さで口を開いた。
「君たちは女子サッカー部を設立するために、一年の頃からずいぶん地道かつ熱心に活動していたと聞く。その努力が実を結んで、めでたく春に部として正式に認められた。君は、学長に会いに行ったそうだな」
話が見えないながらも、問われるまま頷いた。私の反応を求めているのかいないのか、流れるような明朗さを持って声は続く。
「部の設立の際、当然の権利として必要備品やその他もろもろを申請されたものの、予算を割くことがどうしても難しく、学校側は要望の半分も揃えることができなかった。てっきりそれを不満に感じて抗議に来たのだろうと思い、どう諌めたものかと構えていたところ、やってきた君はこれだけのものを用意して下さってありがとうございました、と深々と頭を下げて礼を言った。一点の曇りもない目でね。学長は深く恥じ入ったそうだ」
覚えている。初めて踏み入れる学長室は厳かで、その真ん中に座する人は噛みしめるように言った。君達のこれからに期待しています。
「実力や歴史はもちろん無視できないが、組織としての質や志はそれを束ねる者に大きく左右される。規模は小さくとも、船頭の器が確かならば間違いなくその船の前途は明るいだろう」
私は何か答えるべきだったし、声に出したい意思はあったが、舌にのせて語るにはどの言葉も足りなかった。
日が当たらなくともきっと誰かが見てくれている、と道徳の教えや親のお説教で散々聞かされてきた。その言葉を、下らないとは言わないけれど信じるまでは至らず、自分を慰める為の気休めの呪文みたいなものだと、今まではそう思っていた。
大きな手が私を労わんとしてよしよしと撫でてくれている。そんな錯覚がおさまらない。
練習に熱が入ってか、窓からは絡まった嬌声と歓声がいくつも風に乗ってやってくる。
こんな風に、グランドやコートの喧騒が音楽室の榊先生にも届いていたのだろうか。先生からすれば私達みたいな子供の戯れは、さぞや耳に騒がしかろう。
「先生は、怪我をするような運動部とはやっぱり無縁でしたか」
少し考えるような間があって、そうだな、と穏やかな声が落ちた。
「体を動かすことは嫌いではなかったが、極力避けるように努めていたな。音楽を志す者として、手や指を傷付けるわけにはいかなかった」
時の風向きが変わり、語る瞳は駆け足で遠くなる。
「日差しの下でひたむきに汗を流している彼らを、いつも音楽室から眺めていたよ。羨ましいとか妬ましいとかではなく、ただ純粋に眩しかった」
――― 年を経てもそれは変わるものではないな。
ありし日の思い出に今も眠る感傷が混ざり合って、面差しに柔らかなものが宿る。私を通して過去を見つめていたはずの双眸は、いつしか「今」の私を映していた。
目の前に流れているのは、間違いなく大人しか持ち得ない時間だ。私を巡る幼い歯車を、やすやすと呑みこむ。
かつての膝の傷はかさぶたに変わり、やがては懐かしい記憶として柱の傷のひとつとなるだろう。
校庭から流れる騒々しい風はやむ気配がない。時折カーテンを揺らしては、空気をさらってただ私達を通り過ぎる。
榊先生の目はすでに静けさを取り戻して、もう残像も心情もそこには浮かんではいなかった。
「万が一つにも、その傷によって君の価値が損なわれるはずもないが、怪我をしないに越したことはない」
ピリオドを打つように、ステンレス製のはさみを置いた金属音が鳴る。
最後の傷にテープを貼って、「先生」の顔に戻った榊先生は、気をつけなさい、とそう言った。