この世で最も睡魔の誘惑を受けやすい午後の授業は、よりによって古文。
黒板を使わずに授業を進める年老いた教師の声は、幾分か掠れてはいるものの穏やかな低音で、隙だらけの耳と脳に実に心地よく響いた。
ただでさえ気が緩みやすい季節だというのに、悪いことに今日は春眠を貪るにはもってこいのうららかな陽気と来ている。
生徒達は必死で甘い誘惑から逃れようとするも、抑揚のないお経のような調子で語られる古きよき母国語の魅力を前に皆抵抗むなしく1人また1人と陥落してゆき、すでに教室の半数以上が倒れこむように机に突っ伏していた。
普段居眠りとは無縁である日吉も、充満するこの眠気には流石に引きずられつつあった。

眠い。気を抜くとあっという間に意識を失いそうだ。
握っていたはずのシャープがいつの間にか手の中から滑り出さんばかりにずり落ち、親指と人差し指の間で弱々しく引っかかっている。絡みつく睡魔を振り払うため、日吉は力の抜けた両瞼を叱咤するように瞬きを何度も繰り返した。
机の上でだらしなく寝顔をさらすなど彼の矜持が許さない。
例えここが、心地よい日差しが容赦なく襲う窓際の席であっても、だ。
できれば眠気覚ましに体を伸ばしたいところだが、授業中に(大半が寝ているとはいえ)それはさすがに憚られる。日吉は態勢を少し浮かせて椅子に座りなおした。ささやかな抵抗だったが眠気を払うには充分だったようで、眼の周りを覆っていた重みは瞬く間に消え去った。
老教諭の歌うような朗読は途切れることなく、今も尚も続いている。教え子が眠っていようがいびきをかこうが一向に意に介さぬ佇まいは涅槃で微笑む仏のようだ。額に刻まれた皺と同じだけ慈悲も深いのだろう。

がたり。
ようやく日吉の意識が授業を受け入れ始めた頃、軽い振動が肩に降った。
見れば、今にも涅槃へと旅立とうとしているの後頭部だった。
もたれかかるというよりもぎりぎり触れる程度の力加減で、そこにある。首は曲がるだけ曲がって下を向いているが、寄りかからずにいるところをみると、すっかり眠り込んでるわけでもないらしい。意識と無意識の狭間でどうにかバランスを保っているのだろう。
黒い髪が重力に従って下へ下へと流れ落ちている。隙間から覗いたうなじの白さに目を奪われたものの、すぐに後ろめたさに追われて顔を逸らした。
途端、それまで肩口でじっとしていた頭が、急に支えを失ったように逆へと傾き始めた。が、それは途中で大きくビクリと震え、不自然な位置でまた動きを止めた。
髪が流れ、覆われていた寝顔があらわとなる。幸せそうとはとても表現しがたい、苦悶の表情。無理な体勢がたたっているのか、眉間に皺が寄りぴくぴくと瞼が震えている。うなされているようにしか見えない。
こうやって頭の重さに振り回されながら寝る者の姿を電車でよく目にするが、皆揃えて同じような表情をしている。なるほど、瀬戸際で堪えているからこそこんな顔になるのかと日吉は納得した。

そのまま降伏して身を委ねてしまえば楽になれるものを、命綱とばかりに握り締めた小さな拳がいじらしい。
今でこそこのように春眠に溺れかかっているが、元来彼女は真面目な性分で、日吉と同じく居眠りをよしとしない。目を眠気でとろりとさせていたことは過去幾度もあったものの、その度あくびを噛み殺しながら耐え切っていた。
しかし今日の陽気が相手では、押し切られるのも無理はない。四時間目の体育がマラソンだったのも悪かった。
疲労した体、満たされた食欲、柔らかな日差し、とどめの子守唄。これが眠らずにいられようか。
ふと、真下に垂れた前髪がゆっくりと揺れた。苦々しい表情を顔に乗せたまま、再びぐらりぐらりと動き出す。
最初は右に、しかし数秒もたたぬうちに今度は左へ、かと思えば引っ張られるように下へと倒れる、無茶苦茶なその動きは振り回される操り人形のようで、見ていてやたらと危なっかしい。このまま放っておいたら、いずれ糸を失って椅子ごと床に崩れおちることとなるだろう。

「…おい、

人を起こすにしては、いささか控えめすぎたか。寝言とも呻きともつかない音がほんの一瞬漏れただけで、あとはそれっきり。その後も二度三度と繰り返して呼びかけたが睡魔と闘う隣人の瞼は閉じたまま、一向に目覚める気配はない。
実を言えば、眠ってる人間の扱いは日々の部活の(とある人物の)せいで結構慣れている。が、まさか女子生徒相手に同じ真似
――乱暴に叩き起こしたり寝たまま引きずったり、など出来るわけもない。
日吉は握っていたペンから右手を離し、小さく丸まった隣の握り拳を見た。そして人差し指を伸ばし、数回それを突付いた。小声しか出せない状況下で聴覚に頼るより、この方がよほど効果的と考えた。
思った通り反応はあった。いや、ありすぎたと言うべきか。
瞼こそ下がったままだったが、それまでぴくりとも動かなかった彼女の左手が、突付かれた拍子にぐにゃりと崩れ、その上あろうことか覆いかぶさるように日吉の右手を握り締めたのだ。

待ておいちょっとお前!

あらゆる焦りの言葉が口を突いて出そうになり、日吉は空いている掌で口を塞いだ。下手に声を出して、注目を集めるわけにはいかなかった。寝顔を晒すどころではない、それ以上の恥をかくことになる。
その内にすうすうと空気が抜けるような寝息が聞こえ始めた。縋りつくものを見つけて安心したのか、白い指の主は日吉の右手を抱きかかえてついに完全に眠り込んでしまった。



片手の自由を奪われても、日吉は涼しい顔のままだった。手を握り合ってる?え?誰と誰が?とでも言わんばかりに平坦な表情を貼り付けて、何事もなかったように振舞った。
しかしそれはあくまで首から上の話であって、捕らわれた右手は平坦どころか、どくんどくんと爪の先まで神経が通ったように全体が脈打っている。
相手は意識のない人間だ。深い意味などない、手近にあったからつい握っただけで、おやおやこんなところに丁度いい手すりがあった、くらいにしか捉えていないことはわかっている。だがしかし、あっちになくてもこっちには意識はある。存分にある。柔らかい指の腹だとか包み込むようなひんやりした体温の低さだとか、手の甲を通じて全て伝わってくる。何も感じるなという方が無理だ。
誰しもそうなのだろうが、普段はそれなりにきりりとしていても、寝ると途端に緊張感のない顔になる。例に漏れず、隣で寝息を奏でる彼女も実にのんびりと無防備で恨みたくなるほど安らかな寝顔だった。
心地よい眠りを手に入れたせいか、眉間に寄ってた皺は綺麗に消え、いつも「ひよし」とゆったり自分を呼ぶ口元は笑うように少しだけ開いている。
笑い事じゃないんだ。
日吉は息を殺した。さっきまで起こそうと躍起になっていたはずが、今度は逆に目覚めることを恐れている。
数回呼吸を押しつぶしたあと、日吉は出来る限りのゆっくりさで下敷きになった掌を引っ込めようとしたのだが、手の下からすり抜ける瞬間引き止めるように指を握られてしまった。
寝息は相変わらず平和に続いている。だというのに、指は意思があるかのように、しっかり日吉の右手を捉えていた。
もしや偶然でもたまたまでもなく認識して握っているのだろうか。いやそんなわけはない。けれど事実、この指は選んで俺の手にすがっているように見える。どうなんだ。そうなのか
ぐるぐるぐるぐる思い悩みながら日吉がもう一度掌を引くと、うん、と応えるように強く握られた。しがみついて離れない、細くて白くて冷たい指。
なんの確証もない反応だとわかっているのに、ぶわっと喉が熱くなる。
意味のある反応だと信じたがっている、己の邪さに猛烈に動揺。冷たい指は自分の手の熱さのせいだと今更気付いてしまって、更に動揺。
貼り付いていた平静な表情はもろくも溶け落けおち、みるみると血色が良くなってゆく顔色を止められない。
いったん薄っぺらなメッキが剥がれてしまうと、あとはもうズルズルと底のない深みにはまってゆくばかりで。誤魔化すように舌打ちなんかしてみたものの、なだれこんでくる甘やかな波に飲み込まれ、まがいものの毒気はあっさりと砕け散っていった。
日吉はうなだれ、左手で支えるように頭を抱えた。
こちらの気も知らないで、姫は健やかに寝息を立て続けている。時折震えながら無邪気を振りまく長い睫毛。それに思わずごくりと喉を鳴らしてしまった無邪気じゃない自分。
捕らわれた手は、未だ馬鹿馬鹿しいほど熱い。
……覚えてろよ
苦し紛れの呟きを残し、日吉は固く目を閉じた。瞼の裏の暗闇にも春の匂いは満ちている。
涅槃から届いた仏の説法が何もかも見透かしたようにゆるゆる通り過ぎていった。






一人相撲の日吉が好きだと最近気付きました。
日頃から我が日吉ライフの師よ神よと仰いでいる某お方に贈ります。かなり一方的に。