ぶえぇっっくしょいい!!

突如爆発としか思えない轟音が飛び出して、つぶれるように体が縮んだ。閉じた視界の中で張り詰めた空気が静かに遠のいてゆく。
もしや今ので吹っ飛んだかと、思わずは手をやって鼻の有無を確認した。当たり前だが鼻はついていた。
ゆっくりと目を開くと、一瞬空となった耳の奥が同じくゆっくりと周囲の音を拾い出した。虚脱感が襲う。
「豪快だな」
職務復帰を果たしたの目と耳がまず最初に受け付けたのは、いつの間にかそばにいた柳の姿と声だった。
「いっそ清々しいくらいだが、くしゃみの時は手ぐらいあてるものだ」
そこでようやく、いま身に起こったのがくしゃみという現象だったかと頭が追いついた。顔の真ん中あたりに未だ衝撃の余韻がある。
「ま゛にあわ゛にゃはった」
「うん?」
「間に、合わ゛なかっは」
息を大きく吸いながら、はずず、と鼻をすすった。
頑張って言い直してみたが結局正確に発音できていない。誰がどう聞いても立派な鼻声だった。
「風邪か」
頷いて応えたはおもむろに机からティッシュを取り出し、くしゃみ同様の豪快さで鼻をかんだ。一応目の前の級友の存在を考慮して、正面ではなく横を向く。乙女としてはもっと人目を憚るべきかも知れないが、色気や恥じらいにまで気を回している余裕はない。
丸めたティッシュをゴミ箱に放ったは、「あ」「ああ」と何度か発声を確認した後、よしという風に顔を上げた。準備が整いました、とばかりに見上げられた柳は音もなく笑って、脇に抱えていた問題集を差し出した。
「終ったら貸す約束だったろう」
「あ、もういいの?」
目を丸くしながら、それでも両手はしっかりと冊子を掴んでいる。
「ああ、一通り済ませたからゆっくり使って構わない」
「早いなーでも助かる」
ありがとうと礼を述べてはすぐさま鞄にしまいこんだ。鞄の中では教科書テキストバインダーなど学生の本分が隅へと押しやられ、大量のポケットティッシュが我が物顔で領地を広げている。
すごいなと柳が感嘆の声を上げると、家中かき集めて持って来たとは胸を張った。しかしすぐに情けない顔になって、こんなことなら箱ティッシュを持ってくるべきだったと嘆いた。
「ひどいのは鼻だけなのか。熱はどうだ」
「ないと思う」
今朝の体温計が示した数字は至って平熱だったからこそ、こうしては真面目に学び舎へとやって来た。発熱があれば別だが、鼻風邪程度だと休む理由としては弱い。とはいえ、たかが鼻風邪されど鼻風邪、当人にとって辛いことには変わりない。
ぐずぐずとした鼻水をその都度かんでしまえば一時的に楽にはなるが、度重なる摩擦が薄い皮膚にはいささか堪える。の鼻のてっぺんは既に皮が剥けかけ、うっすらと赤い。かといって、確実に垂れてくるであろう物をそのまま放し飼いにしておくわけにもいかない。
いっそつっぺでも詰めてやろうか。両穴。半ば本気で思う。

昨日はぴんぴんしてたのに、と遠い目をすると柳はゆったりと腕を組んだ。
「おおかた腹でも出して寝てたんだろう」
「出してない。ゆうべは」
では他の日は出してるのかという呆れを含んだ視線から逃れるようには顔をそらした。
「元凶はわかってる。父さん。会社からもらってきたっぽい」
はあと大袈裟に息を吐く。
どうせならもっといいもんにして欲しいよ、まったくいっつも変なもん拾ったり貰ったりして来るんだから、この前もドラクエXだって言うから「おっ!」と思ったらスーファミの方だったりしてうちに本体ないっつうの、とそこまで言った時、はっと反射的に口を両手で押さえて身を引いた。
「ごめ、柳にうつる」
言ってるそばから親父の二の舞。
さすが親子と妙に感心しながら、せめてマスクくらいするべきだったと反省した。
せっかく気を遣って距離を取ったというのに、柳はが下がった分まるまる取り戻すように身をかがめた。
ちょっと柳さん、とたしなめてみるも柳はまったく意に介さない。
「人にうつすと治るというぞ」
揶揄するような微笑み。
暗にもらってやろうかとほのめかされて、は手の下に隠された唇を尖らせた。
「あれは嘘だね。家族中に菌をばらまいた我が父上は本日欠勤されました」
それはお気の毒だ。言葉と裏腹に細い目を更に糸にして柳は楽しげだ。
「……目病み女に風邪引き男、というのがある」
「なにそれ」
「目を病んだ女は濡れた瞳が艶っぽく、風邪の男は掠れ声に色気がある……まあ常より魅力的に見えるという例えだ」
のそれより遥かに大きく骨ばった指がまっすぐ伸びて、口に張り付いた蓋を丁寧に剥がした。全く抵抗できなかったのは風邪に弱らされていたからだと思いたい。実際体はだるかった。
「それで、俺も」
くしゃみと咳と鼻づまりに散々痛めつけられたふたつの眼は、意思とは無関係に潤んで光る。そこに映った我が身を鑑賞でもするようにして、柳は呆けた顔を覗き込んだ。
滅多に感情を語ることのない端正な口許が密やかに持ち上がった。
「風邪でも引っ掛ければいくらか男が上がるかと思ってな」
降ってきた美声は少し霞がかったの頭に心地よく滑り込んで、思い浮かべるのと同じくらい自然に、ほとんど無意識の内に口走らせた。
「別に、風邪の力なんか借りなくても私はやにゃぎが%tUn#tp@」
途中で鼻がつまった。
柳にしては珍しく虚を突かれた様な顔をした。ほんの一瞬目も開いたような気がする。
それを見て、大層なことをさらっと言いかけた自分に対してワンテンポ遅れてはぎょっとした。
すぐさま、やっぱり熱があるようだと弁解してみても、ふにゃふにゃとした鼻声は言葉として成り立たず、身を守る盾にはなってくれない。
病は重い。
これ以上失言を重ねてしまう前に今日はとっとと帰った方が身のためだ。

「は、ひ」
「続きが聞きたいな」
「3;Ueれ゛thfすas:て」
「何を言ってるかわからない」
「も…も゛うい゛い」
「あいにくこっちは良くないんだ」
病人相手に真顔で詰め寄ってくる柳を無視して、は千切れんばかりに鼻をかんだ。