、紅茶飲まんか」
「紅茶? なんで今」
「さっき柳生にもらってのう。なんでもグラム八千円の高級茶葉なんじゃと」
「はっせんえん!? 飲む飲む!」
「……どうじゃ」
「ふむ……すごく香ばしくて……お高い味がする……気がする……」

「うん」
「麦茶じゃ」
「……」

 生まれつき、嘘に関しての才能から見放されている。たぶん母親の胎内にうっかり置き忘れてきたか、物心が着く前に誰かにかすめ取られてしまったんだろう。
有り体にいえば、騙されやすい。
 耳で羽ばたいた象がそのまま動物園から脱走したらしいくらい荒唐無稽ならば流石に笑って一蹴できるが、ほんの少しでも現実味を帯びていたなら、そしてそれを語る相手の語り口に大きな綻びがなければ、ついつるりと信じてしまう。
 特別無垢なわけじゃない。ただ「疑う」というシステムの作動が人より一拍も二拍も遅いだけだ。なるほど致命的。
 日頃からその有様なのだから、嘘の祭典四月一日は大変だ。両手で足りないくらいのジョークや罪のない嘘のシャワーをざぶざぶと浴びせられるのが常で、柄にもなく誰かをかつごうとすればかえって逆手に取られてドツボにはまり、結局騙される側となって終わる。
 慣れないことはするものではない。見破る目を持たないということは、イコール嘘をつく技術にかけているということなのだ。
 その真逆に位置するのが、仁王雅治という男である。
 自ら詐欺師と名乗るだけあって、彼は人を欺くに長けている。瞬き、まつ毛の動き、唇のカーブ、呼吸のタイミング、声に宿る重力。印象を司る全てを計算の内に操っているとしか思えないほど、自然に無駄なく手際よく、相手を惑わしてしまう。無表情という仮面によって感情の機微を覆い隠す者は多いが、仁王の場合、仮面の色合いをその場に応じてくるくると変化させて、裏の裏を読ませない。悪魔をも出し抜くと言われる口車の罠にかけられ、踊らされた人は数知れず。もちろんその中には私も含まれていて、いやむしろ筆頭株主かというくらいの占め方で、一体何度彼のペテンの餌食になったか数えるのも馬鹿らしい。
 紅茶と偽って麦茶を勧めるなど序の口、シャープの芯は水に浸すと折れにくくなるとか、口元のホクロは毎日書いてるとか、尻尾みたいに髪を伸ばしているのは亡き師匠の遺言だとか。いっときでも真に受けた私も私だが、師匠ってなんの師匠だ。
 中でも一番ひどかったのは、桑原君が実は亡国の王族の末裔であるという作り話だ。無論でたらめだが、当時彼がブラジル人とのハーフであるとは知らず、混血特有のオリエンタルな顔立ちと褐色の肌に妙なリアリティを覚えた私が「日本語お上手ですね」と話しかけたのはその数日後のことである。桑原君は目を丸くし、仁王は珍しく涙を見せるほど爆笑していた。
 こうまで騙され続けたなら、耳を貸さねばよいようなものだが、仁王が口にするのは嘘ばかりとは限らない。神妙な顔をぶら下げて偽る反面、いかにも冗談のような物腰で真実を語ることもある。
 以前、ずいぶん美人さんがいるねと幸村くんを指差せば、ああ見えて一番の豪腕じゃと笑みを浮かべ、同じく可愛い子だねとくせっ毛の二年生を示したときも、あいつは悪魔化するぜよ等とわけのわからない事を口走っていた仁王を、両方またまたと笑って取り合わずにいたら、球技大会で赤目の二年生が大暴れ、更に幸村君が野球ボールを握りつぶす場面を目撃してしまい戦慄したものである。なんなんだテニス部おそろしいよテニス部、ということで、嘘か本当か見極めようなんて無駄なあがきと悟った。馬鹿の考え休むに似たり。
 それに結局のところ、普段は優しく気の良い友人である彼への警戒心らしい警戒心など私の中には存在してなかったのである。人は学習する。騙されるたびに、疑心という名のシールドが生まれていく。はずなのだが、私の場合どうもそれが薄っぺらいようだ。
 天賦の才じゃな。
 いつか学食でうどんをすすりながら仁王は言った。
 面食らった私がぽかんと七味を持ったまま「どこが」と問えば「そういうところが」と一言。答えとしては足りていない。
「才って、それを言うなら仁王なんじゃないかなあ」
「俺のはそういうんじゃなか」
 自嘲気味でも卑下する風でもなく、仁王は両手で抱えたどんぶりに息を噴きかけた。煙に巻かれているのか単に私の頭の回転が残念なのか。
 わからん。まったくわからん。
 こちらが見当もついていないのを察してか、仁王は出汁をたっぷり吸った揚げに噛み付いたあと、思わせぶりに微笑んだ。
「わからんでよか。俺はわかっちょるきに」
 そのつり目が細くしなるのを見て、あ、きつねがきつねうどんを食っていると思った。



 この寒いのに手袋を忘れたのは失態だったと反省している。でも、これはないんじゃないかとご立腹もしている。手の中には、全く嬉しくないひんやりとした感触のブラックコーヒー。今すぐにでも暖を取りたがっている手のひらに、鞭打つように冷徹だった。
「腹でも痛めたかの」
 自販機の前でうずくまってる私をぬっと仁王が覗き込んでいた。寒そうに背を丸めて、風から逃れるようにポケットに両の手を突っ込んで。私が何か言う前に、手にした缶コーヒーと自販機を交互に眺めて腑に落ちた顔をした。
「違うもん出てきたんじゃろ」
「ホットのミルクティー押したのに……」
 これが出てきたと黒塗りの缶を見せると、厳重に巻き込んだマフラーを口元まで引きずりおろして白い息を放つ。
「この自販機、中身が入れ替わってるって有名じゃろうが」
「まじですか」
 もう少し歩けばコンビニもある通学路の途中、このひっそり置かれた自販機を頼ったのはこれが最初。そんな話私の耳には入ってこなかった。こことここが逆になっとう、と仁王の指がミルクティーとコーヒーのボタンを空押しする。
「自販機にまで騙されるとは……」
 悔しげに呻くと、仁王はくしゃりと破顔した。さすがじゃのうと感心の声。
 私は冬の風でどんどん冷やされてゆく缶の表面になるべく触れないよう苦心しながら、『あたたか〜い』を押したら『つめた〜い』が出るトラップに憮然としていた。せめて両方『あたたか〜い』であればどんなにか、全く入れ替わるなんて迷惑なとそこまで考えて、ふと目の前の猫背に視線を向けた。
 思考を先読みするように、猫背の目が応えた。
「今は、あいつじゃなかよ」
「うん」
 知ってる、の意思を込めて頷いてみせる。
 初めて柳生君と入れ替わった時、私は三日気づかなかった。仁王に扮した柳生君は飄々とした彼の所作をつかみきれていないのか被り慣れないヅラが気になるのか、どこか落ち着きがなく、様子がおかしいとは感じたものの「か、風邪を、引いてるもんですからのう」と方言というより若干おじいちゃんみたいな喋り方をした後、苦しげな咳を繰り返していたので、そうか風邪か風邪なら仕方ないと納得してそのままやり過ごしてしまった。バレるまで続行する予定だったらしいが、一向にその気配がないことに痺れを切らし、最終的に足早に近づいてきた柳生くん(中身は仁王)(ややこしい)が私の前で扮装を解いて、種を明かし幕引きとなった。本来ペテンの成功を喜ぶべき仁王は、いささか不機嫌そうで「いくらなんでも節穴すぎるぜよ」と複雑な顔をしていた。
 今は、なんとなく判断がつく。当初のぎこちなさは消え、もはや二人の化けの皮は実践で通用するに充分な出来だが、それでも不思議なことに仁王かそうでないかわかる。さてはこの節穴にも真実を見抜く眼が身に付いたかと思いきや、どうもそういうわけでもないらしい。今日の紅茶の一件がそれを証明している。
「冷えるのう」
 再びポケットに潜り込ませた仁王は、すぐにその手を自販機に近づけた。機械が小銭を飲み込む音がする。ブラックコーヒーのランプが光って、ミルクティーが落ちてきた。仁王はあまり甘いものを好まない。
「お前さんのそれと交換せんか」
「いいの?」
「麦茶の代わりじゃ」
 ぱっと自分の顔が明るくなるのがわかった。
 詐欺師という人種は単に欺くのが巧みなだけでなく、気持ちをくすぐることにも達者で、こういう緩急の付け方を飴と鞭と言うのかも知れない。けれど飴はともかく、鞭とするには悪意も殺気もあまりに足りない。彼は数え切れないくらい私にペテンにかけてきたが、どれもが小粒で他愛なく、ただの一度も私を胸をえぐり、あとに引きずるような傷を付ける真似はしなかった。その手がふりかける嘘の粉に、毒は決して混じらない。それさえを知っていれば虚でも実でも問題はなかった。だから私は仁王に何度一杯食わされる羽目になっても、起き上がりこぼしのようにころりとすぐに元に戻って尻尾を振ってしまうんだろう。
「あったかいーあったかいー」
「寒い寒い寒い」
 固く凍てついた路地を、私は温かいミルクティーに励まされて進み、仁王は冷え切ったコーヒーに追い立てられて歩いた。もともと寒さに滅法弱い男だ。マフラーを盾にぶるぶると震えている。コーヒー飲まなきゃよかったのに。喉が乾いてたんじゃ。立ち上る湯気に煽られて、吹きすさぶ北風にいたぶられて、申し合わせたように洟をすする。
 仁王は残ったわずかなコーヒーをやせ我慢で飲み干し、くずかごに放った。スチールの乾いた音がやけに響き渡った。
「缶だけ高級茶葉でさ、中身すり替えて出せば誰か騙されてくれるかな」
「顔に出るから無理じゃろうな。現にもう目が泳いどる」
 それに、とその口元が持ち上がった。
「そういうんはお前さんには必要なか」

――天才じゃけえ

 うどんの湯気越しに交わした天賦の才うんぬんの会話を思い出す。今でも仁王が何を指してそう言ったのかは明らかになっていない。
「騙される天才ってこと?」
「いんや」
 声はゆっくり噛み締めるように。
「芸のない麦茶を価値あるように見せる小細工はいらんちゅう話じゃ」
 小奇麗な顔の前で擦り合わせた手の先は色が抜けて、いかにも寒そうに見えた。急に心細い風が吹いた心地がしたのはそのせいか。
「麦茶、おいしいし大丈夫だよ」
 私は好きだな。
 果たしてどこへ向けたフォローだったのだろう。何もわからないくせに思いついたまま喋るから、的はずれになるのだ。仁王は何も答えず、猫背をかがめて音もなく笑った。特有の微笑や含み笑いのほんの隙間、紐がはらりと解けるような、彼にしては稀少な笑顔を仁王は時折私に見せる。これこそが警戒心も疑心もまるごと溶かす最大の魔法じゃないか。一体どっちが天才だ。
 ほどけた顔は小さいくしゃみを吐き出して、ずるずると情けない音を立てた。赤い点を打ったように鼻の頂上が染まっている。
「甘くてもいいなら」
 見かねてミルクティーを差し出すと、私の手ごと掴んだので驚いた。不意を突かれたのと手が冷たいのとで二つ驚いた。思わず飛び出た短い悲鳴に吐息が触れる。
「甘くてもよか」
「う、うん。うん?」
 冷たい熱いが入り混じって一瞬感覚が迷子になった。どきまぎと目を白黒させている私を見て、仁王はクッと喉を鳴らした。それでようやく、あ、またからかわれたな、と出遅れの思考が追いつき、この野郎と少しの安堵とともに思う。やがてゆっくり私から手を離し、仁王はのろのろと歩き出した。もったいぶるようにミルクティーに口を付けて、二枚舌を擁する薄い唇が息を吐く。
「ぬくい」
「うん」
「うまい」
「よかったね」
「極上の味わいじゃ」
「120円だよ」
 頷いたのか首を振ったのか。
 大事そうに缶を抱えた仁王は、八千円でも安い、と小さく言った。





君の持ち物が美しいことを知っている