だいぶ前に日を落とした空は一秒ごとに暗さを増し、夜を迎える支度を整えている。雲ひとつない天気だったはずだから今夜は星が見えるかも知れないと乙女なことを思った。が、思うだけで私はオリオン座すら見つけられない奴なのだった。正直今は空に上るオリオンより、地上で這うように生きてる自分の身の振り方を真剣に考える必要がある。
その日、私はひとり電車に飛び乗って人生初めての家出をした。
だが乗車二秒でその行いを後悔した。
よりにもよって、あの手塚国光と乗り合わせてしまったからだ。

「ぐ、偶然だね、こんな時間になんで……」
「部活が長引いた。こそこんな時間にどうした」
「あ、うん塾で」

手塚はドアのすぐ脇、という乗り込む客を監視するような場所に立っていたので私の事もすぐに気付いてしまった。
?」と声までかけられてしまっては別の車両へ逃げること叶わず、結局にこやかな顔に一筋の汗をたらして隣に立つ羽目になった。手塚は掴みやすいであろう手すりを(手塚よりは)背の低い私に譲り、自分は吊り革につかまった。優しい。出来た人だ。
しかし親しげに並んだはいいが、このあとどう会話を繋げていっていいものかさっぱりわからない。
なにか話題を。話題?手塚の話題?手塚といえば眼鏡?でも全く広がる予感がしない。噂で聞いた登山とか?でもこういう場合全く自分がわからない話を振るのはどうだろうか。サラッと会話のキャッチボールを楽しむつもりが、異常に食いつかれて置いてきぼりを食らう可能性も否めない。
どうやったら適度に盛り上がるだろう……と頭を悩めたが、いや別に盛り上げる必要はないんじゃないかと気付いた。
普通でいいだろ普通で。大体やたら元気でどうする、塾帰りの設定なんだ、くたびれているんだ。
そう強く言い聞かせたところで、現在私はやましい行為の真っ最中。
普通というものがどんなテンションだったか思い出せず、手すりにつかまったまま指名手配犯のように目を伏せていた。
生真面目でダイヤモンド級に固い手塚は、今の私にとってお巡りさんとそう変わらぬ脅威の存在である。いっそクラス担任と乗り合わせた方がまだマシだ。
手塚の前で嘘をついたり誤魔化したりするのは、他の誰を欺くより後ろめたい気分になる。



ヒッ!
飛び上がるような過剰さで顔を上げてしまった。いかん不審すぎる。
でも手塚は特に表情を変えるもことなく、無言で前方を指差した。
いつの間に降りたのか、さっきまで居眠りしていた会社員の姿はもうそこにはなく目の前は空席となっていた。閑散とした電車の中、私達以外に立っている乗客はいない。
何も考えず腰を下ろしかけて、慌ててすぐに立ち上がった。日が暮れるまで練習に打ち込んでいた手塚の方が疲れているに決まっている!
しかしテニス部部長は男前だった。

「俺はいい。これもトレーニングの一環だ」

「うん」とか「はい」とか言うつもりだったのに、反射的に口から出たのは何故か「へえ」。
岡っ引きかよ……と唇をかみしめながら私はすとんと腰を下ろした。手塚は見るからに重そうなバッグを肩から下ろそうともせず、規律正しく立っていた。

こうなったきっかけは実に詰まらないことだ。
私の好きなもののひとつに、熟したバナナがある。固すぎず、柔らかすぎず、黒い斑点(スイートスポットと呼ばれる)がほどよく散りばめられたのが理想だ。
しかし気を許すとバナナはすぐに熟れ過ぎて皮を剥くのが困難なほどぐてんぐてんになってしまう。
そのせいか、大抵母は黄色くて青臭さの残る若いバナナを買ってきた。いつも私はそれが好みの味になるまでじっと待っている。昨日も待っていた。甘さを宿すあの黒い斑点が全体に広がり、あと一歩というところだった。
ところが、今日あたりそろそろ…と思っていたそれを、小腹の空いた妹が食ってしまった。
数秒後、カッと血が上った私は今まで出したことのない奇声を放っていた。顔は半泣き。
尋常ならざる私の様子に妹と母はポカンとしながらも、それぐらいでなんなんだというような思いがありありと顔に浮かんでいた。それが無性に腹立たしくて、頭が真っ白になった私は衝動的に家を飛び出していたというわけだ。

今になって思うと馬鹿としか言い様がない。おかしいだろどう考えても。
バナナだよ?熟れ具合が一級品だったとしてもバナナだよ?それを食った食われたでこの騒ぎってなんだ。戦時中か。
テストや受験のこともあって多少ストレスを感じていたにせよ、あまりに脈絡が無さ過ぎる。
私はどちらかというと気が長いたちで、普段ほとんど怒らない。だというのに思いもよらぬ着火点で突如ドカンと爆発、家族が唖然とするのは当然だ。可哀想に、妹なんて驚きのあまり目を落っことしそうになっていたじゃないか。すまない、姉さんは自分で気付かないだけで難しいお年頃だったみたいです。若さってのは時に恐ろしいもんだよ。
私は悟られぬ程度に息を吐き出した。

疲れているのか眠っているのか、顔を伏せた乗客達は吊り革や座席シートと同化したようにそれぞれ存在を殺している。私も手塚もしばらく黙ったまま車両の一部となっていた。
沈黙が続くばかりなのも何だか気まずい。別に知りたいわけではないが間を持たせるため時間でも聞こうと顔を上げると、同じようにこっちを見ていた手塚と目が合った。焦った。

「どうかしたか?」
「いや……手塚は最近ずっとこんなに遅いの?」

時間を聞くという口実はどこかへ飛んでいってしまった。
二つのレンズに私のアホ顔が映っている。

「近く大会が控えているからな」
「ほう大会が」
「もう少し残って練習するつもりだったんだが、この時間だ。さすがに顧問から帰るよう促された」

カーブに差し掛って一瞬車体が大きく揺れたが、手塚の足元が崩れることは無かった。

「今年は全国制覇を充分に狙える。そのために出来る限りのことをしておきたい」
「でも大変だね。生徒会の仕事もあるのに」
「ああ。しかしそれとこれとは別だ。一度引き受けたからに責任を持つべきだろう。どちらもおろそかにする気はない」

偉い、偉いよ手塚……
一片の曇りもないきっぱりとした瞳が眩しすぎて、私は心身ともに打ちのめされた。
思えばこれまで手塚の口から「疲れた」とか「しんどい」とか「部長やめてえ」とかの愚痴の類を一切聞いた事がない。堅物すぎて浮いてる場合もたまに(いや頻繁に)あるけど、でもそれだけじゃないんだよこの人は。人の上に立つに充分足る器だよ。
それに引き換え、バナナの斑点……
極めてバカ。この上なく愚か。情けないにもほどがある。
自己嫌悪のあまり心で己の頬をビシビシ打っていると、上から名を呼ばれた。その声はいつもよりかすかに低く、顔は少し怖かった。

「本当はどこへ行くつもりなんだ?」

ボストンバックを抱えて塾に向かう奴はそういない。自分でも無理があるとわかっていたものの、相手は天然キャラとして校内で名を轟かせている手塚だ。もしかしたらと淡い期待を抱いていたが、流石に見抜かれていたらしい。土日ならいざ知らず、そのまま友達の家に泊まりに行くの、というベタな言い訳も平日の今日では使えない。
答えに困ってうろたえている間もずっと、真摯な視線がまっすぐ私を見下ろしている。少しも目を逸らそうとはしてくれない。
これだから嫌なんだ。手塚の前で隠し事をするのは。

「いや実を言うとね、家出の途中ってやつでね」

普段は変化の乏しい手塚の表情が明らかに硬くなった。

「あっでもすぐやめましたよ?!今はもう反省してるし!帰るよ帰るさ帰りまくる」

出任せではなく、実際家出の打ち切りは笑えるほど早かった。
電車で手塚の顔が目に入った瞬間、怒りも覚悟も苛立ちもぐしゃっと紙くずのように潰されて、あっという間に目が覚めた。結局その程度の勢いだったのだ。もともと行くあてもなかったし、何より理由が理由だ。憤りを持続させられるとはとても思えない。
例えここで手塚に会わなかったとしてもいずれ自宅へとUターンしていたことだろう。全く本当に心の底から自分が恥ずかしい。
さすがの手塚も家出未遂に立ち会って動揺したのか、難しい顔で黙りこくった後、彼にしては珍しい大きな息をもらした。
呆れられたかなと思いつつ見ていると口元が躊躇するようにゆっくり開いた。

「すまない」

謝られた!なぜ!
思わぬ反応を示され、「そんないいよ手塚は全然悪くないよ謝る必要ないない」と私は大慌てでフォローに走った。事実、手塚にはなにひとつ落ち度はない。
しかしこの堅物の申し訳なさそうな態度は揺るがなかった。

がそうまで思い詰めていたとは気付いていなかった」

それは当の本人も気付いていなかったくらいだから当然だと思う。
お前はどこまで責任感が強いんだ手塚よ。頼むからそんな深刻な声を出さないでくれ、君の生き様に比べたら胡椒の粒よりみみっちい話なんだ。

「俺でよければ力になる」

射抜くような眼差しが力を増し、わけを話せ話せと訴えている。
打ち明けるに値する理由ならばいくらでもお話したいところだが、まさかこのシーンで「実はバナナが…」などとカミングアウトする勇気はない。
仕方なく、私は家庭の事情を水増した上に脚色するなど精一杯のアレンジを加えてそれらしく伝えた。

「その、ちょっとしたことで家族と衝突しちゃって……そしたら家の中で孤立した感じになったっていうか、誰も味方してくれなくて。その疎外感に耐え切れなくてさ。自分はいらない子なのかなーとか、そんな馬鹿なこと思い始めたら悲しいやら悔しいやらで…もうこうなったら北の果てにでも流れたあげく年偽って場末のスナックで働いてやろうとか、かなりやぶれかぶれなことを考えたり」

場末のスナックってなんだ……
思いつくまま喋ったはいいが自分でも何言ってるんだかわからなくなってきた。どこで話を終らせたものかと弱っていたら手塚が厳しい面持ちで話を遮った。

、馬鹿なことはやめろ」
「いや本気じゃないって。考えただけだって」

何でも真に受ける奴が相手だと下手なことが言えなくて困る。落ち着けよ手塚と心で叫んだが本当に落ち着くべきは自分の方だ。
窓の外にはとうに夜が来ている。街のネオンが暗闇で瞬いて満天の星空のよう見えた。
この都会の夜の下、私はどこを目指す気だったんだろう。ああ東京砂漠。

「でも家飛び出すなんてあまりに考えなし過ぎたね……手塚みたいに立派に生きてる人もいるってのにほんと情けないよ」

私が盛大に溜息を吐くと眼鏡の奥の眉間が皺を刻んだ。
そんなことしたら老け顔にますます拍車がかかってしまうのにといらん心配をしてしまった。

「俺は決して口達者ではない。ゆえに上手くいえる自信はないが」

うん?と私が首を傾げると堰を切ったように手塚の口が動き出した。

「どんな事情があったにせよ、俺はがいらない人間だとは到底思わない。おそらくの家族も同じことを思っているはずだろう。だ。俺や誰かと比べることに意味はない。人には誰しもその者しか持ち得ない何かがある。にもしかないものがある。嘆く前にそれを誇るべきだ」
「え、あ、ありがとう」

私は手塚の熱弁に目を白黒させながらカクカク頷いた。
口調は冷静だったが、言ってることは体育教師のごとく熱い。ついでに視線も焼けるように熱い。道を踏み外しかけたクラスメイトを救わんとする義務感がそうさせるのだろうか。
林間学校のロッジとか修学旅行の夜とか盛り上がりがちな場面ならまだしも、今ここはただの電車。普通なら赤面ものだが、恥ずかしげもなく堂々と言ってしまうあたりが手塚だなあとしみじみ思う。そういうところが羨ましい。そういうところが敵わない。
吊り革を握り直し、手塚は一旦目を瞑った。またしても眉間に皺が寄っていたので、どうしたのと声をかけようとしたら切れ長の瞳が私を見た。

「言っておくが、今のは単なるクラスメイトという立場からの意見じゃない」
「へ?」
「相手がだからこその発言だ」
「はあ」
「さっき立派だと言ってくれたがそんなことはない。俺から見ればお前の方がよほど素晴らしいものを沢山持っている」
「いやそんな」
「いらないどころか、いてもらわなくては困る存在だ」
「あ、あの」
「俺はを必要としている。に居てもらいたい。それも出来るだけそばにいてもらいたい」
「てっ手塚?!」

右に左にと身をくねらせ、ネオンの星空を切り裂きながら電車は一途に走り続ける。
ひたすら夜ばかり見せていた窓が次の駅のホームを映した頃、私は手塚の彼女になっていた。