踏 切 り 渡 っ て 「なあさっきの化学、テスト範囲だったってマジ?」 レンズの切れ目で風船が割れる音が鳴り、赤い髪がゆらゆらと揺れる。 筆入れのファスナーを最後まで締めた柳生が振り向くと、丸井は盛大なあくびの真っ最中だった。大口に引っ張られて伸びきっている右頬には教科書の痕がくっきりと居眠りの証明のように残っている。 そうですよと柳生が頷くと、丸井はガムを口の中に押し込んでニカッと笑った。 「そんじゃさ柳生のノート貸し、」 「お貸しできません」 「早!」 にべもなく断られた悔しさで冷たいだの薄情だのせめて最後まで聞けだのとわめいたが、申し訳ありませんと返って来たその声には「恐縮」というより「ダメ、絶対」というえもいわれぬ厳しさが滲んでいたので丸井はそれ以上の抗議を慎んだ。ボレーのみならず、押し切れるか否かの見極めもさすがに天才的。 舌打ちしながら某J氏の元へと走り去る背中を見送った柳生は、死守したノートを開いた。 試験が近いせいか今日はいつもより授業の密度が濃く、黒板で説明される要点も多かった。だというのに、否、だからこそ柳生は丸井の申し出をああもすっぱりと断った。 席を立ちそのまま二つの机を通り過ぎる。 思った通り、は休み時間にも関わらず席にかじりついたままだった。視線が黒板とノートを忙しなく往復している。 普段の動作にそういう傾向は見られないが、ノートをとることに関していえば彼女は少しばかり人より遅い。書くのが遅いというよりも、丁寧に書こうとする姿勢がそうさせるのだと彼は知っている。 日直が消す前に書き写そうと必死の形相のは脇に立つクラスメイトにまったく気付かない。 彼女は何かに夢中になると口が開く。当然いまも無防備に開いている。他に神経が集中すると口元の筋肉は役割を放棄してしまうのだろうか。 しばし柳生はその様子を黙って見守っていたが、気付いてもらうまで待っていては日が暮れる。さん、と控えめに呼びかけると、激しく移動していた黒目が止まり、開いた口もぱちんと閉じた。 「あとどのくらい残ってるんですか」 渋い顔が持ち上げて見せたノートは黒板の2/3程度しか埋まっていていなかった。今日は進行が早かったですしね、と慰めるように囁くとは眉を寄せたまま、うんと頷いた。 「次なんだっけ」 「体育ですよ」 二人揃って時計を見る。 あまり時間に余裕があるとは言えそうもなかった。 再び焦りの色に顔を染めて机に目を落とそうとしたを、柳生は差し出したノートで制した。 「残りはこれを写して下さい。そろそろ準備しないと遅れますよ」 少し前まで当たり前だったこのやり取りは、柳生を少し寂しくさせる。誤魔化すために眼鏡を少し持ち上げた。 かすかな感傷に気付くこともなく、瞳が二つきらきらと柳生を見上げている。黒々と光るさまが黒飴のようだと思っていたら、目の前にまさにその現物が差し出された。お礼だというので、スーパーボールのように巨大なそれを柳生はありがたく頂戴し、甘いものに目がない赤髪のハンターに奪われないよう懐に納めた。 「それびっくりするくらい溶けないから!私食べたの登校中なのに、ほら」 飛び出した舌の先で、一回り小さくなった飴玉が転がった。 「…授業中に飴を舐めてたんですか。道理でさっき当てられた際、口ごもっていたわけですね」 「あっ、いやっ、まさかこんなに長持ちするとは思わなくて、」 「本当にあなたは仕方のない人ですね」 たしなめるようにそう言ったものの、実際彼がたしなめたかったのは赤い舌にたじろいでしまった自分の方だ。はいつもと同じ顔で笑っていた。いつもごめんね、ありがとう。動揺を悟られぬよう柳生も普段と変わらぬ口調で応えた。いいえ、構いませんよ。 教卓と目と鼻の先の席からは、折れそうにきしむチョークまでよく見える。最も生徒から敬遠される特等席も、居眠り一つしたことのない柳生にとってはなんの苦にもならない。できれば窓側に座りたいとかなるべく目立たない席がいいとか、そんな希望を抱いたことも特にない。前でも後ろでも変わりはない。場所なんて正直どうでも良い。 黒板を見る振りをして、横に張られたカレンダーに目をやる。次の席替えはいつだろうか、日付を数えながらささやかな苛立ちを覚えた。待ち遠しく思ったことなどこれまでは一度もなかった癖に我ながら身勝手なことだと思う。 まだ当たり前のように席を並べて授業を受けていた頃、が英語と地理の教科書を間違えて持って来たことがあった。柳生は当たり前のように一緒に教科書を広げた。 まだ当たり前のように彼女が横にいた頃、がシャープの芯を切らしたことがあった。柳生は当たり前のようにケースごと替え芯を渡した。 今はもう当たり前ではなくなった。彼女に頼りにされるのは、当たり前のことではなくなった。意識が向かう先は隣ではなくなった。 五行にも渡る数式から導き出した解答を、締めくくりと言わんばかりに教師は一層強く黒板へ叩きつけた。圧力に耐えかねてついに砕け散ったチョークが柳生の足元へ転がりつく。 結局計3本のチョークを粉砕した年若い数学教師は「ノート今日中に提出な!」と元気よく告げ、真っ白な指のまま鐘と共に教室を出て行った。ほとんどが高等部に進学するとはいえ、一応身分は受験生。その自覚と緊張感を教え子達に与えるべく、抜き打ちでノートが回収されることになっている。 周囲が慌てふためいて不備のチェックに走る中、柳生は手にしたノートを開きもせずそのまま立ち上がった。心なしか教室が霞がかっている。煙のように舞い上がる白い粉を喉が拒否をして、咳をひとつ。 ノートを回収するのは日直の仕事。ええと今日の当番は…と確認するまでもない。それが誰であるか、とうに柳生は知っていた。 かつて。 見えざる手によって一度結わえられた縁はほどけることなく永遠に繋がっていくものだと、かつて柳生は信じていた。馬鹿げた思い込みだが、その時はそう信じていた。四度も繰り返した隣同士という関係は、運命と呼ぶほどの重みはなくとも、単なる偶然で片付けられる軽さもなく、ゆっくりと緩やかに根拠のない自信を柳生に植え付けた。だから、五度目の席替えで離れるなど夢にも思わなかった。 ハイ、きみたちの縁はここまで。無情な宣告の声が聞こえた気がした。 これまで引っかからず渡れた踏切に、初めて遮られたような多大なる驚き。 あの日、閉まるはずがないと信じていた遮断機は浅はかな思い込みをはねつけて柳生の目の前に下りた。 絶望は深かった。 深すぎて、弁当を食べながら「今日から神を呪います」などと突拍子もないことを口走ってしまい、仁王に牛乳を噴かせた。 振向いた先にいる本日の日直は、周囲と同じくノートをめくる作業に没頭していた。横から伸びてきた指に肩をトントン叩かれ、顔を上げる。ノートが差し出され、彼女はそれを受け取った。ただそれだけのことなのに、拠り所を奪われたかのように小さな棘が塊となって一斉に胸を刺した。同時に警報機が大音量で鳴り始める。 てっきり自分だけものであった「ありがとう」が言い渡されるものと身を硬くしたが、彼女の口から聞こえたのは「ああ、はいはい」という何とも軽い応答で、ノートはそのまま彼女のノートの上に重ねられた。 なんだ、回収分のノートじゃないか。安堵で気が抜けたものの、警報機は止まることなく騒ぎ続けている。 今彼女の隣に座っている男子生徒は人当たりの良い人物だ。人当たりが良いのは悪いことではない、むしろ好ましい。しかしこの場合の人当たりの良さは、柳生の胸を波立たせるものだった。 五回目の席替え以後に生まれた、言い知れぬ不安。言葉に出来ない焦燥。それは徐々にはっきりと形を成し、上げる声を大きくしながら柳生の耳に囁き続けた。 (自分以外の誰も、) 人当たりの良い彼はノートを渡した後一旦席を立ったが、何か思い出したように「そういえば、」とくるり隣を振り返った。なに?とはノートをめくりながら返事を返す。 「一週間ぐらい前に出たプリントあるじゃん。英語の」 「プリント…?あーあったあった、2枚組みの」 「そうそれ。終ったと思って俺捨てちゃったんだけどさ、次のテストあれから結構出るって」 「うわホント!?私も思いっきり水こぼしちゃって、もう使える状態じゃないんだけど」 「誰かにコピーさせてもらえば」 「あ、そうだね」 「俺今から隣のクラスの奴にコピー頼んで来るけど、もいる?」 「んー柳生君に借りるから私はいいや」 そっかと笑って応えた彼は彼女から離れ、教室から消えていった。 柳生は一直線に歩き出した。本当は駆け出したかったところを、なんとか堪えて早歩きにしておいた。 まだ柳生が縁を当たり前と思っていなかった頃、風邪で学校を休んだことがあった。次の日、机に当たり前のようにその日1日分のノートが置かれていた。礼を告げると、柳生君みたいに綺麗に取れてないけど、と隣人は屈託無く笑った。ノートの上にはのど飴がひとつ添えられていた。 (自分以外の誰も、あの人の特別になりませんように) 「さん」 顔を上げた彼女が、赤く点灯する警報機の向こうで笑った。あの黒飴がふたつ並んで柳生を映している。 どうしてもそれに近付きたくて、行く手を遮る障害を力一杯蹴り飛ばした。 「お付き合いしていただけませんか」 ぽかんと開いた彼女の口がけたたましい警報音を吸い込んで、他にはもう何も聞こえない。 砕け散った遮断機の残骸を天高く放り投げ、彼は踏切の向こう側へと歩き出した。 |