「ねぇ俺たち、別れた方がよくない?」 「 え 、」 突然放たれた慈郎の台詞に、思わず耳を疑った。 ふわふわと差し込む柔らかい日差しに包まれてうとうと瞼に感じていた幸福感が、一気に弾ける。 動揺のせいか上手く言葉を繋ぐことが出来ず、呻きのような短い声を上げた後、パクパクと金魚みたいに口を動かすのが精一杯だった。 早めに干しておいたタオルは、この陽気のおかげでふかふかと気持ちの良い匂いがした。 相変わらず、目の前には今にも崩れそうな洗濯物の山。 もはやこれは見慣れたいつもの風景で、今更もうウンザリすることもない。 は大家族のお母さんのような気持ちでどんどんその山肌を削ってゆく。 とっくに部活が始まっているこの時間の部室に、レギュラーであるはずの芥川慈郎が存在することは不思議でも何でもないことだ。 大抵いつも、が取り込んだ洗濯物を抱えて戻ってくる頃、彼はソファで夢を見ている。 跡部から命を下された樺地が回収に来るまで、その規則正しい寝息を聞きながら、時に誘惑に負けて夢の世界へご一緒したりしながら、作業をこなすのがの「日常」だった。 だが、今日それは破られた。 子供のような微笑ましい寝言も機織のような優しいリズムの寝息も突然すぎるほどブツリと途切れ、眠ってばかりだった彼の目は開いた。 そして同時に開かれた口から、飛び出した信じられない言葉。 それは一度に留まらず、次々との前に並べられていった。 「前からずっと思ってたんだよねー」 「 え、え、 」 「もうこれ以上は無理かなって」 「ちょっ…」 「だからさ、これからはちょっと距離置いて…」 「ジ、ジロー先輩!!!」 の意向など気にする様子もなく、話はどんどんと進められてゆく。 人の言葉など聞かない人種だということは重々承知していたが、さすがに今回ばかりは好きにさせておくわけにはいかなかった。 「うん、なに?」 「あの…わ、わたしたち、」 普段と変わららないクリクリとした無邪気な瞳に見つめられ、思わず声が震えた。 しかしどうにかその震えを喉の奥へと押しやり、ソファの上で体育座りの慈郎を見上げたは力強く言った。 「私達、そもそも付き合ってませんよね」 慈郎とは、彼氏彼女の間柄などではない。 たまたま付き合おうという明確なやり取りがなかっただけで事実上カップル☆という関係とも違う。 ただの、部の先輩とマネージャー。それだけである。 それをいきなり「別れよう」と切り出され、としては混乱するばかり。 始まってもいないものにピリオドを打とうとするとは、なかなかに無理な話である。 しばらく慈郎は、見上げてくるを真似るように真剣な顔で黙っていたが、やがて愛用のお昼寝タオルケットを押し潰すかのように抱きしめ、 「もー!なんで引っかかってくれないのー!!」 ふくれっ面でそっぽを向いた。 その横顔は思い通りに事が進まなかった時の子供そのものだ。 「俺、焦って慌てて『ジロー先輩の馬鹿!そんなのイヤイヤ!』ってに言って欲しかったのにー」 「ジロー先輩の中でどんな乙女キャラを担ってるんですか私は」 「ってば冷静なんだもん!つまんないー!」 「いや、つまんないってアナタ…」 非常に理不尽な苦情を寄せられ、は脱力感に見舞われた。 つい畳み終わったタオルの山にすがりつきたくなる。 「だって、こーでもしないと、好きって言ってくれないじゃん。俺は毎日言ってるのに」 「 うっ」 一瞬は言葉に詰まった。 確かに毎日毎日、部室でこうして顔を合わせるたびに「好きー好きー大好きー」と、まるで鳴き声であるかのように慈郎は連呼してくれはする。 だが、それはきっと彼にとって挨拶のようなものだろうとは真に受けていなかった。 「あのう、あまり、軽々しく『好き』などと言うのはですね、」 「俺、本当に好きじゃなきゃ言わないよー!」 そう言って、慈郎はバサッと広げたタオルケットへ隠れるように潜り込む。 亀が甲羅に引っ込んでしまった。 起きている間はいっつもニコニコとポヤポヤと人懐っこい性質である慈郎には、跡部様ほどではないにしろ部活中女生徒から「ジローちゃんカワイー!大好きー!」などの黄色い声援が飛んでくる。 それに対して彼はいつも「アリガトー」と笑顔で応えるばかりで、冗談でも「俺も好きー」なんて返したことは一度もない。 はふと、ある女生徒から軽いノリで告白された慈郎が「俺は別に好きじゃないからー」と笑顔で断っている場面を偶然に目撃した時の事を思い出した。 そのバッサリ加減には少々恐ろしいものを感じてしまったが、勝手に抱いていた来るもの拒まずというイメージとは異なることに驚かされたのを覚えている。 昼寝が好き、甘いお菓子が好き、テニスが好き、と常々声高らかに「好き好き」宣言している慈郎は一見博愛主義にすら思えてしまうが、彼の過去の言動を全て洗ってみると異性に対する愛情表現だけ、極端に少ない。 いや、ゼロといっても過言ではないだろう。 ただひとつの例外 ――― に対するラブコールを除けば。 「………先輩、ジロー先輩、」 小さな溜息をひとつ吐き、は閉じ困ったままの慈郎を静かに揺する。 「謝るから出てきてくださいよ」 ウソ別れ話に乗ってあげなかったことに対しての謝罪なのか、それとも彼の愛をスルーしていたことに対してなのかは、本人にもわからない。 ただ、勝負などしていなかったはずなのに何故だか根負けしてしまったようなそんな情けなくも尊い気持ちが彼女の胸の中に漂っていた。 丸まった繭は、手の平に伝わるくらいに温かい。 頑なだった殻は転がすうちにの手の下でモゾモゾと動き始め、やがて明るい金色の髪がこぼれた。 タオルケットを相変わらず全身にまきつけたまま、顔だけを出した状態でを見ている。 完全に機嫌が治ったわけではなさそうだ。 「ま…まだ怒ってます?」 申し訳なさそうにが顔を覗き込むと、こぼれそうに大きな瞳が突然潤み始める。 「ジッ…ジロー先輩?!!なっ、何で泣いて…!」 そのまま涙で顔をグシャグシャにした慈郎は、うわーん、と体当たりするように抱きついてきた。 「と…と別れるなんて言ったら、泣きたくなってきちゃったよー!」 「え、え?」 「ウソでも嫌だよー悲Cよー!」 「自分で言っといてそんな…!(しかも別れようがないし!)」 「ー…」 「ああ、ごめんなさいっ!ホントごめんなさい!だからどうか泣かないで下さい!」 これこそ何に対しての「ごめんなさい」なのかわかりゃあしない。 さっき畳んだばかりの乾いたタオルは、あっという間にの手の中で慈郎の涙を吸い込んでゆく。 「、好き」 「……ありがとうございます」 「は?」 「……ちょっと考えさせてください」 「ー…」 「ギャッ泣かないで下さいって!」 心地いい毛並みの生き物の中に宿る力強い生命力。 この人はきっと羊の皮を被っている。 前々から感じてはいたが、改めて今それを強く実感した。 その中が果たして狡猾な狼なのかはたまた老獪な狸なのか定かではないが、到底敵う相手ではないということだけは理解できる。 今だってマジ泣きなのかウソ泣きなのか、見破ることすらできやしない。 「こらっジロー!今日は樺地居いひんかて、いつまでも寝とったらアカンぞ……あっ!がジロー泣かしとる!!」 「えっ…忍足先輩、違ッ…」 「おーいみんな!ここにいじめっ子がおるぞー!」 「ちょっ…やめて下さいよォー!………あぁぁ…もう、こっちが泣きたい…」 実をいうとさっきの別れ話に一瞬泣きそうになってしまったのだが、こんな調子では当分口に出せそうもないと溜息をひとつ吐き、はいまだ泣きやまない腕の中の羊(仮)をただ抱きしめた。 いつも素敵なものを見せてくださる右楽様にお礼としてこんなものを贈りつける気です。 ご、ごめんなさい。 |