静まりかえった空気のせいで、身動きする些細な物音もことさら大きく聞こえる。 その日は一人部室に残り、そう時間をかける必要のない部誌をゆっくりと書いていた。 書いては止まり書いては止まりを繰り返す、緩慢な動きの右手。一方、休みなく働きまわっているのは閉じた口の中。 舌の上で一粒のチョコレートが忙しなく転がっている。 甘ったるいというほどではないが、すでに口中がカカオの洪水で、歯がギシギシと音を立てて軋むような感覚を覚えた。 そうしたら実際、ギシン!と背後から鳴り響いたので、は「うわあ」とチョコを飲み込んだ。 「うわあってなんだよ」 「うわあ丸井先輩」 うわあを連発された丸井は訝しげに顔をしかめたものの、躊躇することなくずかずかと部室に入って来た。 「帰ったんじゃ、なかったんですか」 「これ置きに来た」 丸井はぶら下げていた大きな紙袋を、無造作な仕草でロッカーへと押し込んだ。一瞬だけ、艶やかな色彩が誇らしげに顔をのぞかせる。ピンクのリボンにハートが乱舞する包装紙。 「持って帰らないんですか?」 「半分だけな。これガッコで食う分」 非常食になるだろいと膨らませた風船を割って見せる。 「今年も大漁だったみたいですね」 「おうよ。しばらく食料には困んねえな」 バレンタイン様様だと丸井はほくそ笑む。 この2月14日という日を、丸井は毎年指折り数えて待ちわびている。 多くの男性にとって、己の人気を知るためのひとつの手段がチョコレートというだけであって、もしそれが花や靴下や数珠だとしても、モテの象徴であるならば一向に構わないだろうが、この男の場合、手段そのものに価値を見出し、重きを置いている。 一つでも多く我が手元にチョコレートを!という願いは、他のオスと同様であるものの、そこに色気は混じっておらず、丸井はただ純粋に食い気からチョコレートを渇望している。その点が大きく異なる。 もらえるものはまず断らないし、数を集めるためなら自ら催促することも厭わない。 本命であろうが義理であろうが、彼にとってはどれも等しく愛しいチョコレート達なので、受け取る際なんの区別なく平等にサンキューの一言で片づけてしまう。当然ホワイトデーにお返しなどの律儀さもない。 全員にお返しを欠かさない柳生や桑原とも、お返しはできんが構わんか?と事前確認を怠らない仁王とも、意中の相手以外はやんわり断る柳と幸村とも、テンパりすぎて意中の相手にも突き返してしまう真田とも違う。 お返しどころか、下手すれば誰がくれたかすら覚えていない始末だ。にもかかわらず、貢物が後を絶たないのはひとえにこの憎み切れないキャラクターのおかげである。 うんうんと本日の収穫品をひとしきり眺め、丸井は満足げにロッカーを閉めた。 その一連の動作を、伺うような視線でが見ていた。自然と目が合った。 「こそまだ帰ってねえのかよ。何してんだ?」 「ちょっと、ええ、日誌を」 ごにょごにょと歯切れ悪く漏らして、誤魔化すように作った笑顔はぎこちない仕上がりになった。 本音としてはあまり触れずにさっさと立ち去って頂きたいのだが、の思いとは裏腹に丸井の足はこちらに向かって進みだした。 乱暴な音を立ててすぐ隣の椅子に腰を下ろす。途端、何かに気づいたように首を伸びし、鼻をひくつかせた。 「カカオの匂いがする」 は心で悲鳴を上げた。ぎゃあと。 なんだこの警察犬はとも思った。 「なんか隠してるだろい」 「か、隠してませんよ、そりゃあんだけチョコもらってきたら匂いくらいするんじゃ」 しかし自身のスイーツアンテナに絶対の自信を持っている丸井は、何もそこまでという真顔すぎる真顔で「いやもっと近い」と言い切った。 何もないと制止するを無視し、丸井は突き動かされるように付近の捜索に当たりだした。その執念が怖い。 しばらく机の中や積み重なったファイルの下など漁っていたが、野生の勘か、机の上に置かれたのカバンに目を付けた。目が光る。 「うおああやめろー!!」 「先輩に向かってやめろはねえだろ!」 「やめて下さい!おやめ下され!やめて下さいまし!」 「いいから見せろ!」 「ああちゃんと言い直したのに……!」 抵抗したものの、日頃からリストバンドまで装着して鍛えている相手に力で勝てるわけがなく、鞄からは無情に丸井の目的の品が転がり出てきた。 は、バレンタインの山賊というこの時期限定の彼の通り名を思い出した。 卵色をした小さなギフトボックス。アンテナが示した通り、中にはパウダーに覆われたカカオの塊、チョコレートがいくつもおさまっている。 やっぱり隠してたんじゃねえかと発見したお宝を掲げてご満悦な丸井とは対照的に、は肩を落として萎れていた。その様子に、ちょっと強引すぎたかとさすがの山賊にも少々反省の気持ちが芽生える。 けれど箱の蓋は中途半端に開いていたし、明らかに食べかけという状態で、誰かに渡す分だとはとても見えない。それに。 「俺がもらったのと違う」 「丸井先輩にはもうちゃんとあげたじゃないですか」 くれくれくれよとそりゃもう熱心に一ヶ月前からは催促を受けていた。だから希望通り、隙なくラッピングされた美味しさ保証済みの品を部活が始まる前にきっちり奉納している。 丸井は喜んで受け取った。例の「サンキュー」だけじゃなく、とびっきりの笑顔という豪華なおまけつきだった。 「それとこれは別腹だろい」 心なしか不機嫌が固まったような声になった。 返して下さいと伸びてきた手から逃げるついでに、丸井は一粒口に放り込んだ。あ!と叫んだが顔色を失う。 口に含んだチョコレートはパウダーがほろ苦くてけれど甘く、そしてこの歯ごたえ、これは、この食感はまるで、 「………石?」 「だからやめてって言ったじゃないですか……」 弱々しく云ったは顔を覆った。 初めて手作りに挑む者として、はもっと慎重かつ殊勝に向き合うべきだった。 チョコなんぞ刻んで溶かして固めるだけだろうと高をくくっていたものだから、手痛いしっぺ返しをくらうのだ。 本来チョコレートを溶かす手順に行う湯せんは、お湯を入れる下のものより上に重ねたボールの方をやや大きめにするのが基本だが、まあ溶けりゃいいだろうと男の料理的な発想で上下逆のまま湯せんを敢行したら、手が滑ってチョコのボールが浸水した。どっぷりいった。それが悪かったのだろうか、丸めて固めて完成したチョコレートは、菓子にあるまじき硬度を誇った。硬い。とにかく硬い。強く噛んでもビクともしない。味はチョコだが、歯ごたえは鉱石である。 の父も最初は娘かわいさに喜んで食べてくれたが、いつまでも口内に留まる口どけの頑固さに二粒で逃げ出した。 身内でさえ音を上げる代物を、とても余所様に差し上げられるわけはない。しかし原材料にはなんの罪もない。だから残った仕事でも片づけながら、責任を持って自己処理するつもりだった。 「お前作ったの?手作り?」 そりゃ手作りに決まっている、という思いでは頷いた。 もしこれが市販されていたとしたら、販売元の企業の株は瞬く間に暴落することだろう。 「失敗作なんです。人にあげられるようなもんじゃないんです。出しちゃって下さい」 懇願に近いの申し出に、丸井はゆるく首を振って否と告げた。 そのまま頬張ったチョコをころころと舌で弄ぶ。 あどけない見た目も相まって、その姿は小動物が咀嚼しているように見える。何か食べてる時のブン太ってかわいい!リスみたい!とこれを武器に女子の心をくすぐっては、日夜餌を確保しているといっても過言ではない。中身は小動物どころか肉食獣だが。 「ま、味はチョコだし」 いたずらに歯を立ててみたが、ダイヤモンドを齧ったように簡単に弾かれた。思いのほか音が響いたか、がますます情けない顔になる。 「作った奴に価値があるからいい」 噛んでいたガムはとうに捨てた。 どこかの野郎に玉砕した本命チョコの残骸、という悪い可能性が消えた今、含んだ塊はただ甘いばかり。ただ一点、恐ろしく硬いことを除いては。いくら舐めても粒の存在感は薄まらず、丸井は少し笑った。 居た堪れなさに視線をそらしていたは、面食らったように丸井を見て、思わず俯いた。どんな顔をしたら良いのかわからなかったから。どうしてそんなことをさらりと言えるのか。正直に早まる鼓動を抑えつけて、箱の中に散らばるチョコレートを恨めしげに指で転がした。悟られない程度に息を吸う。 仕返しをするつもりでは言った。 「うまく出来たら、先輩にあげるつもりでした」 どうとでも取れる台詞だ。 義理のつもりか気まぐれか、旺盛な食欲への施しか、それとももっと別な何か。 ここでひとつ屈託なく笑ってみせれば、きっと霧がかかったように意味は曖昧になる。が、所詮は付け焼刃。慣れないことはするものではない。思わせぶりに振舞うには、経験値と素質があまりにには足りなかった。 頬杖をついて何でもない風を装ってはみたが、口に出した瞬間から沸騰したように耳の先まで赤い。曖昧どころか、その反応が言葉に込めた意味をあぶり出してしまった。 丸井は目を瞬かせた。 の言葉も茹であがった様も、目と耳がしっかりとらえた。鈍感ではないから、それが何を示しているかもすぐに察した。 だがお決まりの「サンキュー」はいつまでたっても喉から出てきそうもなかった。声も忘れた。口の中が甘い。 気がつくと丸井は猛然と箱を掴んで、中身を残らず口に放り込んでいた。 さっき聞いたばかりの悲鳴がの口から飛び出す。 「ヒーなにしてんですか!」 吐き出して吐き出してと揺さぶられたが、丸井は断固として拒否した。 「ふあふぁねえ」(出さねえ) 口を動かすたびに、ごりごりとチョコとは思えない凄まじい音が奏でられる。 計七つのダイヤでほおぶくろを一杯にした丸井は、本当に冬ごもり前のリスのようになった。そのまま巣穴へと駆けだしそうだが、リスにはない威圧感でどっしりと座り直し、腕を組んだ。顔を突き出す。 「ひいふぁよふひへ」(いいかよっく聞け) 「え?」 「ふぉまへぐぁふふっふぁんなふぁ」(お前が作ったんなら) 「ふぉまへ?」 「ふぁいひゅうへんえふっふぇひゃうよ」(最優先で食ってやるよ) 「すいません全然わかんないです」 決め台詞はほおぶくろに阻止され、いずれも日本語から遠い野生の言語になった。当然人間相手には通じない。青筋を立てて更に吠えたてる。 「ふぁふぁわ!」(だから!) 「は、はい?」 「いひふぁんみふっへやうっへいっへんんらよ!」(一番に食ってやるって言ってんだよ!) 「肥満児が巣食ってやがる?」 「ひふえ!」(違え!) 繰り返せども伝わらず。 三度目放った鳴き声に、尚もが首を傾げたので、痺れを切らしたように獰猛なリスは唇に噛みついた。 |