先輩の私物、まだ残ってるんですけどどうします?

久しく顔を合わせていなかった後輩から声をかけられ、練習量を増やしたことや顧問の毛髪が不自然に増えたことなどの内容の濃い近況報告を受けたついでに、そう尋ねられたのは二月も半ばにさしかかろうという頃。
とうに身を引いて数ヶ月。愛用していたひざ掛けや青竹ふみは後輩たちに譲ったし、三年間で撮りためた記念写真は忘れず持ち帰り、不要になった楽譜も捨てた。もとより合唱部は他の部に比べても持ち寄る荷物が少なく極めて身軽に出来ている。
心当たりがなく首をかしげかけた時、部室の片隅の光景が思い浮かんで、腑に落ちた。
忘れ物が眠っているのは、冷蔵庫の中だ。


凍てつく空気を和らげる文明の利器、暖房も万能ではない。肩や背を暖めはしても、その恩恵は隅々まで行き届くものではなく、底冷えの感触が足元を撫でた。
もう少し設定温度を引き上げられないものか。そう不満を覚えたものの、場所柄、あまり快適に保ちすぎて眠気に襲われても困る。は黙ってつま先に擦り合わせた。
多分読まないだろうと薄々感じながら引っ張ってきた厚い歴史小説は、予想を裏切らずに表紙すら捲られることなく放置されている。時間潰しに、600頁超えの巨篇は、やはりチョイスミスだったと今更ながら思う。だが席を立つのも億劫で、は頬杖をつきながら煩わしそうに手を伸ばした。選択を誤った分厚い文庫本ではなく、場違いに正装した濃紺の包みへと。
が在籍していた頃の部員数は、花形の運動部と比べてしまえば多い内にはとても入らないが、卑下するほど少なくもない。掛け持ちも可能だったせいか、文化部にしては賑やかな方だったろう。
それだけの人数が、そう大きくもない冷蔵庫に群がっては、おのおの持ち寄ったペットボトルやお菓子などを、ぎゅうぎゅうと押し込めていたのである。その為、出し入れの機会がないものは、自然と奥へ奥へと押しやられ、いつの間にか自然と記憶から消えてゆくのが宿命。
例に漏れず、冷蔵庫の奥底で置き去りにされていたそれは、スーパーのものよりいくらか上等な光沢を放つビニール袋に包まれ、文句も言わずに大人しく迎えを待っていた。
何故、の私物と判明したかと言えば、袋の上から <あけるな  と迫力すら漂う極太の黒マジックで物々しく記されていたせいだろう。後輩たちは好奇心よりも君子危うきに近寄らずの精神を選んだか、開封された形跡はなかった。
手つかずで守られていた包み紙を、はもったいぶることもなく無造作に剥いた。中身は後暗いものでも、特別珍しいわけでもない。
箱の中で、チョコレートはお行儀よく並んでいた。

いつから入れておいたんだっけ、なんて、ここに来てわざとらしい芝居を打つのはやめよう。考えるまでもない。
話が出るまで頭になかったのは確かだが、思い至った次の瞬間には、それをとりまく記憶のほとんどがの脳裏に蘇っていた。
存在そのものを忘れていたというよりも、あの場所に置いたという事実を忘れていたに過ぎない。はよく物をなくすが、散らかして見失うのではなく、いつもどこへしまいこんだか忘れて慌てるパターンだ。
なんにせよ放置した過去の遺物が、今頃になって発見されたのである。単なるお菓子とみなしているなら、わざわざ引取りに行くまでもない。とて、みんなで分けておたべなさいと言えるくらいの寛大さは持ち合わせている。
ただ「単なる」という言葉で片付けるには、それは重みが違った。
寒空の下、快音を響かせているのは野球部だろうか。
位置としては校舎の最も端にあるせいで、窓に映るのはグランドのほんの一部分だ。それでもノックや守備に精を出す球児達の姿は垣間見える。
隠居したじいさんのような心持ちでそれを眺めながら、チョコに手を伸ばそうとした。
「図書室では飲食は禁止だぞ」
耳に触れるような吐息。
ひいっと小さく悲鳴を上げて振り返ると、口元に指を当てた柳が「静粛に」と微笑んでいた。
書棚に隠れるように設置されているこの数少ない席は、カウンターからも他の座席からもちょうど死角になっており、ゆっくり腰を落ち着けるには最適の空間だが、目につきにくいこともあって、あまり縁のない人ならまず存在すら気付かないだろう。が、図書室の住人と呼んでも差し支えない柳が心得てないはずはない。
単に注意の為に寄ってきたかと思えば、柳はするすると椅子を引いて、隣の席に腰を下ろしてしまった。
「す、すわるの」
「都合が悪いか?」
断る理由も正義も相手が持っていないのを知っていて尋ねるのだからたちが悪い。
「いえどうぞ……」
が広げたチョコをいそいそと片付けようとすると、柳は不可思議なことを言った。
「食べないのか?」
「は?」
つい声を張ってしまうのも無理はない。柳は再びさきほどの静粛に、のポーズをとってみせた。
「さっき飲食は禁止って」
「ああ規約上は」
訝しそうなをよそに、柳は涼しい顔で続けた。
「だが他者に知られなければ事実は成り立たない、ゆえに違反にもあたらない」
要するにバレなきゃいいだろと言いたいらしい。
品行方正に見えて、その実、自分の都合に良いように解釈する抜け目なさが柳にはある。結構小ずるいよねとが評したのに対して、柳は柔軟と言ってくれと薄く笑った。
とは言え、無理を通してまでチョコを食べたかったわけではないのだ。
複雑な胸中とシンクロするべく、チョコレートの蓋は半端に閉じかかっている。そのまま閉じてしまおうかとが箱に手をかけたところで、視線を感じた。
すぐ隣から、四角い箱へと物静かに注がれている。
「ちょうど俺も甘いものが欲しかったところだ」
口止め料を求めているのは明白である。は逡巡して柳とチョコの箱を交互に見た。
「賞味期限切れてるけど……?」
意外そうに細い目が瞬く。
「そう古くは見えないが、オリンピックでいうとアテネか? シドニーか? まさかモスクワあたりじゃないだろうな」
「そんなに寝かせたチョコわざわざ食うか! ワインか! ほんの一年前だよ」
なら問題ない、との返事をつかまえるやいなや、柳はさっさと話を終わらせてしまった。
「くれないのか?」
無邪気を装って小首をかしげる仕草がわざとらしい。は釈然としないものを感じつつも、要求のまま差し出された掌にチョコレートをのせ、自分の口にも一粒放り込んだ。
冷気が染み込んでいるのか、真っ先に広がったのはひんやりとした舌触りだった。それも一瞬のことで、すぐに表面は熱を帯びて跡形もなく溶けていく。なめらかでほろ苦い。
古びた味はいささかもしなかった。
「うまいな。甘さが控えめで品がある」
「……それはよかったね」
のこれは本心からの言葉。
本来、柳の口に入る為のものだったのだから。
なりゆき上とはいえこういう形でそれが達成され、にとっては良かったのか悪かったのか。なんとなく巣食う居心地の悪さが、二つ目に伸びるはずの手の動きを鈍らせる。
それを知ってか知らずか、柳は持ってきた本を開こうともしない。
「一年も前のチョコを、今になってどこから引っ張り出した?」
目も合わせずに、部の冷蔵庫、とごくシンプルに答えると、柳は「なるほど」と言って忍び笑いをもらした。何がなるほどなのか知る由もないが、柳の「なるほど」ほど怖いものはない。
は今でも部活に出向いたりするのか」
話題が逸れたことにこっそりと胸をなでおろす。
「ううん。上があんまり顔出すのもやりづらいだろうから」
「それもそうだな。うちの連中も、たまに様子を遠巻きで見る程度だ。だいたい見つかって結局コートまで引っ張られるが」
ここからはテニス部の様子はうかがい知れない。練習に明け暮れる野球部の風景を通して、柳は託してきた後輩たちの姿を思い描いているのだろう。
柳は知るまいが、音楽室の窓からはよく見えた。余計なお世話だと思うほど、テニス部に関しては見晴らしがよかった。夏場はその窓をあけて、グラウンド中に聞こえるようにと歌わされることもあった。時には独唱のパートを与えられて、窓の外に向かって、その声を張り上げて。
恋の歌でなかったことが、せめてもの救いだった。

するりと伸びてくる指が思考と視界を横切る。それがチョコへと届いてしまう前に、は強引に蓋を閉じた。
「はいストップ。もう少ししたら山ほどチョコもらうでしょ」
去年のように。
人気があることは知っているつもりだった。が、それはあくまでつもりであって、認識としては薄かったのかも知れない。目に見える形となって人は初めて実感に至るのだ。
当日、本人不在の机に置かれたチョコの数はおびただしく、怖気づいたというよりもただ単純にびっくりして、びっくりして、本当にびっくりして。気が付いたらびっくりしたままは何故か部室にたどり着いていた。
軽い気持ちで近所の店に足を運んだら、とんでもない行列ができていた時の衝撃に似ている。と思うがどうだろう。
不本意を示すように、柳の眉がわずか動いた。
「山ほどとはずいぶんな誇張だ。それに今年、もらえる保証などない」
「何をぬけぬけと……」
「嘘をついても仕方ないだろう。事実、去年のチョコはひとつも口にしていないぞ」
えっ、と思わず柳を見遣る。問いただすにも似た目つきに、柳はその広い肩をすくめてみせた。
「名前付きのものは、申し訳ないが返却した。もらったところでお返しなど出来やしないからな。ましてや義理でないならいよいよ受け取れない」
淡々とした声は正論を語る。安堵とひやりとしたもの、両方をは感じた。
柳のやり方は、少しばかり残酷なようだが誠実でもある。相手に期待を抱かせない、思わせぶりな余白もない。
その裁きを免れた、免れてしまったチョコレートは、溶けることも放り捨てられることもなく、のうのうと時を経た。冷蔵庫の中とはいえ、一年も無下に扱われていたのだ。いくらか劣化していると思われた風味は、店頭で試食した時とまるで変わらないまま。
はつとめて平坦な調子で言った。
「それはご苦労さまだったね」
「ああ。無記名のものは返しようがないから部室に運んだがな」
柳はもう完全に、抱えていたはずの本を手放していた。体こそ机に向いているけれど、その視線が表紙の上を滑ることはない。
いつの間にかから取り上げた、濃紺の包み紙に注がれている。紙というより布に近い質感のそれは、広げられても音一つ立てない。
「その中に、この包みと同じ形状のものは見当たらなかったと思うが」
柳の眼差しがゆっくり手元から離れて、を見た。
「一応確認したい。去年、は俺に寄越さなかったな?」
「……へ? う、うん」
寄越したかったが、寄越せなかったというのが正解だ。真実を掠る問いに動揺する一方、すごいことを聞くなと呆気に取られもしていた。柳はどこかほっとした気配をにじませて。
「ならいい。食い意地の張った部員のひとりが止める間もなく、みんな食い散らかしてしまってな。それだけが少し気がかりだった」
瞬きも息継ぎも、反応らしい反応がみんな遅れてしまったせいで、何が? とは尋ねる機会を逸してしまった。確かに言葉の上辺はこの耳で聞き取れたものの、含まれているだろう真意はすぐには見えない。
柳の目線はもうにはなく、追うのは夕暮れを待つ土埃だ。
グラウンドに飛ぶ歓声が一際大きくなり、厚い窓枠を越えて響いた。
野球部の声はよく通るな、と柳が呟いた。はそうだねとぼんやり応える。
日焼けの遠くなった、長い指がガラス窓をこつんと叩いた。

――は知らないだろうが
「コートにいると、の声がよく聞こえてきた。あれだけ大勢の声がするのに不思議だな」

はもう、何かを尋ねる気にもならなかった。足元を脅かしていた底冷えなど今や嘘のように感覚がない。

音楽室からはよく見えた。本当によく見えたから、探す必要もないほど簡単に目で追うことができた。慌てて冷蔵庫に押し込めて、いっとき奥に追いやった気になっても、なんの意味も成さなかった。閉じ込めたチョコレートの味は変わらない。風化しない。それどころか、むしろ。

好きなだけ食えと言わんばかりに机を滑ってきたチョコレートに、颯爽と手を伸ばす音がする。
いかにもバレンタインの装飾が、何を意味するか解さない柳ではない。何故自分の口に合う甘味なのか、察せないような柳ではない。
受け取らないはずの柳が、何故それを欲しがるのか気付かないほど鈍感ではない。
撫でるような試すような声が、の鼓膜をくすぐった。
「……今年はもらえると思うか?」
「……知らないよ」
突っ伏した腕の中でそう答えるのが精一杯だった。