蝶 に も 勝 る |
話が長いのはそれだけで罪だ。聞き手が選択の自由を持たず、直立不動を強いられている状況であるなら尚更。学校長様のありがたいお言葉という名の修行が開始されてから、もうどのくらい経っただろう。 朝礼って絶対一人は倒れる奴いるよな。 どこからともなく苦笑いの混じった囁き声。いますねえ必ずいます。 それは私です。 「ぶっ倒れたんだってな」 しばしの眠りが去り、世界の幕が開いた途端、五月の空と同じ色をした目が私を出迎えた。意識が薄ぼんやりしていたせいで声こそ上げずに済んだが、身震いした心臓の悲鳴を確かにこの耳で聞いた。 この弱り切っているさなか、あまり拝みたい顔ではない。 誰ですかこの者を我が枕元に近付けたのは。ちっとも安らかに休めません。 少しでも身を隠そうと、洗濯のりが利いた掛け布団を引っ張り上げたが、顔の手前で遮られてしまった。 「目が覚めたんだろ。潜ってどうする」 どうするかは、せめて潜ってから考えたかった。 どうせ抵抗したところで相手が悪い。早々に観念して、私はのろのろと伏せていた瞼を持ち上げることにした。気位の高い王に、面を上げることを許された侍女その一にも似た感覚。ただし王の眼差しは存外優しい。 「跡部、授業は?」 「わざわざサボってまで来るかよ。休み時間だ」 逆に言えば、貴重な休み時間を割いてまでわざわざ出向いたという風にも受け取れる。たかが様子を見に来た程度で、うぬぼれるなと嘲笑うなかれ。 聡いとは言い難い頭の出来には違いないけれど、だからといって思考回路もおめでたいとは限らない。スター性の塊みたいな麗人が顔を出したとしても、ただの級友への気遣いと処理できるくらいの分別と冷静さは私にだってある。 ええ、はい。『ただの級友』なら。 「まだ寝てろ。どうせ次は自習だ」 起きようとした気配を見逃すことなく、跡部は静かに私を制した。無理に授業に出ようとは思っていなかったが、そう聞くと気が楽になる。 「じゃあもうちょっと寝てようかな……」 持ち上げかけた背を再びシーツに預けると、ああそうしろと跡部は切れ長の目を柔らかく細めた。心臓に悪い。私は再び頭から布団をかぶりたい衝動に襲われた。 あの、跡部さんは果たしていつまでここにいるつもりなのでしょうか。 「それにしてもらしくねえ。貧血かよ」 怪訝そうにその眉がしなる。 ろくに風邪も引かずもらわず、二年連続皆勤賞の誉に預かるこの私が、か弱い乙女にだけ許された朝礼でばったりポジションを奪う形になったのが、跡部にはどうも不可解らしい。確かにらしくない。らしくないのは誰のせいだ。 私は出来る限り自然に、傍らの存在から目線を逸らした。 「……このところ寝不足気味で」 保健室の天井を一心に見つめるよう努めていたので、彼がどんな顔を浮かべたのかはわからない。返事は一拍遅れてやってきた。 「寝不足、ねえ。悩み事なら聞いてやるぜ」 それが果たして跡部による罠だったのか否か。 どちらにせよ天井に貼り付けておくつもりだった私の視線はあっさり外れ、抗議の意思とともに引き戻された。 まるで私がそうするのを見越していたように、ベッド脇のパイプに腕をからめて。 艶と茶目っ気を端に潜ませた、意地の悪い微笑みが見下ろしていた。 「それとも、俺にだけは相談できない話だったか?」 ああこの野郎。 歯を食いしばりながらも私は顔色が赤に占められていくのを止められなかった。 あれはやっぱり夢じゃなかった。 彼氏との会話に夢中になるあまり、そのまま玄関から出て行った友人に、靴を履き替えろと警告すべく追いかけた私の足元もまた上履きだった。もしかして携帯で知らせれば良い話だったのでは……と気付いたのは玄関に戻った頃。しかも結構な距離を走ったせいで、上履きの裏は軽く払った程度では済まない泥と埃がしっかりと。一体いつから見ていたのか、こそこそと背を丸めて靴裏をぬぐっている私の背後に、音もなく跡部が立っていた。テニス部のユニフォームを身に纏い、馬鹿にするでもなく、世間話をするわけでもなく。 振り向いた私が声を出す前に、不敵とは違う種類の笑みで満たされたその口元が、動いた。 「どうやら覚えてたらしいな。安心したぜ」 いたく素直な反応を示した私の未熟さを跡部はお気に召したらしい。見透かしたような口調で人を散々に突く。そっとしておいて欲しいのは態度でわかるだろうに、なんといういじめっこだ。 あれから一週間、おかげで私はまともに熟睡していない。考えないように底へ押しやっているのに寝返りを打つたび、やあやあと断りもなく顔を出してくる。 あれをどうやって記憶から遠ざけられるのか。 「忘れる方法があったらむしろ教えて欲しい」 「知ってても誰が教えるかよバカ。忘れられてたまるか」 読みの冴えない寝不足が捻りだした可能性は二つ。からかい半分の軽いジョーク、がひとつ。もう一つは、言葉以上の深い意味はなく、単なる私の早合点。 しかし跡部が悪ふざけでそんな言葉を扱う軽薄な人間ではないことはよく知っているし、後者については、跡部本人の言動によって、いま打ち消された。 「まさか本気だったとは」 「軽々しく言うような男に見えんのか」 「見えない」 だろうな、と答えた声はどこか満足げで、見る勇気はないけれど、美しい豹の目元がわずか緩む様は容易に想像できた。鋭い牙と爪は剥き出しにせず、けれど毅然と威嚇することを忘れない優雅な獣を前に、噛みつこうとする身の程知らずはそういない。絞りだす言葉は自然と言い訳がましく。 「あのあと跡部フツーだったから、なかったことになってんのかなと思って」 眇めた目には不本意が見えた。柵に腕を預けたまま嘆息して、柔らかそうな金髪をかきあげる。 「すぐには理解できねえかと思って時間やったんだよ」 あなたにね、あんなこと言われたらそりゃ誰だってたまげるし自分を見失うし浮つくしのんきに寝られなくもなりますよね。跡部様ですからね、天下の。 跡部様なんて呼んだためし一度もないけど。 「あの時、お前変な顔してたし」 「し、してないし」 「してたし。落雷に固まるホーランドロップイヤーみてえなてえなツラだったし」 「いやピンと来ないし」 「ウサギ飼ったことねえのか?」 「なんでウサギ?」 「物知らずだな。垂れ耳のウサギの事だ」 「ほーらんろ……?」 「ホーランロじゃない。ホーランド、ロップイヤー」 「ほーらんど、ろっぷいやー」 清潔な空間で響く、間抜けな自分の声。 それを追いかけて始業の鐘が鳴った。跡部は教室に戻る素振りを見せるどころか身じろぎひとつしなかった。 「…………跡部はさあ、何が良かったの」 唐突に疑問の氷塊が溶けだし始めて、押し流されるように両手で顔を覆った。 「わたし学園祭の劇で、蝉の抜け殻役だったんだよ?」 蝉ですらないんだよ? 視界を塞ぐ掌を隔てて、喉の奥で笑う気配。それから触れる感触が額におりた。跡部の指が絡んだ髪をすくい取ったのだと知った。 「そんなの知ってる。いまさら何だ」 「いやだって蝉の抜け殻だよ? 華やかさの欠片もない役回りを演じるような女だよ?」 「お前まんざらでもなく一生懸命やってたろ」 どうせやるならと衣装から役作りから、一つも手を抜かずに徹底的に準備して、何度も練習して、生き生きしすぎる抜けがらとして時折駄目だしを食らいながら改良に改良を重ね、当日非の打ちどころのない抜けがらとして役を全うした。みんなが誉めてくれたのが嬉しかった。 「うんすごく楽しかった……」 甦る充実感につい掌のガードが崩れ、青い色と目が合った。正確に言うと、跡部が強引に視界に食い込んできて、目を合わせてきた。 ああ、その笑い方には見覚えがある。 唇がいつかと同じ形に動いた。 「お前の、そういうところが好きだ」 油断をつかれて二度目の爆撃投下。 咄嗟に、被害を最小限に食い止めようと再び掌で顔面を守った。殺す気か。確かに体は丈夫な方だけれどハートはまさに蝉の抜け殻。力を入れるとぐしゃりと潰れる。 当然、抜けがらはほんの脇役でしかなく、劇の中心は蝶だった。美貌の余韻を思わせる鱗粉を振りまき、舞台のスポットライトを独占するにふさわしい美しさ。聞いた噂が確かなら、客を魅了した蝶役の女子は、かつて跡部に交際を申し込み、儚くも破れている。 「こう言っちゃなんだけど、跡部さんはあんまり趣味が良くないですね」 抜け殻に悔いはない。けれど選ぶ側に回れば、アゲハ蝶を見逃して、蝉の抜け殻に飛びつかないだろう普通。 しかし私に返って来たのは、へえ?と芝居がかった大袈裟な驚きよう。面白がってることは、声の感じで伝わる。 「興味深い話だが同意はできねえ。顔と趣味はいい方だっていう自覚はあるんでな」 それから頭と運動神経も、だな。 自分で付け加えるあたり、単なる自信家という次元を通り越しているが、事実なので訂正のしようもない。おっしゃる通り、顔も頭も運動神経も家柄も声も一級品。難ありと囁かれる言動だって、本当にイカレていたら誰も彼には従うまい。 知っていますわかっています。君がどんなに魅力的か。だからその分、ただの興味を越えた感情が私に向いているというのがにわかに信じられないのです。 「たぶん私が男でも、蝶を取ると思うよ」 「ハッ、男のお前とはどうも意見が合わねえようだな。もっと見る目養えよ。蝉には蝉の良さがあるだろ」 「蝉っていうか抜けがら」 「この際どっちでもいい」 ぎし、とかけられた重さを訴えて柵のパイプが軋む。 「考える猶予は充分与えたな? そろそろ時間切れだ」 寝ずに出した結論を聞かせてもらおうか。 一段低い声がして、器用に隠していた獣の爪が露わになった。傷を付けるつもりはさらさらないようだが、それで撫でられる方は、覚悟を迫られる。 結論なんて考えるまでもない。 枕に頭を預けた数秒後には寝息を立てるくらい寝つきの良い私が眠れない夜を過ごした。信じられない事に七日間も。深く沈めても沈めても耳にこびりついて離れない。 ――― そういうところが好きだ。 ――― そういうところだけじゃねえけどな。 「あああ」 いくら掌で両目を塞いでも、居座る記憶が勝手に復唱を続ける。恥ずかしさに耐えられず飛び上がるように体を起こした。目を開き、両手から顔を解放したところで、事態が好転するはずがない。むしろ起きた体は、意図せず跡部との距離を近しくした。 「腹くくったか?」 喉元に宛がわれた爪と牙はおののくほど甘かった。 鋭利な美貌に似つかわしくない、優しげで物柔らかな色合いが早く来いと手招きしている。充分に距離を詰めて、抱きこむように囲い込んで、私から近付くのを待っている。 他の誰でもなく、自分の為だけにこの微笑みが用意されているなら、逃がしてもらえるわけがなかった。 たぶん、いま私は、過去最高に照れ臭さや居たたまれなさが顔中に散らかって、どうしようもなく崩れている。眉は八の字を描き、顔色も赤なのか青なのか、入り混じってまとまりそうもない。体裁を整えるのを諦めてぐちゃぐちゃなまま、それでも精一杯笑うと、跡部の手が私の寝癖を引っ張った。目の前にいくつも垂れさがる不規則な髪の束が、その乱れようを物語っていた。 「髪がひどい」 「髪以外もな」 「跡部がひどい」 「事実を言ったまでだ」 「……返品ききませんよ」 色々ひどい欠陥品でも、と口をとがらすと、くくっと楽しそうな音がもれる。 「誇れよ。俺の目に止まった時点でとびきりだ」 その高飛車な口ぶりとはあべこべに、細められた目が一層なだらかに傾いた。 |