重ねて揃えてホッチキスで留める。
重ねて揃えてホッチキスで留める。
重ねて揃えてホッチキスで留める。
単調な作業を生真面目に繰り返して繰り返して、出来上がった冊子はようやく50部になった。向かいで同じように重ねて揃えてホッチキスで留め続けている滝先輩のものと合わせると、部員の約半数分になる。予備と顧問やその他関係者の分を含めても230部もあれば充分だろう。
あと半分と少し。そう思うと知らず知らずに溜息が出ていた。
残されたノルマにうんざりしたわけでもなければ、とっくに帰宅しているであろう時刻にこうして部室に閉じこもっているせいでもない。
本来部活がないはずの水曜日に何故私がこのようにせっせと業務に打ち込んでいるというと、明日全部員に配布する予定の資料内容に急遽修正が加えられたからである。そして作り直しについて跡部部長と滝先輩が話し合っている場面に、たまたま私が出くわしてしまったからである。ちょうどいい時に会ったなと含み笑いをされたのである。
そういうわけで私たちは今、紙に触れるたび皮脂をすいとられ手をカサカサにしながらも健気に部のため皆のため頑張っている。ちなみに部長は会議があるからと開始三分も経たずに消えた。
マネージャーの私は仕方ないとしても、腐るほど在籍している後輩にいくらでも押し付けられる立場にありながら、嫌な顔ひとつ見せることなく進んで居残りに応じる滝先輩は菩薩のようだと思う。
積み上げられた紙の山は計七つ。それに手を伸ばす振りをして、地道な作業に勤しむ菩薩を盗み見ようとしたら目が合った。
微笑まれてしまったので、赤くならないよう私も精一杯微笑んだ。

どこに行っても人目を引きまくる歩くミラーボール(跡部部長)ほどではないものの、実は滝先輩は噂が多い人である。
部長の場合、庭でホワイトタイガーを飼っているだの自家用ジェットで登校してきただのと度肝の抜き合戦のような噂がほとんどなのに対して、滝先輩は美人の姉さんがいるとか、お母さんが野菜のソムリエだとか、カップソーサーに文房具、靴下に至るまで身に付けてるものはイタリア製であるなど、そのまま鵜呑みにしてもおかしくない程度に現実的で、なおかつ優雅な噂ばかりだ。
自分から語ろうとしないミステリアスな印象がそういう噂を呼び寄せるのだろうが、特に秘密主義というわけでもないらしく、聞けばあっけないほどすんなり答えてくれる。
お姉さんは美人かどうかわからないけど顔は似てるらしく(なので美人に違いない)、野菜のソムリエは調理師免許の誤りで、イタリア製うんぬんに関してはいつだか滝先輩は笑いながらこれコンビニだよと使っていたボールペンを振って見せた。
「疲れた?」
「ちょっとだけ」
「もう帰りてーとか思ってる?」
「お、思ってませんよ」
「じゃ、あれだ。おなかすいたーとか思ってる」
「まあそれは思ってますけど」
滝先輩はやっぱりねという具合に頷いた後、「甘いものでも食べようか」とおやつ倉庫と呼ばれている空きロッカーの中を漁り、見るからに上等そうな箱に詰められたチョコレートを持って来た。先輩が言うには、世界的に有名なジャンだかジョンだかいうショコラティエが手がけたもので、監督のヨーロッパ土産らしい。正直ショコラティエとはなんのことやらさっぱりだが、そうそう口に入るような代物ではないのはすぐにわかった。
「いいんですか勝手に食べちゃって」
「いいんじゃない、おやつ倉庫に入ってたんだし」
レギュラー準レギュラーの共同の食料庫となっているおやつ倉庫は、めいめい持ち寄ったエネルギーの素でいつもいっぱいになっている。基本的に無法地帯なので、名前を書いておかないとあっという間に食われる。名前を書いても食われる。
「美味しいよ」
ためらいなく先輩がひょいと口に入れるのを見て、私もチョコレートを口に放り込んだ。びっくりした。魔法のようにうまい。間髪入れず次のチョコレートに手を伸ばしたら、ほらねと笑われた。そういう先輩はすでに三つ目を手にとっていた。

向こう十年分の贅沢を味わった後も、作業は地道に続いていく。あと半分。もう半分。たった半分。むしろこの地道な作業こそが、蕩けるような口の中よりも私にとってはよほど贅沢だった。
終るまで帰るなよ。去り際に部長は言い残した。
つまり終らなければ帰らなくてもいいということになる。
普段からは考えられない几帳面さで七枚の四つ角を整える。曲がらないよう仕損じないよう、丁寧に丁寧にホッチキスを打つ。なるべくゆっくりと、でもわざとらしくない程度の早さで冊子を完成させてゆく。姑息なことを、と我ながら思う。
やる気になれば、こんなに時間をかけずとも今の3倍のスピードで片付けられる、その程度の作業だ。でもそれではあまりに勿体無い、一秒でもいいから、長くこのひとときを引きとめておきたい。延滞金を払えといなら払おう、いくらでも払ってやる。ああ払うとも。本当に払ってどうにでもなるのなら。
必要以上の力でもってホッチキスを握りつぶした。バチンと音を立てて銀色の芯が用紙を突き破る。

その噂は前々から何度も耳に押し入ってきた。
『滝先輩はたいそう美しい年上の女性と付き合っているらしい』
仲むつまじい様子で街中を歩いている姿を、B組の本田さんだか吉田さんだかが見たのだそうだ。本当なのか本田さん。もしくは、本当なのか吉田さん。見間違いということはないのか本田さん、はたまた吉田さん。本田さんなのか吉田さんなのかどっちなんだ。いやいい、この際どっちでもいい。
そんな本田さんだか吉田さんだかすらはっきりしない目撃者の情報に頼るより、本人に直接聞くほうがよほど手っ取り早いということぐらい、私にだって充分よくわかっている。だけれど人というのは弱いもので、わかっていることと出来ることとはまた別なのだ。
いつもの調子で聞いてしまおうか。お昼なに食べましたかとでも言う気軽さで口に出してしまおうか。
恐らくどんな返事が返ってきても全て同じように「そうなんですか」と答えられるんじゃないかと思う。ただ、所詮は私も人の子なので声のトーンに大きな差が出るのは避けられない。
滝先輩が噂を否定すれば私の「そうなんですか」はやたらとエネルギッシュな発声だろうし、逆に肯定するものであれば夜の樹海よりまだ陰気な「そうなんですか」が吐き出されることだろう。
知りたい知りたくない白黒つけたい曖昧でいい
細い一本道を往生際悪く行ったり来たり進んだり戻ったり、踏み出した途端に臆病風にふかれて引き返す。
興味や関心は他のどの噂とは比較できないほど強いはずなのに、いつも結局私の口はホッチキスで閉じられて毎度その問いを封じた。バチン。
「あのさ」
静かに話しかけられて私は手を止めた。滝先輩はそのまま休むことなく、ゆったりとした手つきで冊子の端を二箇所閉じた。パチンパチンと音を鳴らしていると、爪でも切っているようだ。
「聞きたいことあるんだけど」
ようやく滝先輩は私を見た。
「高等部に彼氏いるって本当?」
「は」
さんと連れ立って歩いてるの、見かけたって」
目が点になった。
当然だが私に彼氏などいない。もしもいたら、どうしてこんなところでホッチキス片手に焦れていようか。
人の噂に振り回されるだけでなく、まさか逆に噂の種をまく側になるとは。まさに知らぬは本人ばかりなり。どうも噂というやつは、当人の耳には届かないように出来ているらしい。そして考えている以上に、人は誰かに見られているものらしい。
「それ、兄です」
「え?」
「いま2年で、高等部通ってるんです」
この前帰り道に行き会って一緒に帰ったところでも見られていたに違いない。誤解とはいえそんな噂を立てられたと知ったら、兄はさぞや嫌な顔をするだろう。お互い様だ、私も迷惑だ。台風がふたつみっつまとめて上陸したとしても、兄妹で相合傘なんて真似は金輪際するまい。
「なんだそうか」
体中の空気が抜けてゆくような大きな大きな息。それが全て吐き出された後、滝先輩の顔がぱかりと壊れた。あの艶然とした微笑みではない。
「ずっとね、聞きたかったんだ」
今日やっと聞けたよ。
滝先輩は隙だらけで笑った。
チョコレートの魔法がまだこの目に残っているのだろうか、私にはその顔が力が抜けたように見える、照れくさそうに見える、心から安堵しているように見える、まるで勇気を出し切ったあとのように見える。
気のせいかも知れない。気のせいじゃないかも知れない。どうせなら気のせいじゃない方にかけたい。
正面切って近付いてくる幸せの気配に、怯えて浮ついて心臓が踊り狂っている。
手の中でパチンと音が鳴り、空を噛んだホッチキスが潰れた芯を吐き出した。

「先輩、私も聞きたいことがあるんです」