「芥川慈郎選手、もう時間がありません」 未だ鋭く攻める日差しを避けて机にかじりついていた慈郎は、眠りから引っ張り出されたようにうずめていた顔を上げた。 版画かと見紛うほど完璧に方程式が額に映っている。見れば頬、目の下、瞼、まんべんなく顔中に数字が舞っていた。 放課後の校舎、耳なし芳一現る。 「一人ぼっちは可哀想だからと残ってくれた選手の好意を台無しにする気なのか芥川選手ー」 棒読みかつ事務的な響きを含んだの声に応えるようにして、よだれを拭った慈郎が再びその手にペンを持った。一瞬きりりと引き締めた目元は、気を抜くとすぐにでもしぼみそうに危うい。さっきからずっと目覚めては意識を失いまた目覚めて机に向かうを慈郎は飽くことなく繰り返していた。 おかげで埋めるべき解答欄の半分は白紙のまま残っている。 本来五日前に締め切られたはずの数学のプリント。 慈郎はその人柄(チャームを)惜しげもなく発揮して教師の心を転がすだけ転がし、今日の放課後まで期限を引き延ばすことに成功した。 「5秒前」 ぬるい温度の窓枠に肘を預けたままはカウントを開始した。教室の掛け時計の秒針が一秒一秒几帳面に刻んでゆく。 4、 3、 2、 1 「はいここで試合終りょ」 「しかし終了の笛は鳴らなかったー」 ごりごりとシャープを動かしながら慈郎はのエアホイッスルを静かに阻止した。 「なんでだよ鳴るよ」 「何故ならばロスタイムがあるからです」 「ちくしょうロスタイムか。何分あるんですか」 「20分」 「な、なにいーロスタイムにあるまじき長さ!その試合一体何が」 「犬がピッチに乱入したり、選手が敵チームを罵ったり、罵られた選手がキレて頭突きしたりした」 「大荒れだ」 「そう大荒れ。だから20分待ってて」 「よくわかんないけどわかった」 真面目くさった顔で頷いてはまた窓枠にもたれかかった。 20分が2時間になってもが自分を置き去りにしないことを慈郎は知っている。慈郎が自分を引き止める理由が一人で居残りする寂しさでないことをは知っている。 背丈に見合わない手強そうな拳。 その日焼けした肌に散らばった火傷の跡をひとつふたつとは視線で数えた。 暑いという言葉をいくつ並べてもまだ足らない、みんなで跡部の家に押しかけて勝手に花火大会を開催した真夏の夜。 打ち上げ系をいっぺんに点火した岳人が宍戸にキレられ、忍足は線香花火を極めんとし、滝がやけに虫除けスプレーを噴射する中、面倒そうなポーズを取っていたものの誰がどう見てもノリノリだった跡部。その跡部が投げたねずみ花火に湿気たのが混じっていて、拾おうとした慈郎を時間差で火花が襲った。不意打ちの破裂音に全員どこぞの部族のごとく垂直に飛び上がった。 その頃すでにハイテンションとなっていた慈郎はあちいー!とわめきながらも爆笑した。跡が残るかも知れないと眉をしかめるに、跡部庭園の噴水に手を突っ込まれながら夏の思い出じゃんと慈郎はまだ笑っていた。 「夏もロスタイムがあればいいのにね」 夏休みは終ってしまった。 うだるような暑さと寝苦しい夜。温風を生む扇風機。うたた寝で寝汗。陽炎。蝉の合唱。追いつかない製氷機。 少しずつ衰えて、気付かないうちになりを潜めて、人知れず終了のホイッスルは吹かれたんだと思う。 未だクーラーはフル稼働し、夕飯は三日に一度素麺が出され、相変わらず風鈴を鳴らす風に涼はないけれど、前より空が高く見えるようになった。空が離れてゆくごとに日暮れは近くなってゆく。 夏は老いた。 我が物顔で夏が熱帯夜を運んできたように、秋が枯葉を連れて来るのはいつだろうか。 あの花火の夜を思い出すように、この放課後の瞬間を懐かしく思う日がいつか来るのだろうか。 「、帰ろ」 突然慈郎が飛び跳ねるような勢いで立ち上がったので、は後ろにひっくり返りそうになった。 「え、終ったの」 ジャジャーンと慈郎が掲げて見せたプリントは正解率はどうかわからないが、全部真面目に埋められていた。 「寄り道していこ」 弁当とジャンプしか入っていないリュックを軽々と猫背に引っ掛けて、慈郎はすぐに振り返った。 「そんでハーゲンダッツ食べながら帰ろ」 「ワオ豪勢」 「跡部のおごりで」 「ワーオ人の懐」 「生徒会顔出すって言ってたからまだ残ってるはずだCー」 急かすように火傷の右手に腕を取られて、引かれるがまま立ち上がる。腕を引いた手はするすると自然に下へ降りて手の平を握ったところで止まった。 なに味にしよっかな、と歩き出す金の髪が夏の名残の風に煽られて揺れる。 バニラ抹茶ストロベリーラムレーズン期間限定メープルクッキー。 歌うような慈郎の声に誘われて、も食べたいフレーバーを思いつく端から口に出して並べた。 夕焼けはまだ来ない。落ち葉の絨毯はまだ遠い。慈郎の顔はまだ芳一。 「跡部おごってくれるかなあ」 「あー火傷のあとが疼くぅーってたかれば多分オッケー」 「んまあ慈郎さんワルねえー」 繋いだ手を振り回しながら、と慈郎は夏が終る前に教室を出た。 |