高く響かぬよう足音に気を配りながら、自分の歩調に従ってコンクリートのタイルを踏み続ける。日暮れが近い。静寂と呼ぶには落ち着きが足りず、騒々しいと言うにはいささか大人しめの通い慣れた道は、今日もなんの変哲もなく、車が行き交い、自転車が走り抜け、犬の散歩が通り過ぎる。
私が足を進めるたびに後ろへと流れていく風景の中で、あの背中との間隔だけは縮まることなく視界の中心におさまっていた。誰が見てなくとも背筋の伸びた、どこか品の漂う後ろ姿。だらだらとは歩かない。靴のかかとを踏むなんて真似、彼は一度だってしたことはないだろう。
校門から追い続けているかの姿が視界から消えるのは、踏切りを越えた最後の交差点だ。滝は必ずそこで右へ曲がる。
横断歩道二つ分ほどの距離を隔てて、背中が夕焼けの街に吸い込まれていく。
私はいつも、ただそれを見送っていた。


吾輩はストーカーではない。前科はまだない。
たぶん。いや絶対ない。断じて違う。そう思いたい。
ストーカーとは待ち伏せしたり執拗につきまとったり、望まない接触を図っては対象に精神的苦痛を与える者を指す。強すぎる執着ゆえ行動がエスカレートしやすく、結果、口にするのも憚られるような嫌がらせに走る傾向がみられ、刑事事件に発展することも少なくない、らしい。
軽い気持ちから調べた先で目にした壮絶な前例の数々に絶句した私は、もしやという己へのわずかな疑念を全力を持って吹き飛ばした。むしろストーカー、ダメ、絶対と確固たる思いを胸に刻むばかりである。
違う違う自分は違う。こんな空恐ろしい分類に仕分けられてたまるか。
決して私は、情熱を履き違えた怖い手紙を送りつけたり、無言電話をかけたり、勝手に家の前で待っておかえり等と出迎える行為には及んでいない。そうしたいという願望も一切ない。ただ行動例のひとつである「後をつける」を眼前に突きつけられると全面否定することができず、ぐっと答えに詰まってしまう。
故意ではない。意識して後をつけたためしなどない。たまたま、そう、たまたま帰り道が。通るルートが同じなだけだ。紛れもない真実で、偽りは一点もないはずなのに、言い訳めいた弁護を繰り広げてしまうのは何故だろうか。


私は髪を逆立てつつ息を呑んだ。どこか後ろめたい思考を掘り起こしているさなか、更に声をかけてきたのが渦中ともいえる人物となれば慄かないわけもない。振り向くまでの間にそれをしまい込み、早業で平静を装った。
「暑さにやられた?顔色があんまり良くないよ」
木陰で座りこんでいる私を心配そうに覗きこむ顔が見えた。顔色が怪しいのはたった今心臓に悪い現象が起こったからですよとは言えず、曖昧に笑う。
「や、大丈夫。コート入れ替えになったから休憩してるだけ」
そう、と滝は少し目を細めて頷いた。
「ならいいけど。朝練の日は無理しない方がいいよ」
早朝トレーニングの曜日は決まっており、本来ならばそれは明日だったのだが、都合により急きょ今朝行われた。普段のリズムに身体が慣れている分、確かに感覚が狂う。
「男子も朝練だったの?」
「いやこっちは従来通り」
それにしては話が早い、誰かに聞いたのかなとぼんやり思いながら見上げると、なに?という風に笑みを返された。
相変わらず繊細で綺麗な顔立ちをしている。不自然にならない程度に視線をずらしながら、今日も暑いね、と言うと、だね、といくらか高い位置から声が降った。と、同時に刺すほどの冷たさが額に触れて、前置きのない刺激に私は思わず「ヒィアェッ」と不思議な鳴き声を発してしまった。
「まだしばらく暑い日が続くから用心しなよ」
滝は笑いながら男子テニス部のコートへ歩いて行く。額に手を伸ばすと、がちがちに凍てついた保冷剤が乗っていた。
私は虚弱と言うほどではないけれど、胸を張って健康に自信があると宣言できる人種でもない。人の風邪は律義にもらうし、旅行から帰れば決まって熱を出すし、よく朝礼で倒れては周囲に迷惑をかける。中でも夏の暑さはてんで駄目で、焼け焦げるような炎天下やミストサウナにも似た蒸し暑さに、これまでことごとく討ち取られてきた。
そもそも、男子には敵わないが決して楽ではないと噂されていた女子テニス部の門を叩いたのも、鍛えれば少しは丈夫になるのでは、という淡い期待からである。へろへろになりながらも辞めることなくしぶとく居座り続けたおかげで筋肉と日焼けはそこそこ身に付いたものの、残念ながら根本的な弱さの解決にはならなかったようで、未だに暑さへの耐性は人並み以下だ。
それでも入りたての頃に比べれば、ずっとましになった。ろくな運動の経験もなかった私は今より更に貧弱で、しょっちゅう体力の限界を迎えては、頭を冷やしながらひっくり返っていた。
クラスメイトのよしみか、当時同じく一年坊だった滝はのびている私を案じて、冷たく絞ったタオルや飲み物を差し入れてくれた。厳しくも過酷な組織で這いあがらんとする者同士、仲間意識を感じていたのかも知れない。黒酢がいいらしいよ、とか、養命酒飲んでみたら等、彼が十代の輝きとは縁遠いアドバイスを何度か授けてくれた過去を懐かしくも思い出す。
その時の印象が強いのだろう。クラスが離れた今でも、滝は昔と同じように、私がこの木陰で休んでいると時々様子を見にやって来る。自分にストーカーをはたらいている相手とも知らずに。あ、いやだから違う。ストーカーではない。ノー。ストーカーノー。アイドントノウ、ストーカー。デッドオアストーカー。英語は苦手なので英訳が正しいかどうかは関知しない。



バッグを背負いながら部室を出た私の前にあったのは、見覚えのある後ろ姿だった。さらさらのストレートヘアは同じだが、やや低めの背丈と着崩したシャツ。目で追い続けた背中ではない。私は迷わず声をかけた。
背後から名前を叫ばれた向日は、少し驚きつつ振り向いて、目があった途端におーと無邪気に手を振った。
「今日男子もう終わり?早いね珍しく」
「このあと滝と跡部が、領収書?請求書?よくわかんねーけど整理するんだとよ。んで早めに切り上げた」
へえ、と返事しながら、滝は遅くなるんだなと頭の片隅に浮かぶ。続けて今日はあの背中を追えないと繋がり、これこそがストーカー思考の見本のような気がして少しげんなりした。
そうだ、と気を取り直すように張りのある声を出して、鞄の中に入れっぱなしだった一本のボールペンを隣を歩く向日に押しつけた。なにこれという顔で私を見る。
「この前ミーティングルームに落ちてた。こっちで確認したけど持ち主いなかったから、男子部の誰かのじゃない?」
向日は手にしたボールペンをまじまじと眺めた。
「あーなんかみたことあるような」
手のひらにおさめるとずしりと重みのあるそれは、黒い光沢を身にまとっている。細々とした街灯を受けて、ささやかに存在を示した。
「明日にでも聞いてみて。安物じゃなさそうだし」
りょーかい、と向日は軽く応えつつポケットに押し込もうとしていたので即座に止めた。絶対に落とす。落とすだろ絶対。強く主張すると彼はぶつくさ言いながらも、渋々鞄をあけてしまい始めた。
向日とは席が近い事もあって、親しい友人の一人だ。無神経とは異なる気兼ねのなさが好ましい。実のない会話を交わそうが連れ立って歩こうが、いくらの緊迫感も焦燥もない。だからこうして、何の躊躇いもなく追いかけて隣に並ぶことができる。
親しさだけで言えば、滝だって同じことだ。
私が背を眺めるだけでなく大きな声でその名を呼べば、滝はきっと笑って応えてくれるだろう。決して邪険にはすまい。彼が優しい人間かそうでないかは、これまでの経験から私自身がよく知っている。

一番最初にその姿を目にしたのは、練習メニューが変更になった頃、夏が来る前だ。少し重めのトレーニングが追加されて居残りの機会が増え、自然と男子テニス部と帰宅が重なり始めた。あの日は真夏でもないのに妙に蒸し暑く、太陽が落ちても清々しい風は吹かなかった。星も月も行方をくらましていた空の下、校門を抜けていく背中がぽつんと見えた。
滝だとすぐにわかった。薄暗い帰路に心細さを覚えていたせいもあり、私は嬉しくなって手を上げて呼びかけようとした。が、吸い込んだ息が言葉となって放たれることはなかった。声をかけることができなかったのだ。
厳めしく肩肘が張っているわけでもない、猫背でもない、凛とした立ち姿は普段となんら変わりないのに、なぜか近寄りがたい、目に見えない壁のようなものがあった。私が知っている滝とはどこか違う。彼をとりまく空気に触れてはならないと瞬間的に悟った。
私は駆け寄ることも出来ず、かといって追い抜くなんてもっと出来るわけがなく、気配を殺して後ろをついて行くしかなかった。闇を割いて進む背中を見届けるようにして。
常に近しくあった存在を視界に認めながらも、つかず離れずのよそよそしい距離を保たねばならないのは、寂しいような落ち着かないような、けれどいつまでも見つめていたいような、不思議な気持ちだった。手の届かない道の先を知らない人のように進んでゆく。ただそれだけなのに、目に映る私の興味を全て吸い取ってしまった。

その日、滝がレギュラーから外されたことを、私は後になって知った。
学校やコートで会う滝は少しも変わらなかった。優しくて、穏やかで、微笑んでいた。肩で息をしながら木陰に入っていく私をいつもと同じように気遣ってくれた。その静かな労わりを必要としていたのは、私の方ではなかったのに。
それから何度も滝が帰る姿を見かけては、そっと後を追うようになった。
もうあの夜のように人を遠ざける柔らかな膜が彼を覆ってはいないけれど、交互に浮かぶ遠い背中と綻びのない笑顔が鼓動をまくしたてて、近付くことを許さない。動悸の正体が「友人」としての自責の念や後ろめたさから来るものではない事はもう気付いている。
季節は移り変わろうとしているのに、未だに私はうまく声をかけることが出来ない。



昔から物事に集中すると、まわりの物音に対して恐ろしく疎くなる。その時私は目の前のレポート用紙と格闘することに夢中で、教室に自分以外が存在していると気付いた頃には、すぐそばまで気配が迫っていた。
顔を上げた私と目が合った滝は、何も言わずに小さく笑って、目の前の席に腰を下ろした。紙の上を走っていた手が思わず止まる。今になって思い出したように、しとしとと雨音を五感が拾い始めた。
「暗いよ」
「えっ」
「電気」
「あ、ああ電気ね」
自分が常日頃繰り返している行為を非難されたのかと、一瞬びくりと震えてしまった。後ろ暗い事に手を染めている連中が、警察と見たら反射的に逃げ出す心理と似ている。私は窓際だから大丈夫、と適当に返事をした。
「何書いてるの」
「感想文。滝のクラス出なかった?」
出てないなあと温和な顔立ちが告げる。
私は少し前から、昔のように滝の顔をまっすぐ見れなくなっていた。彼は向き合うと必ず目を見て話す。
もちろんそういう傾向の人間は他にいくらでもいるし、向日あたりも遠慮なく目を合わせてくるが、ぶつけるといった表現がふさわしい実に雑なもので、別段気にもならない。けれど滝は、ひたりと視線を吸いつけるように私の目を見る。その度、奥の引き出しに隠したものまで見透かされるのではないかと、焦りが滲んで落ち着かない。だからこそ私は後ろ姿を見送ることに逃げてしまうのだろう。
「滝はなに、帰らなかったの」
昼過ぎから降りだした雨の勢いは途切れることなく、グラウンドもコートも容赦なく浸した。室内で筋トレという選択肢もあったが、大会も近いので身体を休めることを優先した。
「ちょっとね、出す書類があったから部室でやろうと思ったんだけど雨ひどいし。行くだけで濡れそうだから戻って来た」
そう言って、滝は勝手に私の机に用紙を広げた。スペースを借りるといった控え目さを逸脱した、侵略と呼べる範囲である。ここで作業するつもりらしい。
「わあ、とっても狭い」
「まあまあ。すぐ終わるから」
一応抗議はしてみたものの、追い出す気はさらさらない。それを証拠に、どうぞご自由にとばかりにペンケースを滝の方へと差し出している。
けれど滝は一向に書類に取り組もうとしなかった。筆記用具を手にするでもなく、両手で頬づえをついたまま、私が一文字一文字絞りだすのに苦労する様をただ眺めている。
正面に立たれるまで存在に気付けないほど、神経が太く感覚は鈍い。集中してしまえば、視線を感じようが人の気配があろうが何の障害にもならないはずだった。
だというのに、頭の中に並べた言葉は文章としてまとまるどころか、次から次へと砂の山のように崩れてしまう。次に続く文字を紙面に刻むことがなかなか出来ず、私は傍らに置いたの本の頁をひたすらめくった。
「あんまりはかどってないね。いつ提出なの、それ」
誰のせいだよと心の中で恨み事を吐く。
下を向いたまま「……今日」と答えると、一瞬間が空いて「今日、か」と笑みの混じった声が落ちた。
課題として出されたのはひと月も前の事だったが、期限の余裕が裏目と出たか、先伸ばしにしている内にすっかりと忘れてしまった。昨日クラスメイトとの会話で初めて思い出し、青くなって片づけようとするも、感想どころか本に目も通していない始末。
「きのうの夜、半分までは頑張って読んだんだけど寝ちゃってさ……」
かつん。
ささやかに響く。ペンか何かが机に触れたような硬い音だったので、ようやく滝が仕事を始めたのだと思った。
「なるほどね」
凪いだ風のように滝は云った。
「だからって歩きながら読書は危ないと思うよ」
そこで私はようやく顔を上げた。入れ替わるようにして、今度は滝が下を向いている。身に受ける視線を察しているだろうに、目は書類に落としたままだ。
「朝、の後ろ歩いてたから」
なんで本なんか読んでるのかなって不思議だったんだよね。
ふふ、と滝は笑う。
私は、え、とうろたえる。
「今朝?そうなの?たまたま?」
「大体いつも、かな。朝練の日とか以外」
通学路が重なっているのであれば、登校する道筋も同じだろう。当たり前のことなのに、私は今の今まで考えたこともなかった。
朝は寝起きでぼんやりとしていることが多い。頭もよく回っていない。気付かず寝癖をつけたまま家を出てしまったこともあるし、衣替えを忘れて一人夏服で登校してしまったことも、左右違う靴下だったこともある。それを全部見られていたのかと、ひとつひとつ思い浮かべる度じわじわと顔が赤くなった。
「声かけてくれれば良かったのに………」
「うん、が声かけてくれたら、俺もそうするつもりだったよ」
握っていたシャープの芯が豪快に折れる。いつの間にか顔を上げていた滝の方へと飛んで行った。
私は久しぶりに滝をまっすぐ見た。まっすぐ見ざる得なかった。滝の目も私を見ている。にこやかで物静かだったが、それだけではない何かを潜ませていた。
「し、知って、」
目を白黒させるしかない私の、言葉としては足らない声には答えず、滝はわずか首を傾けた。普段なら、さあ?と意味合いで受け取れるが、今ならば肯定としか見えない。
ふと視線をそらしたかと思えば、独り言のように呟いた。
「俺にはいつ、声かけてくれるのかなって」
書き終わったであろう書類からペンを引き離し、キャップを締める。滝が握っていたのは、あの時向日に託したボールペンだった。
雨は素知らぬ顔で窓ガラスを叩く。
ほんのすこし棘を含んだ気配と穏やかな笑みに怯えて、私はしゃくりあげる子供のように途切れ途切れで息を吐いた。
「あの、違、そうじゃなくて、声は、かけようってずっと思って、たん、だけど、ごめ、ほんと、ごめん。ストーカーで」
自分でも何を言っているのかよくわからない。
取り乱し過ぎてシャープペンシルは転がり、消しゴムは机から転落していった。書きかけのレポート用紙は知らず知らずに手の中で握りつぶされている。
信号機並みに顔色を変えて、べそをかく寸前にまで崩れた私を目にして、滝は少し驚いたように目を丸くした。くるくるとそれまで滝の手の中で回っていたボールペンが、胸ポケットへ投げるように仕舞いこまれる。
「ごめん。意地張り過ぎた」
みるみる内にその表情から棘が落ちてゆく。いつも私を気遣う時と変わりない、ただ困ったような顔だけが残った。
「ストーカーなんて、思ってないよ」
「うう」
「そんなこと言ったら俺も似たようなものだし」
「うう」
「それに、別にいいよストーカーされても。だし」
私は相変わらずまともに声も出せず、沢山の瞬きを言葉の代わりにするしかない。
滝は照れ臭そうに肩をすくめたあと、身をかがませて転がり落ちた消しゴムを拾い上げた。固く閉じられた私の拳をほどいて、手のひらにそれを乗せる。そのままぎゅっと掌ごと握った。
「それ終わったら帰ろうか。一緒に」
私の目を覗いて、滝はくしゃくしゃの笑顔を見せた。