鳳のロッカーからひらりと落ちた一枚を拾い上げたのは向日だった。無遠慮な性格から、なんか落ちたぞと言いながら渡す前に裏返してしっかりと中身に目を落とす。飛び出たのは驚嘆の声。 「おわっ長太郎ちっせえ!」 振り向いた大きな体が焦ったように駆け寄る。 「あっそれは、新聞部が使うとかで、」 弁解とともに伸ばされた手のひらを無視して、向日はその写真を食い入るように見ていた。写っているのは、今よりもずっと幼く、にわかに信じがたいほど華奢で小柄な鳳長太郎。 樺地と並んでテニス部のスカイツリーと囁かれる長身に日々面白くないものを感じている向日にとって、その過去の姿はセンセーショナルだったのだろう。なにもそこまでというくらい過剰に騒ぎ立て、長太郎がこうなるんだから俺も2mくらいになるんじゃね? と儚い夢を見ていた。 その盛り上がりが落ち着くと、彼の注意は横へとスライドした。写真の中には、幼稚舎時代の鳳のほかに、もう一人。 「この美人だれ?」 満面の笑みに並ぶ、風景のごとき静かな面持ち。対照的なのは表情ばかりではなく、真っ直ぐな黒髪と涼しい目鼻立ちが与える鋭利な印象は、鳳の持つ柔和さとはまるでさかさまだ。ゆえに、写真の持ち主の口から出た「姉です」の一言は、向日に二度目の驚きを与えた。マジかと瞠目して、更にじろじろと視線を写真の上に這わせる。 「なんか全然イメージ違った……似てねえんだな」 感想を載せて返されたそれを受け取った鳳は、はにかみながら言った。 「俺は母親似で、姉は父親似なんです」 ね? と同意を求められ、日吉は少しの間をあけてから頷いた。 写真の中の懐かしい顔に、気を取られていたせいだ。 ◇◆◇ 日吉はあまり鳳が好きではなかった。 強くあれ、正しくあれと常日頃手厳しく鍛えられていた日吉から見ると、鳳長太郎という生き物は砂糖菓子のように甘ったるく、ふにゃふにゃとしていて芯を感じられなかった。悪い人間ではないが、おおよそ男らしくない。体も小さく、唯一眉だけはしっかりと自己主張してるものの、ほかのパーツは日吉とは正反対に派手に出来ていて、女子にまじると見分けがつかないような外見をしているのだから、せめて中身くらいしゃんとするべきだと目にするたびに些細な苛立ちを覚えていた。 だからその鳳が泣きべそをかいているのを見たときも、正直「またか」と呆れた。が、その泣きべそを複数が取り囲んでいるとなれば話は別だ。 最初は喧嘩でもしているのかと思った。それなら大いにやればいいし、外野が口を出す何ものもない。けれど見下ろす顔がどれも、判で押したようにニヤニヤと気分の良くない薄ら笑いで、中心にいる奴が時折馬鹿にするような手つきで鳳の頭を小突いていた。おまけに地べたに鳳のものとおぼしきカバンや教科書が散らばっている。喧嘩ならこんな笑い方はしないし、友達ならこんなガラクタみたいな扱いはしない。 割って入ったのは鳳のためじゃない。これは正しくないことだから。 弱い者いじめなんてするような、つまらない連中の拳だ。日吉は全部もれなく受けてやろうかと思ったが、やっぱり痛いものは痛いし腹が立つので、明らかにおお振りの一撃は避けて、取り巻きのお付き合いのような弱々しいパンチを率先して喰らうことにした。 顔を狙わないあたり、馬鹿なりに知恵がまわるらしい。一発顔面を吹っ飛ばしてやれば、大人しくなるのは目に見えていたけれど、古武術は人を傷つける為の道具ではないと耳のたこが出荷できるくらい繰り返し聞かされているから、日吉の両手に託された仕事は、飛んでくる拳を止めることと、同じようにじっと耐えている涙目の鳳をかばうくらいしかなかった。 仕方ないこいつらが飽きるまで付き合うか、と日吉は腹をくくっていたが、案外あっさりと終幕を迎えることとなる。 「何をやってる貴様ら」 小競り合いというには一方的すぎるそれを、ぬっとセーラー服が見下ろしていた。一瞬連中はぎょっとした顔で見上げたが、自分たちより遥かに年上であるものの、大人と呼ぶにはまだ地位が足りない年格好の女と知って、侮った笑みを張り付かせた。 「関係ねえだろ。遊びだよ遊び」 「ほう、とてもそう見えなかった。誤解は良くないから、私もそれに混ぜてもらおうか。そうだな、今度は私がお前を殴ろう。お前がその子達にしていたみたいに」 首の付け根で切り揃えられた滑る黒髪が、その斬りつけるような美貌を際立たせていた。装いも見た目も高校生くらいでしかないのに、淡々とした物言いと落ち着きはらった顔色のせいだろうか、妙な貫禄があった。 雪の肌。線で引いたように動かない眉目。表情はひとつも揺るがないが、寒気を覚えるほど声は冴え冴えとしていた。彼女は怒っている。 柔らかく締め上げられるように萎縮し始めた渦の中、彼女は大仰なくらいの身振りで覗き込んだ。 「ん? 誰かと思えば池田歯科の坊主ではないか」 真ん中の奴の肩が、ぎくりと音がしそうなほど震えた。 「お前、塾に行ってるのではなかったのか? ずいぶん通わせているのにちっとも成績が良くならないとぼやいていたが、なるほど。こうやってサボっているわけか。これはひとつお灸を据えてもらわねばならんな。池田のじいさんが厳しいのはお前もよく知っているだろう」 みるみるうちに池田の坊主とやらは真っ青になって、転がるように逃げ出した。屋台骨が倒れればあとは脆い。取り巻きたちもそれを追いかける形で方々に散っていった。金魚のフンはどこまでもフンだと日吉は後ろ姿を無様に思った。 セーラー服は立ち去らず、鼻をすすっている鳳と目を合わせるようにして膝を折り、大丈夫かと言った。 「おねえちゃん」 お星様が飛び交うと女子の間で囁かれている大きな黒目から、ぼろりと涙の粒が落ちた。 鳳の一言に、納得と違和感を感じつつ、日吉は散らばった鳳の教科書や筆記用具を拾い集めていた。やはり鳳の血縁だったか、それにしても雰囲気が全然違う。泥を軽く落とし、持っている意味もないのでカバンを突き出すと、彼女はきちんと日吉の方へ顔を向けて、両手で受け取った。 「ありがとう。君も怪我はなかっただろうか」 日吉が首を振ると、安堵を滲ませて口元を持ち上げた。切れ長の瞳が丸み帯びると刃物みたいだった印象がずいぶんと和らぐ。 「ほらもう泣くんじゃない」 未だすんすんと残る子犬の鳴き声に、横を向いた顔が引き締まった。 「そんな風にべそをかくから弱虫どもが喜ぶのだぞ」 「弱虫?」 適してるとは言い難い言葉選びに、日吉は思わず口に出していた。この場合弱虫に相当するのは鳳の方ではないかと日吉は思っていたからだ。鳳をいじめていた奴らはちっとも正しくないし「卑怯」とか「恥知らず」とかを胸にぶら下げるのがお似合いのまぬけな連中だが「弱虫」を当てはめる発想はなかった。 彼女は鳳の制服の汚れを叩き落としながらはきはきと答えた。 「ああ弱虫だ。いじめっ子という輩は必ず徒党を組むだろう。一人でやる度胸なんて欠片もない。己の臆病さを少しでも隠したくて自分より低い場所にいそうな相手を踏みにじろうとする。弱虫以外のなにものでもない」 だから、と発した声にははっきりと誇らしさが宿っていた。 「長太郎は泣き虫だが弱虫ではない」 両手でぱんと頬を叩かれ、鳳はようやく泣き止んだ。肌を袖で拭おうとした手を姉に止められ、代わりにハンカチを握らされる。顔を洗ってきなさいという言葉に素直に応じて、鳳は公園の水飲み場へと駆けていった。 戻りを待つ必要はない。目に余る事態は収束し、留まる理由はない。けれどなんとなく立ち去り難く、日吉はセーラー服と並んでぼんやりと懸命に顔を洗っている鳳を遠巻きに見ていた。 「申し遅れてすまない。鳳長太郎の姉、だ」 深々と頭を下げてきたので、日吉は面食らいながらも、遅れまいと同じ姿勢を返した。 「日吉、です」 ひよしくん。うん。と暗記するように彼女は口に出して唱えた。 コンクリートの地面にちょうど90度。日吉も姿勢の良さには自信があるが、寸分狂わぬ柱の如き彼女の立ち姿には子供ながら見とれた。おどおどした所作など塵一つ見つからない。つくづく鳳とは正反対。白い肌くらいしか共通点の見当たらない姉が、弟についてぽつりとこぼした。 「あの子は人の悪意が苦手でね」 「得意な人の方が少ないと思います」 日吉は自分でも可愛くない言い方だと思ったが、彼女は気分を害した風もなく、それもそうだなと生真面目に相槌を打った。 「ただ、弟は特別下手な部類だ」 それは日吉も賛同するところである。目をそらすなり無視するなりその場から離れてしまえばいいのに、軽薄で中身のすかすかな悪意まで丁寧に受け止めてやるから、いちいち萎れる羽目になるのだ。 「全部誠実に付き合おうとするから、受け流す術が身につかないのだろう。賢いやり方ではないかも知れないが」 短く吐かれた息。案じてはいても、否定する気配はそこにはなかった。高い位置にある横顔が急にこっちを見たので、日吉は少しだけうろたえた。 「日吉くんのような友達がいるならそう心配もせずに済む」 別に友達というほどの間柄ではなかったが、正直にそう答えて、注がれた信頼の眼差しを裏切るのは気が引けた。多少大人びていようとも彼女にとってみればガキに違いないのに、全く子供扱いをしないのも、日吉には快かった。 「頼りないところもあるが、優しい子なんだ」 顔を拭きおえた鳳が向こうからやってくる。それを見る姉の目があんまり物柔らかだったものだから、束の間目を奪われたことを誤魔化さねばならず、変に棘のある物言いになった。 「俺は優しくないですから」 その目がきょとんとわずか丸くなる。やがてとても良いものを見つけ出したように、口元がゆっくりとほころんでいった。涼しげな容貌に温かい風が吹く。 「何を言ってるんだ。助けに入ってくれたのだろう。見放しもせずいじめる側の輪にも加わらず」 弱虫ではないと言い切った時と同じトーンで力強く。 「君も優しい男だ」 褒め称えた微笑みが何かに気づいて首をかしげる。失礼、とティッシュペーパーを携えた彼女の指が口元に近づいてきた。怖いわけでもないのに日吉の体は硬直した。 「唇の端が切れている。痛くないか」 童子をあやすようことも頭を撫でることもしない、白くて薄い、凛々しい手のひら。 「男だから平気です」 口を引き結んでそういうと、彼女は「そうか」と頷いた。 家族以外に、いや家族を含めても、からかいや叱咤を含まず正真正銘「男」と認めてもらったのは、初めてだった。 それから劇的に鳳と日吉の仲が近くなったわけではないが、以前ほど日吉は鳳を疎ましくは思わなくなった。イライラするのは変わらないし、気に食わない部分は山ほどあるけれど、鳳は少なくとも下らない連中のいいなりになるような、そう、彼の姉の言葉を借りるところの「弱虫」ではなかった。苦手な悪意を投げつけられて泣いたとしても、一緒になって石を投げる真似は決してしない。そこだけは認めていた。 鳳の中でも日吉の清く正しくの生き様は高く評価されているらしく、度々家に招かれた。一度目や二度目は武術やそろばん教室を理由に辞退したが、三度目となると断りづらい。 お姉ちゃんも待ってるから。 それを信じたわけではないが、とある日曜日の昼下がり、母に持たされたようかんを手土産に鳳家を訪ねた。いいところの坊ちゃんと聞いていた通り大きなお屋敷だった。 住んでいる鳳が絵本から飛び出してきたような人間なら、その家の造形までもが絵本そのもの。洋風の白い壁にアリスの世界を思わせる色とりどりの庭園。アーチにはバラが巻き付き、古城のような意匠の窓にはレースのカーテンが引かれていた。手の中のようかんが恐縮しそうなメルヘンさ。 「やあいらっしゃい。よく来てくれたな」 鳳の言っていたことは嘘ではなく、本当には待っていた。が、それは彼女のみならず、鳳の母も父も待っていた。家族総出でもてなされ、とてもじゃないがくつろげなかった。不快感ではなく照れくさかったせいで。 鳳の母親は鳳にそっくりで、性別を入れ替えて年を取らせたみたいだった。どこかふわふわとした物腰と黒目がちな瞳、善人が服を着たような朗らかさ。似ていないのは太い眉くらいだ。 あまり似ていない姉弟だな、と言ったことがある。その時鳳は答えた。「俺は母親似でお姉ちゃんは父親似なんだ」と。 目の前にして初めてなるほどと思う。鳳とその母のように二つとはいかないが、彼女に父方の血が流れているのは理解できる。華やかな印象の母子に比べ、父親はすらりと長身で、すっきりと聡明な顔立ちの紳士だ。のつやつやとした黒髪や細面に、その面影が見える。 暖炉があって、ロッキングチェアがあって、家族みんなが集まっても尚余る、大きなダイニングテーブルが家の中心。 そこで母自慢のアップルパイが振舞われた。浮世離れしたおとぎ話のような光景に、日吉は本当に絵本の中に放り込まれたのではないかと思った。熱々のアップルパイは甘ったるい香りを放っている。お菓子のたぐいは苦手ではないが、アップルパイは喉が焼けるほど甘いイメージがあって若干躊躇を覚えた。 お供は紅茶がいいか麦茶がいいかと問われ、まさか麦茶が選択肢にある意外性に内心驚きつつ、日吉が麦茶をお願いしますと答えると、鳳の母はにっこりと嬉しそうにえくぼを作った。長太郎から聞いていたの、日吉くんはきっと麦茶の方が好みだって。 鳳を見ると、お手柄でしょ? みたいなきらきらした目で見ていたので、静かにそらした。そらした先で、と目が合った。彼女は小声で「大丈夫だ。母のアップルパイは見た目ほど甘ったるくない」と伝えてきた。胸の内を読まれたようなばつの悪さから、麦茶を待たずにパイにフォークを入れてかぶりつくと、サクサクとした香ばしいバターの風味とともに、林檎のほどよい甘味が口の中に広がった。 な? と目配せをしたは無表情に近くはあったが少しだけ口角が誇らしげにあがっていた。 夫妻も姉もこぞって本を好むらしく、鳳の邸宅の書斎は小さな図書館並みに品揃えが良かった。読書のために用意された椅子も、それは上等で掛け心地がいい。 いつでも来ていいからという家主の言葉を真に受けて入り浸るほど図々しくはないが、日吉にしてはたびたびと言える頻度で訪れていた。とはいってもひと月に二、三回程度だが。 鳳は日吉が選ぶ本に顔を引きつらせて、大げさなくらい距離を取って座るくせに、好奇心は拭えないのか、気が付いたらよく後ろから怖々と覗き込んでいた。しかし恐怖にまかせてヒエエとかウワッとか声を立てるものだから、最終的に日吉はシッシッと犬にするように追い払わねばならなかった。鳳は日吉ほど読書家ではないようで、文字を追うより日当たりの良いソファで船をこぐ方がはるかに多かった。別にここにいなくてもいいぞと言っても、鳳はせっかく日吉が来てるからと譲らず、懲りずに日吉の読む怪談の書物に興味を示してみたり、寝息を立てたりしていた。 そこへ時折、姉が顔を出す。自宅なのだから当たり前だ。 静かに扉を押し開いたがこちらに気づいたので、日吉はいつものように小さく会釈をすると、同じく会釈で返してくるはずの彼女はつかつかと一直線に歩み寄ってきた。 「これはどうした」 指で頬をさしながら、口だけが素早く動いた。その時の日吉の顔の右半分は、道場で作った痣のせいで大きな湿布に占領されていた。おそらく彼女はかつて目撃した弱虫どもの暴力を連想したのだろう。怪我は未熟の証だ。あまり誇れるものではないが、いらぬ誤解を生むわけにはいかず日吉は言葉少なに告げた。 「鍛錬の時に少し」 「鍛錬?」 「日吉の家は古武術の道場なんだよ!」 鳳は何故か我がことのように胸を張って答えた。それを受けて、は「ほう」といたく感心した様子だった。 「きちんとした親御さんなのだろうとは思っていたが、なるほど武道家の」 そうかそうかとしきりに頷いたあと、腑に落ちたように日吉の方を見た。 「道理で折り目正しく強い男であるはずだ」 鳳は何が嬉しいのか、にこにことしている。日吉は面映さに下を向いた。嫌な気持ちはひとつもしなかったけれど、そこまで自分が賞賛に値しないという思いはあった。 「強くなんかない。いつも負けてばかりだし全然力もたりない」 才能の差、経験の差、年齢の差、全て合わさって、力の差となる。物心ついた頃から叩き込まれてきたとはいえ、道場で技を磨く大人たちの半分も生きていない。同期生には負けたことがなくても、やはり歴然とした実力を見せつけられれば、己の力量は知れる。強くあれと父や祖父は言う。自分はまだ強くない。 「強いじゃないか」 「強いよ」 姉と弟が声をそろえた。 「見たこともないのによくそんな」 「えっ見に行っていいの?」 「来るな」 「見に行ってもいいのか」 「来ないでください」 話にならない。不貞腐れて逃げるように本を開いた日吉をよそに、姉弟は至極不思議そうに首をかしげていた。似てないくせに、そういうところはちゃんと繋がっている。 「なかなか頑固だな日吉くんは」 「そうなんだよ日吉は頑固なんだ」 「しかしそのくらいでないと空手の道は厳しいのかも知れないな」 「空手じゃないよ、古武術」 「ん? そうだったな」 それはそれとして、とはさらりと続けた。 「腕に覚えがあるなしじゃなく、重要なのは実際そこに居る友人の為に一歩踏み出せるかどうかだ」 いつのことを言っているのかすぐに察しがついた。本を盾に隠れていた日吉の視線はつい引き戻されて。それを見越していたのか、まっすぐな気性がそうさせたのか、は日吉を真っ向から出迎えた。 「だからあの時、君に言っただろう」 君も優しい男だ。 彼女にとってそれが「強い」と同義語だと、日吉は知った。 冷たい道場の床を拭いてる時、若干いやになってきたのか父が「これも強くなるためだからな」と自分に言い聞かせるかの調子で、日吉に語った。道場にいる間は、師範代と弟子である。敬語で接しなければならない。はいと頷いたあと、日吉は手を休めることなく尋ねた。 「うちで一番強いのは誰ですか」 隣でせっせと床を磨いていた師範代であり父である男は、間を置くことなく答えた。 「師範に決まっているだろう」 師範とは今頃一番風呂につかっている祖父のことである。じゃあ、と日吉は続けた。 「家族の中で一番強いのも?」 師範代の手は止まり、ううんと腕を組んだまま頭を捻る。 「それはあちらだな」 振り返った先には、お茶を二つお盆にのせて「ひと休みしましょう」と微笑む祖母の姿があった。家の中で、一番優しい人だった。 しきたりなのか趣味なのか、三時になると決まってお茶が運ばれてくる。いつもフリルのエプロンを身につけた鳳の母が現れるのだが、来客があるとかで、長女にその役を託したらしい。一緒しても構わないだろうか、とお盆の上には三人分の茶器。更にその日はお茶だけでなくアップルパイがお供として添えられていた。寝ぼけ眼だった鳳の目が輝く。 日吉と姉の皿にはパイとフォーク、弟はそれに加えて生クリームと瓶に入ったシロップ付きだ。二人にとって絶妙と感じられる甘さも彼にとってはいささか物足りないようで、たっぷりとクリームとシロップをかけて食べる。日吉の目には読んでいる書物よりホラーとして映ったが、その母は更に輪をかけて甘党だとかでやはり滝のようにシロップを投じるという。 なら最初から甘くすれば良いだろうという日吉の意見に、パイにクリームを塗りたくっていた鳳が首を振った。 「それじゃ姉さんが食べられない」 姉さんはあまり甘いものが得意じゃないんだ。 もうこの頃、鳳は姉を姉さんと呼ぶようになっていた。姉さんと呼ばれたはフォークを動かす手を一度止めた。 「父の話では、昔このアップルパイはとてつもなく甘かったらしい。代々受け継がれていたレシピの味だったし、自分の舌も慣れていたんだろう」 空になっていた日吉のグラスに、麦茶のお代わりが注がれる。 「父はなんとか食べられたが、私にはその甘さは厳しいものがあった。残さず食べきったものの涙目になっていた私の口に合うように、母が作るアップルパイの甘さはどんどん控えめになった」 彼女の口へ煮込まれた林檎が運ばれる。日吉もフォークごとパイを噛みしめた。柔らかく優しい味がした。 ――姉さんは優しいんだよ。 つい先日、鳳が独り言のようにもらした一言だ。 弟さんと逆だったら良かったのにねえ等と余計な口を挟む連中がいるのだという。女にしては愛想がないという意味らしい。なんにも知らないくせにそういう事言うんだ、と鳳にしては珍しくしょげるとは違う感情を見せた。 昔二人で公園に遊びに行ったとき、突然ものすごい雨が降ってきたんだ。滑り台の下に隠れて晴れるのを待ったんだけど、全然止まなくて、寒くて、体もどんどん冷えてきて。そしたら姉さんが着てる物脱ぎだして俺に被せてきた。上着やマフラーだけじゃなくスウェットまでだよ? 着てても寒いんだ、半袖一枚で平気なわけないのに、姉さんは女には皮下脂肪があるから問題ないって言うんだ。その時俺は子供だったからヒカシボウがなんだかわからなくて、なら大丈夫なのかなって思ってた。馬鹿だよね。あんな細い体のどこに寒さをしのげる脂肪があるっていうんだよ。姉さんは風邪を引いた。真っ赤な顔してお前のせいじゃないって、これは姉が必ずかかるお姉さん病だからって。今思うと意味がわかんないけど、やっぱりその時の俺は子供だから、そうなのかってまた丸め込まれた。 暖炉の火を覗き込むみたいな目をして、鳳は呟いた。 姉さんはね、優しいんだ。 水面にぷかりと浮かぶのはいつかの文言。 『優しい子なんだ』 弟による姉への。 姉による弟への。 わかってる、知ってるよ。日吉は心の中で両方に答えてやった。どちらも正しい。 下校中、日吉は久しぶりに鳳が絡まれている場面に遭遇した。銀髪の頭がぴょこんと飛び出ている。チビと言っても差し支えなかった鳳の背丈は、いつしかするすると伸び始め、周りを取り囲まれても、もう埋もれることはない。 いつかの、勇ましい姉に一蹴された連中とは顔ぶれが違うようだ。どうするかと様子を見る間もなく、輪は散らばって消えた。鳳が「うるさい!」と大声を出したのだ。泣き声ではなく。おとなしいばかりの軟弱な子羊と侮っていた相手は驚いたのだろう、反撃を恐れてしっぽを巻いて逃げ出した。ぽつんと一人残った鳳はしばらく肩で息をしていたが、日吉に気づいて照れたように笑った。 以来、鳳は弱虫どもにいじめられることもなくなり、同時に泣き虫でもなくなった。というより受け継いだ父方の血が爆発したか、中等部に入る頃には見上げるほどの大男になった彼に手を出す度胸のある者など、そういるものではなかった。 中等部に進むと、取り巻く時間が途端に目まぐるしく動き出した。門をくぐったテニス部は強豪の名に恥じることなく過酷で、また学生の本分においても学ぶべきことやるべきことの選択肢はこれまでと比べ物にならない。日々、苦労と充実に心を傾けるのに夢中で、日吉は自然とあの鳳家の書斎から足が遠のいていった。すでに大学へ進学していたも何かと忙しく、二人が幼稚舎を卒業する頃にはあまり顔を見せなくなっていた。 あっけなく、二年の月日が過ぎた。 ◇◆◇ 水曜は部活が休みだが、自主練は自由だ。体を動かしたい気分だったのでサーブの調整を始めたものの、整備の業者が入るとかで途中で追い出されてしまった。続きは明日の朝にしよう、と沈み始めた西日を追いかけながら思う。 あと少し季節が動けば三年生引退の時期が来る。次の部長はお前だと、パチンと音を立てながら指名された。指を鳴らす必要はあったのか。それでもすっと背筋が伸びる思いがした。 信号待ちをしている視界の端で、黒塗りの外車が滑るようにして停車した。ぴかぴかに磨かれた傷一つない車体。ひと目でわかる、金持ちの象徴だ。そこから上品な身のこなしで降りてきたのはまだ年若い娘で、彼女は丁寧に運転席に礼を告げ、車が走り去るのを見送ってから踵を返した。 気がついたのは同時だった。 「日吉くんか?」 「……こんにちは」 接触する機会がなくなったとはいえ、時々鳳が話題に出すので、近況を全く聞かされていないわけではない。大学生活は順調のようだとか、スマートフォンに苦戦してるらしいとか、電車で二人ほど痴漢を突き出したとか。 だがこうして話だけではなく、直接顔を合わせるのは、実に久しぶりのことだった。つい先日、目の先にとらえた写真がよぎる。日吉の記憶の中で、彼女の姿はそこで止まっている。ぱつんと迷いなくハサミを入れたようなおかっぱで、都内で有数の進学校の制服に身を包んだ、高校生の。 いま目の前に立っているのは、黒髪を胸のあたりまで伸ばした、記憶よりも更に美しい女性だった。 日吉は一瞬呆然としたが、それは向こうも同じ、いや成長による変異が大きい分だけ、驚きも比例する。 理知的な瞳が、珍しくぱちくりと二度ほど開閉した。あまり人のことは言えないが、普段表情が乏しいせいで、たまに動きがあると、その大人びた造作も急に幼い印象になる。今もそれは変わらないようで、車から降りた動作は淑女そのものだったのに、日吉を見る顔は書斎で会っていたあの頃と同じ。日吉は昔から、それを見るのが好きだった。彼女が手の届く場所に降りてきたような不思議な安堵感があった。 「……驚いたな、ずいぶん、大きく」 大げさなくらいの視線が、日吉の足元から頭上へと登っていく。日吉は日吉で、頭の位置の差を理解するのに時間がかかった。彼女に見上げられる日が来るなんて思ってもみなかった。 「ああいかん」 通行人の邪魔になるな、と突っ立っていたは歩き出した。すぐに振り返った目が日吉を招く。並んで歩くことになった。 「家に帰るところか?」 「はい」 「私もそうだ。途中まで車だったが」 あの車は誰の、といらぬ詮索が喉の下のあたりまで出そうになった。 「日吉くんとわかれば父にも会わせてやりたかった。きっと驚いただろうに。気づかずそのまま仕事に向かってしまった」 父。 すとんと腹の下まで落ちていった。それと同時に、日吉の口はようやくなめらかになる。 「鳳を見ていれば、あれ以上に驚く成長はないと思いますが」 「まさか父まで追い抜くとは思わなかったな。春に買い直した制服が、もう着られないそうだ」 不経済ですねと日吉が言うと全くだと相槌が返ってきた。 「よく食べるしな。テニスのせいもあるだろう」 最近では冷蔵庫をもうワンランク上のにしようかと話まで出ているらしい。炊飯器はすでに買い換えたとか。鳳が持ってくる巨大な弁当を思い、日吉は色々と遠い目になった。まあしかし、と声は続く。 「丈夫なのはなによりだ」 相変わらず、弟の話をする時の姉の目は特別に柔らかい。もう守ってやる必要もないくらいの図体に育っても、やはり姉は姉で、弟は弟なのだろう。 ふいにの目は日吉の方へと。 「武道は続けているのか」 「ええずっと」 「それはいい。ますます精悍な顔つきになった」 唇を噛んで、言い知れぬ感情を飲み込む。 最初の日からずっと一貫しては日吉を一人前の男として扱った。日吉の自尊心を尊重したというより、もともとそういう気質なのだろう。どういうつもりであれ、それが日吉に自信と気概を与えたことには間違いはない。 「実は、長太郎にも通わせるという話が出てたんだ。両親の間で」 「うちの道場に?」 初耳だと言うと、前を向いた顔が頷いた。 「いじめられることを心配して、少しでも自信になればと。でもある日を境に泣いて帰る日がなくなったから、その話は立ち消えになった」 その、ある日とやらに日吉には覚えがあった。うるさいと叫んで連中を蹴散らした時のことだろう。日吉にとってあれは胸のすく展開で、鳳が男になった日として印象強く記憶されている。 「泣かずに大声で反撃してました」 「おお。見てたのか」 「すぐ終わったので一瞬でしたが」 あれは先日のように、鳳が家族の写真を見られたあとのことだ。たまたまそれには彼の父と姉が写っていた。鳳の印象とまるで違う二人の外見は、下らないことが大好きないじめっこの格好の餌になったのだろう。 「囲まれて、もらわれっ子だとからわれて」 彼女はその眼差しを細めて笑い飛ばした。 「バカらしい」 本当に馬鹿らしいと日吉も思った。 疑いようもないくらい母とそっくりな顔をして、もらわれっ子もなにも、 「もらわれっ子は私のほうだ」 ざらざらざらざらと。 長い髪が羽ばたきのように視界を横切って流れる。 呼吸を置き去りにしている日吉を見て、彼女は意外そうに首をかしげた。 「おや。話していなかったか」 むかしむかしの話。 家同士の見合いではあったが、思いやりに溢れたおっとりとした伴侶を、鳳家の若き主人はそれは深く愛していた。仲睦まじく暮らすにふさわしいお屋敷を建て、幸福で彩るべく広い庭をつくり、花を育てた。最愛の妻を喜ばせるために。そしていつか生まれてくる、子供達のために。二人はその日を待ち望んでいた。 機会は、思ってもみないかたちで訪れた。年老いた女の姿で。 彼も一人の男である。見目は整い、家柄も良く資産家ともなれば異性がほうっておくわけがない。妻を迎えるまでの間、様々な女性との出会いと別れを、人並み程度には経験してきた。彼を訪ねてきたのは、その内の一人の、母親だった。名を耳にしてすぐに思い出した。彼にとって最後の恋人だったからだ。 一方的に連絡を絶ち彼の目の前から姿を消した元恋人は、すでにその体に彼の子供を宿していた。産み落としたあと母親の元に身を寄せ、三人でひっそりと暮らしていたが、その子が言葉を覚えるより早く、彼女は事故で帰らぬ人となり、代わりに育ててきたという。けれど、自分はもう長くはないと老女は目を伏せた。やせた手のひらは、病に蝕まれて枯れ枝のようだった。忘れ形見はまだ小学校にも上がらぬ歳。 普段涙ひとつ落とさない男は、すまないすまないと頭を下げ、嗚咽で喉をつまらせた。いつも涙をぽろぽろとこぼす泣き虫の妻は、誰も悪くないわ、とただ微笑んで許しを乞う夫をあたたかく抱きしめた。 そうして鳳家は三人になった。 四人目の家族、二人目の子供が産声をあげたのは、それから二年あとのこと。 「長太郎が生まれたとき、この家にふさわしい天使が生まれたと思った。ふわふわの銀髪で、目がくるりと愛らしくて。あなたの弟よ、と母が抱かせてくれた」 赤ん坊は柔らかく温かく、軽いようでずしりと重い。どんな美術品を運ぶより、人はおっかなびっくりに、そして持ちうる限りの優しさを抱く腕に込める。 引き取られ、父からも母からも慈しまれて暮らしていたものの、何者であるべきかわからなかった自分に、姉という場所を与えてくれたのだとその人は言った。 夕暮れがつくる陰影を、飾り気のないパンプスが踏んでいく。颯爽とした背中には侘しさやうらぶれた気配など寄り付く隙もない。 「髪の量は申し分ないのにてっぺんにハゲがみっつくらいあってな。それが心配の種だったが」 「鳳は、知ってるんですか」 「ハゲを?」 「違います」 ああ、と振り返った立ち姿はまだ二十歳そこそこのくせに、百年先を生きたかのよう。 「知ってるよ。私と母と父が、おとぎ話のように話してきかせた」 全然似てないのな、と言われるたびに鳳はその顔に影一つ落とさず、よく言われるよと照れすら滲ませて笑っていた。 『俺は母親似で、姉さんは父親似なんだ』 呪文のように繰り返す。鳳はそうして姉を守っている。 優しい子なんだ。姉さんは優しいんだ。 人から見れば頼りなく心許ない、けれど見た目よりはるかにしなやかで強い。その盾は、大切な相手をいばらから守る。 「そうだ、部長になるそうだな」 過去を語っていた表情が、思い出したように切り替わった。 おめでとうと告げる声は何故か誇らしげで。 「弟がいつも食卓で話しているよ。それを聞くのが家族の楽しみなんだ」 あの子は大げさだから誇張があるかも知れないが、と姉の声は慈しみ深い。 鳳家はそれこそメルヘンが具現化したように、どの角度から見ても健やかで甘くて朗らかで羽毛にくるまれたようにあたたかくて。 大きなダイニングテーブルを囲んで、弟は今日の出来事をあれこれと大きな仕草を交えて話して聞かせ、姉がその全部に律儀に相槌を打ち、母はころころと笑い声を立てて、父は穏やかにそれを見守っている。 家族が愛してやまない皿の上のアップルパイは、幾重にも幾重にも重なってその味を作った。 甘ったるいばかりではない、何度か口にしたあの感触を日吉は懐かしくも思い出す。 一段高い書棚も、並んでいる小難しい本も、そこに手を伸ばす彼女も、あの頃は何もかもが遠くて遥か彼方に思えた。踏み台を必要としなくなった今なら、少しは近づくことができるだろうか。彼女が称えてくれたような、優しい男になれるだろうか。 「また、書斎に行ってもいいですか」 出来るだけ力まずに、なんでもない風に言うと、は当然だとばかりに力強く頷いた。 「もちろんだ、いつでも来るといい。父も母も弟も喜ぶ」 「弟は抜きで」 「ぬ、抜きか」 彼女にしては珍しく戸惑いをあらわにした。少し考えるように眉間に皺を寄せたあと、伺うように日吉を見上げる。 「……長太郎と仲違いしたのか?」 「違います」(二回目) 目を合わせようとしたけれど、額のあたりを見るのが精一杯。 「親交を、深めたいと思って」 「うちの両親とか」 「違います」(三回目) 立て続けに否定を受けたは、ふむ、とよくわからなそうな顔をした。すっと話の通る相手とは思っていなかったが、考えてた以上に察しが悪い。妙に噛み合わない会話は、とある誰かをほうふつとさせ、日吉は自然と笑みがこぼれた。 「鳳と、似てますよね。そういうところ」 一瞬目を瞬かせたあと、きょうだいだからな、と彼女は褒め言葉をもらったように清々しく笑った。 |