その日、午後からの降水確率は80%だった。 昨日から、天気予報はそう警告していた。 もっといえば、5日前の週間天気予報からこの雨は予告されていたのだ。
玄関のガラスの向こうには、地面に穴が開くほどの大雨。 水溜りに広がる途切れることのない波紋が、その雨足の激しさを伝える。 秋の天気は女心と並べられるほど気まぐれなものだが、なるほど、午前中の晴天ぶりが嘘のような空模様だ。 天気予報は見事大当たりである(外れてくれても一向に構わなかったのだが) しかしは、その雨を前に慌てることはなかった。 何日も前から、彼女はこの雨を予報で確認していたからだ。 夏と違って、この季節にずぶ濡れになるのはなかなか厳しいものがある。 好き好んで風邪を引きたくないと警戒していたは、こういう時のために置き傘をしておいた。 備えあれば憂いなし、と自分の準備の良さに一人ニヤリと微笑んだは、生徒の傘置き場に手を伸ばす。 だが、伸ばしたその手が傘の柄をつかむことはなかった。 妙にラブリーなピンクのチェックや幼稚園児のような黄色、趣味を疑う紫の薔薇模様。 色の洪水のような傘置き場の中に、心当たりのある存在が見当たらないのである。 残っているのはどれも、雨の風景には不似合いなカラフルで派手な傘ばかり。 が用意しておいたお父さん色(紺)の傘の姿は、どこにもない。 はしばらく呆然としていたが、やがて行き場を失った右手を血管が浮くほど強く握りしめた。 「盗まれましたよ!!」 頭に血が上ったので、とりあえず訴えてみる。 周囲はまるで無人なので誰に言っているわけでもないのだが、叫ばずにはいられなかった。 置き傘というものは、突然の雨でも困らないように用意するものである。 それは飽くまで自分のためであって、見ず知らずの他人の為ではない。 持っていった奴は「ちょっと借りちゃえ」という軽い意識なのだろうが、持ち主としては「盗人が出たぞ!」という窃盗被害的な重い心境である。 しかも傘は雨の日にこその威力を発揮するものなのだから、後日晴天の日に手に戻ってきても意味がない。 ささない傘は、『なんかもうえらい邪魔な棒』である(しかも置き忘れチャンピオンだ) ちゃんと天気予報見て来やがれ! 誰だかもわからない犯人を心の中でロープレスバンジーの刑に処した後、は再び傘置き場に目を戻した。 何度見ても、自分の置き傘はない。 かといって、残った傘から一本失敬・・などという気になるわけもなかった。 そんなことした日には自分が誰かからロープレスバンジーである。 だいたい傘泥棒なんかする奴の気が知れない、とは一人憤った。 借りてゆこうと手を伸ばしたときに、持ち主と対面でもしてしまったらどうするのか。 ものすごく気まずいではないか。 正義感が溢れるのかそれともただ小心者なだけなのか、自分でもよくわからない思いにかられつつも、は肩に背負っていた鞄の中を開いてさぐる。 そして、何か思い出したように動きを止め、大きく溜息を吐いた。 「ーどうしよう!今日午後から大雨なんだって!!彼氏と一緒に帰る約束してるのに!」 「彼氏も傘忘れたの?仕方ないなー…私の折りたたみを貸してやろう」 「マジで?!いいの!は?!」 「いーよ、置き傘あるから。仲良く相合傘でもしてお帰り!」 折りたたみ、貸してた。 呑気に相合傘なんか勧めてる場合か。 人の恋愛進行を影で支えたあげく、代償がこれとは泣けてくる。 2人は今頃仲良く貸した折りたたみ傘でイチャコラしていることだろう。 お前らも天気予報チェックして来やがれってんだよ!! 二つ返事で貸した自分を棚に上げ、は降りしきる雨を睨みつけた。 外は、佇むの都合などお構いなしに雨模様が続いている。 どうしようもない。 仕方なくは鞄で頭をかばいつつ、水溜りを跳ね上げながら生徒玄関を飛び出した。 雨を被ること覚悟で自転車で帰ろう。 濡れるのはこの際、我慢するしかない。 歩いて帰るよりは短時間で帰宅できるだろう。 そう思って、息を切らしながら屋根つきの自転車置き場へとは辿り着いた。 しかし。 今朝、置いたはずの場所にマイチャリの姿はなく。 自転車まで、パクられていた。 安っぽい鉄板の屋根を、激しく叩き続ける雨の音。 靴下にじんわりとしみ込む水の気配がひどく鬱陶しい。 もう、怒る気力は彼女に残っていなかった。 なんで自分がこんな目に遭わなきゃならないんだろう。 冬の気配を含んだ雨粒の、憂鬱なまでの冷ややかさのせいか。 それとも月に一度訪れる、腹部のけだるい重さのせいか。 立ち並ぶ自転車を前に、はポロリと涙を流した。 あとあと思い返せば、何も泣くほどの事ではない。 しばらくすればすぐに立ち直って、走って帰るなり止むまで待つなり判断を下せるようになっていただろう。 だがその時のには、抗えないほどの負の感情が押し寄せていた。 はっきりとした理由はなくとも、とてつもなく悲しい瞬間というものが女の子にはやってくる。 泣いている本人でさえ説明できない、その一瞬の衝動。 だから、「その一瞬」に自転車を取りに来てしまった海堂は完全な被害者だった。 「…自転車と傘、両方か」 「う、うん…盗まれちゃってさ」 不運にも同級生が自転車置き場で一人泣いている場面なんぞに遭遇してしまった海堂は、一体どうしたと取り乱しながらに声をかけた。 無視して帰宅することも可能であるのに、わざわざ面倒に首を突っ込んできた海堂。 ヒールな顔に似合わず、かなり善人である。 その予定外に泣きの現場を押さえられてしまっただが、もうすっかり涙は乾いていた。 さっきは完全に感情に流されていたので泣くことに夢中だったが、そこへ第3者が加わるといきなり我に返る。 その時の心情を上手く言葉で表すことが出来ないからだ。 そうして考えているうちに、自分でもなんでベソをかいていたのか、もう数分前の気持ちが思い出せない。 とにかく重要なのは、いま非常に恥ずかしいということだ。 「なんかごめんね」 気まずさに耐えられず、は何に対してなのかよくわからないまま謝罪の言葉を吐いた。 「いや」 雨に濡れたグランドを眺めていた海堂からの、短い返事。 彼もまた何に対しての返事なのか、よくわかっていない様子である。 「それじゃ、あの…お騒がせしました」 と、が海堂の前を逃げるように通り過ぎた瞬間、後ろから手首をつかまれた。 「使え」 振り向いたに海堂が押し付けたのは、さきほどまで彼がさしていた黒い傘。 玄関からここまでというわずかな距離だというのに、すでに雫が滴り落ちるほど濡れそぼっていた。 「えっ海堂君は?!」 「自転車で飛ばせばそんな濡れねぇよ」 海堂はそう言うと自分の自転車にさっさと跨り、振り返りもせずペダルを漕ぎはじめた。 「あっ!待っ…!」 サッと風のように走り去ろうとする海堂チャリの荷台を、は追いすがるように引っ掴む(海堂チャリ=ママチャリ) 気の毒に、背後から急に引っ張られ急停止を余儀なくさせられた彼は、思いっきり前のめりになっていた。 「なっ…なにすんだよ!」 雨は弱まるどころか、更に激しさを増している。 本当は小躍りしたいくらい大変ありがたい申し出だったのだか、さすがに良心が咎めた。 傘がないのでやむを得なくチャリ疾走、という状況ならばともかく、本来雨に当たらないで済むはずの人を自分のせいでずぶ濡れにするわけにはいかない。 「私が傘さして、海堂君が濡れて帰るってのはちょっと…」 「別にたいしたことねぇ」 「風邪引いたら悪いし」 「こんぐらいで風邪なんかひくかよ。いいから荷台離せ!」 「いや、でも申し訳ないし」 「…濡れて帰りたいのか?」 「…濡れたくはないけど」 「なら、それさして帰れ。俺のことはいい」 じゃあな、と再び海堂は自転車を漕ぎ出そうとしたが。 またしても、背後から引力がかかった。 「…おまっ」 「かいどうくん、いっしょにかえろう!!!」 振りむきざまに苦情を言いかけた海堂をさえぎるように、の力強い発言が被る。 「帰り道一緒だったよね?」 「いや…そーだけどよ、ちょっ…」 「ね?」 「…ぐ…」 「ねっ!?」 「…う」 「なっ!?」 「…う…うす」 粘り強いテニスがウリの海堂選手だが女子に対してはどうも押しが弱いらしく、のおかしな勢いを前に困惑しきった声色で彼はついつい頷いてしまった。 ぱたぱた、と一定のリズムで雨粒が傘を打つ。 は自転車を押しながら、その単調な音をぼんやりと聞いていた。 初めはが傘を持ち自転車は海堂が押していたが、身長の差により途中で役割を交代した。 さしかけるの腕が不自然に上がっているのを、海堂がみかねて傘を取り上げたのだ。 そのまま片手に傘、もう片手に自転車という状態で歩き続けようとした海堂だったが、流石にそれは無茶だろうと、今度はが自転車を取り上げた。 最初「女に押させるわけにはいかねぇ」みたいなことを言ってなかなか離そうしなかったものの、あまりのバランスの不安定さに結局最後にはハンドルをに譲った。 無論、が押す前に、放りこまれていた重そうなスポーツバックを自転車カゴから引っ張り出すのも忘れない。 おかげで渡された自転車は傘よりも軽く、の手の中でカラカラと軽快に地面を滑った。 「…部活は雨で中止なの?」 「ああ」 「残念だね」 「…あぁ」 二度目の返事は、なぜか妙に歯切れが悪かった。 どうしたのかと海堂をこっそり覗き込むと、顔中険しい表情。 怒って…いるのではない。 どうも困っているようだ。 だが、何故困っているのか、にはわからなかった。 そもそも彼の顔のバリエーションは主に怖い系で占められているので、感情の機微が読みにくい。 悪役顔で明らかに会話が弾みそうもない海堂薫という男。 想像通り、こちらから話しかけない限りほとんど彼は無言である。 だが、不思議と圧迫感はない。 彼の細やかな気配りに、気付いてしまったからだろうか。 海堂君は優しいで賞… が心で海堂の優しさを讃えていると、いきなり雷鳴が轟いた。 「か、雷だ…」 「…まだ遠いから大丈夫だろ」 そのうちピカリと光るだろうか、とは厚い雲に覆われている重い空を傘の中から見上げる。 しかしタイミングよく稲妻が落ちるわけもなく(それはそれで困る)降りしきる雨が線のように落ちてくるばかりだった。 「おい、濡れるぞ」 はすぐ顔を引っ込めたが、海堂の言うとおり左の頬がわずかに濡れてしまった。 このぶんだと肩も・・とは自分の左肩に目を向けたが、全くその心配はなかった。 左肩はおろか、そこにかけたままのバッグすら水滴ひとつついていない。 不自然なまでに。 -------この激しい雨の中を歩いているのに? ハッとして傘を見上げれば、黒い屋根は不自然なほどの方へと傾いている。 そして案の定、海堂の右肩は洗濯でもしたかのようにぐっしょりと濡れていた。 隣でが驚きに目を見開いているのも構わずに、どうってことねぇとでも言いたげな顔で、彼はまっすぐ前を見ている。 さっき頬に触れた雨粒は、ひどく冷たかった。 黒かったはずの彼の制服の右腕は、すっかり色が変わっている。 はこちらに倒れ掛かっている傘の芯を、黙って海堂の方に傾けた。 だが、すぐにそれは更に激しい傾斜をなしての元に戻ってきてしまった。 「黙って入ってろ」 上から降ってくる冷たい雨と、低い海堂の声。 は小さく頷くことしか出来なかった。 胸を満たす、この尊い気持ちなんと呼んだらいいのだろう。 心も、まぶたも、どうしようもなく熱くなるのはどうしてなんだろう。 「…っっ!!お前また泣いて…!」 目を赤くしたを見て、海堂は焦ったようにポケットからバンダナを取り出した。 「……のチャリ、赤だったよな」 バンダナを受け取ったは鼻をすすりながら、コクリと頷く。 「学校で盗まれたんなら、そのへんに捨てられてんだろ……見つけてやるから泣くんじゃねぇ」 彼の見解はかなり間違っていたが、そんなことお構いなしではホロホロと涙が出た。 それを拭うことに必死だったので、海堂が自分の自転車の色を把握している不思議などに気付く余裕など彼女には全くなく。 ただ、彼の困ったような弱ったような顔が視界の中で静かに歪むばかりだった。 雨の日にはたくさんの泥棒がいる。 傘は盗まれるし 自転車もパクられた その上、 心まで持っていかれる始末。 (なんて日だ、今日は) 涙と雨で湿ったバンダナを握り締め、はひとり嘆いた。 お友達の誕生日に贈ったものを、そそっと再録してみました。 |