たてつけが悪いロッカーを力任せにゴッと開けたら、ゴッと頭にジャージが降った。
昨日きちんと畳んでから帰ったはずなのに、何故。
呆気にとられながら薄暗い視界を見つめていると、白いものがのんびりと目の前を落下していった。
それは雪のように白い封筒に納められた一通の手紙で、開いてみると同じく真っ白な便せんに『好きです』と一言。
私は頭にジャージを被ったまま呆然と立ち尽くした。

「別に青ざめんでもええんちゃうの」
「青ざめてますか」
「自分、唇むらさきやで」

ポケットから出した手鏡を覗き込むと、いかにも縁起が悪そうな面構えの自分と目が合った。
なるほど、確かに青い。陸に打ち上げられた河童のような顔色をしている。見たことはないが、きっと皿が干上がった河童はこんなご面相に違いない。
長く河童と見詰め合うことに耐えられず、私は鏡を伏せた。
そしてすぐにその手をもう何回広げたかわからない白い手紙へと伸ばした。
当たり前だが、何度見てもその内容に変わりはない。
無駄を極限まで省いた、簡潔な文面。
付き合って欲しいとも返事をくれとも、こちらのアクションを求めるような文言は一切なく、それどころか差出人の名前すらない。
宛名、すなわち私のフルネームと例の四文字だけが白い空間の中で背筋を伸ばして立っている。
しかしその四文字がもたらした破壊力はすさまじく、遅れてやってきた忍足先輩に声をかけられるまで私はしばらく電柱のように突っ立っていた。その時まだ頭にジャージが乗ったままの怪奇極まりない姿だったので、忍足先輩は警戒してなかなか近付いてこなかった。

「そない手紙くらいでテンパり過ぎやろ」

のろのろと椅子に腰掛けた忍足先輩は上だけユニフォーム、下は制服のままという中途半端な格好でガットの張りを確かめている。
常に気だるげなこの眼鏡の君は、パートナーとは正反対に腰が重い。
アップしないと部長に怒鳴られますよとか今日は監督が来るらしいですよと促しても、そうやんなあ、かなわんなあ、とちっとも困ってない風に笑うばかりで、ギリギリまで動かない。
無駄だと分っていながら、それでも私は「早くコート行け」と追い出しともとれる忠告を毎回繰り返していたのだが、今日ばかりはそういう気は起こらなかった。というよりも余裕がなかった。忍足先輩が言う様に私はテンパり過ぎていた。それこそ頭の皿がひからびるほどに。
しかしそれも仕方ないことだと思う。
こんな手紙をもらうのも初めてなら、告白を受けるのも初めてで、これまでこういった方面にはまるっきり縁がなかったのだから。
そう、私の学校生活は勝つのは氷帝負けるのナントカ、サーブだけ!サーブだけ!勝つのは俺だキャアー跡部様!の繰り返しで終るものだと半ば信じ込んでいた。汗と涙、努力と友情といったような汗臭いフィールドで過ごしていた自分に、まさかこの手合いの青春が転がり込んでくるとは本当、まったく、夢にも思っていなかった。我ながら寂しい話である。
ガタンと音がして、視界の隅にラケットが置かれた。
机の向こうに忍足先輩が頬杖をついているのが見える。

「忍足先輩はこういったブツをもらったことあるんですか」
「そらあるよ」
「え、あるんですか」

さも当然と言わんばかりの受け答えに間抜けな声が出た。

「ダイレクトメールとか督促状じゃないですよ、ラブレターですよ恋文ですよ」
「おまえ遠まわしに失礼やな」
「知らなかった……モテるんですね先輩…」

溜息とともに感嘆の息をもらすと、忍足先輩は綺麗に口角をあげて笑った。
この人は誤魔化す時によくこういう笑い方をする。含み笑いとでも言うのだろうか。向日先輩あたりはエロ笑顔などと呼んでいる。
事実、フォローのしようもないほどにいかがわしいが、この艶めいた表情が女子を惹き付けるのかも知れないと少し思う。
持ち上がった口元から、も今まさにモテとるやんと子供をからかうような口調。
あいにく一緒に面白がれるほどの余裕は持ち合わせてない。
どうしたら良いのだろう、この手紙。どうしたら良いのだろう、この自分。日焼けだけはレギュラー並でも華々しさは補欠クラスのこの私のどこがお眼鏡にかなったというのだろう。
柔らかさの一欠片も含まない顔で首を傾げると、いつの間にか降ってきた指が額を突いた。

「嬉しないんか?」

眼前の微笑みに尋ねられ、改めて手紙に目を落とす。
無記名の手紙をいたずらと思わなかったのは、並んだ字がとても丁寧に誠実に記されていたからだ。薄い紙一枚から震えるような緊張感が伝わってくる。受け取るだけでこんなにも動揺するのだから、差出人はその何倍も張り詰めた思いでこれを書いたに違いない。
そういえば私はただ驚くばかりで、向けられた好意についてまったく考えていなかった。手紙の向こう側には自分を想ってくれている相手がいる。誰かはわからぬまでも、これだけは確実なことだ。
それまで平坦だった「好きです」が急に立体感を持ち、胸を張って私の前に立つ。
リアルさを増した言葉の威力に、遅まきながらどきりとした。

「……嬉しいです。うん、嬉しいです」
「ん、素直でよし」

何もかも見透かしたような眼差しがすうっと細くなった。
つられて、ようやく私の顔も強張りから解放された。
こちらを覗き見するように、風にはためいた洗濯物が窓から見え隠れしている。片付けていない汚れ物がまだたんまりと残っていることを思い出してしまったが、あえて考えないようにした。
今日は吉日、人生初めて乙女としてスポットが当たった日。汗臭い労働をしばし忘れて甘やかな幸福感に浸ってもバチは当たるまい。
私は素っ気無い恋文をもう一度じっくり眺め、丁寧に折り畳んだ。

「でもこの人なんで無記名なんだろ」
「しゃあないやん、俺も相当テンパッてたさかいに」
「は?」

机上を這う長い指が、すい、と私から手紙を取り上げた。
ペン立てから適当に1本拝借し、忍足先輩は止める暇もなく白い封筒の裏に自分の名を書いた。
静かに顔が上がって、がちりと目が合う。
薄い唇がぎくしゃくと歪むのを視線の先でとらえたまま、私は瞬きをひとつ、ふたつ、みっつ繰り返した。

「前向きに、考えてや」

うまく笑顔をつくれなかった忍足先輩は恥ずかしそうにそっぽを向いてしまった。