何時間も同じ姿勢を保っているせいで、体がびりびり痺れてきたような気がする。どの部分がしびれているか自分ではよくわからない。でもびりびりする。さっきから目が痛いのはそのせいかも知れない。
古びた体に新しい血液を送るつもりで大きく伸びをしたら、足の踏み場のないという言葉をそっくり再現したような部屋の惨状が、容赦なく視界に飛び込んできた。
疲労感が一気に増す。

いつもは整然とお利口さんぶっているこの生徒会室も、いまや只のゴミ溜めだ。ここまでひどいと片付ける気力も湧かない。
空なのか使用中なのかわからない缶があちこちに散らばり、所有者不明のボールペンが見える範囲だけで15本も落ちている。
いちいち落し物として処理するのも面倒だから、後で回収して生徒会の備品としてつかってしまおう。でもほとんどがフタのない状態だから、拾う頃には乾いて大半が使い物にならないかも知れない。
じゃあ今のうちに回収してしまえばいいと思ったが、手元を見たら右手も左手もペンキでベットリと汚れていた。

「ちょっと休んだらいいよ」

そう笑った千石君も、同じように爪の先まで染まっている。
私は赤、千石君は白。なんとおめでたい取り合わせだろう。

「いやいや、もうすぐ完成だしね」

文化祭の顔ともいえる看板は、これまでの伝統に倣って毎年生徒会が用意している。校門の上に掲げるくらいであるから、一部屋まるまる占領するほどの大きさになる。
毎年のことだが看板を飾る文字のセンスには脱帽を通り越してちょっと泣ける。誰が考えてるんだろう。校長先生だろうか。『飛び出せ山吹っ子』 どこに。


「他の生徒会の人は?」
「総動員で体育館の暗幕つけ」
「あーアレは面倒くさいよー」
「うん、しかもその暗幕ところどころほつれてるらしくてさ。それ直しながら作業だから尚大変なんだって」

普段はさしたる活躍もなく存在自体がひっそりとしている生徒会だが、この時期ばかりは慌しい。猫の手も借りたいという忙しさに追われる。
やれ舞台使用の時間の振り分けだとか、やれ各クラスの企画の見直しだとか、本番が近付くにつれて仕事も揉め事も増えてゆき、最初3名で取り組んでいた看板製作係も、気付けば自分だけになっていた。やられた、と思ったがもう遅い。
1人寂しく看板と格闘していたところ、たまたま通りかかった千石君が「クラスメイトのよしみで手伝ってあげよう」と手を差し伸べてくれた時は天の助けだと思った。
塗料独特の刺激臭がこもらないように扉を開けたまま作業してたのが吉と出たらしい。
果たして完成するかどうか不安に苛まれていた私にとっては非常にありがたい戦力だが、これ幸いとこんなに長い時間拘束していいものだろうか。我がクラスが出店する焼きそば屋の段取りも、そう楽なものではないはずだ。

「んー?平気だよ、うちには頼れる男の南がいるからね。業者への発注も全部済ませちゃって、もう俺がやることはナンッにもないの」

筆を塗料の缶に突っ込みながら、「だから気にしないで?」と千石君は私の顔を覗き込んだ。
千石君はいつもこうやって笑っている。
人懐っこいというか、なんというか。この人がモテるのは当然のことだろう。かっこいいけど軽すぎるとかタラシだとか(まあ本当のことなのだが)校内での評判は賛否両論だが、女子に対する接し方が子供の殻を被った他の男子連中と比べて格段に大人だ。当たり前のように女の子をお姫様扱いできる。下心のなせる業だと言ってしまえば終わりなのだが、相手に負担をかけない気の回し方は流石だと思う。


窓から差し込む橙色の光が動いてゆくのを感じながら、少しの間2人とも黙々と作業に集中した。
時計の秒針の音は、こんなにもやかましいものなのかと少し驚く。
やがて全教室に文化祭準備以外の生徒へ帰宅を促す校内放送が流れ、役目を終えたスピーカーが再び沈黙した時「さんさ、」と千石君が静寂を破った。

「進路とか考えてる?やっぱり前から言ってた聖城で決まり?」
「…うん、そこの理数系」

千石君と進路希望の話などしたことがあったかなあ、とぼんやり疑問に思いながらも、間違ってはいなかったので看板の背景を塗りつぶしながら頷いた。

「そっかーさん頭いいもんねぇ」

本当に感心するような声だったので、素直に「そんなことないよ」と返事が出来た。
3年になり、話題が進路に傾くようになってから、出来る人はいいよねなどといきなり刺々しい言葉を投げつけられることが多くなった。悪気がない分だけ声は鋭く響き、結構傷つく。
そういう時必ずどこからか千石君が現れて、お父さんのように頭を撫でてくれる。「さんは大人しいから、みんなの苛々を被っちゃうんだよ」と。そして「大丈夫、その苛々は全部俺が引き受けてあげるよ」とも。
そう言ってもらった瞬間、私は本当に苛々を明け渡したかのような安心感に包まれるのだけど、人を気遣ってばかりの彼はしんどくないのだろうか。
千石君それでいいのですか。そう問うと彼はそれでいいのですと笑っていた。それはひどく優しい顔で、強く胸に焼きついた。


「千石君は決めたの?学校」
「うーん、担任には成績からいくと東あたりしか望めないって言われてんだけど…」

たっぷりとインクを含ませた刷毛が丁寧に文字の細い隙間の中を通ってゆく。千石君はけっこう器用だ。

「ホラ、もう部活もなくなっちゃったしさ、今から勉強頑張ろうかなーって。俺、東に行くのは嫌なんだよね」
「なんで?」
「だって、逆方向じゃない」
「逆?」
「しかも俺、たぶん自転車通学だと思うし」

意味が分からない。
刷毛を握る手をとめて顔を上げたら、千石君は既に彩色された場所を何度も何度も塗りつぶしていた。

「聖城って遠いよね」
「…そうかな」
「あの駅から電車で何分だっけ」

50分、と答えると「充分かかるじゃん」と千石君は下を向いたまま笑った。
遠いと言われれば遠いかもしれない。
でも、もっと通学に時間のかかる学校を志望している子は沢山いる。片道一時間弱は珍しいことではない。
確かにねぇ。
千石君は笑顔のまま顔を上げた。


「でもね、俺にとっては遠いんだよ」


掴むというより押さえ込むような強さで右手を引き寄せられ、かすれた筆先が看板の上を流れ星のように滑ってゆく。
すぐ近くまで迫った彼の目は、もう笑っていなかった。




「世界の端っこみたく遠いんだよ、」




赤と白が交じり合う。
震える声を前に私は言葉もなく、ただピンク色に染まった彼の手を強く握り返した。