お付き合いしていただけませんか。

机の前に立つ柳生比呂士はそう言った。
淀みのない落ち着きを払ったその口調で、確かに言った。
は彼を見上げたまま、ふたつの目とひとつの口をぽかりと開けた。

「あ、の、柳生君、その『付き合う』というのは…」
「どこそこへ行くからご一緒して欲しい、といった意味合いの『付き合う』ではありません」
「想い想われる彼氏彼女となりませんか、ってことでしょうか」
「そうです」

至極真面目に頷いた柳生に、は言葉を失った。

「口は閉じた方が良いのでは」

「え」だの「あ」だのと言葉にならない呻き声をもらしながら、だらしなく開いた大口に慌てて蓋をする。力加減なしに打ち付けた掌が頬の上で大きく音を立てたが、痛みはちっとも感じなかった。
いまと柳生の二人を取り巻いているのは、ひと気のない公園の風景でもなく、人を酔わせる夕暮れの空でもない。
二時限目を終えたばかりの教室はひたすら騒々しく、白と赤のチョークの粉が空気中を元気に舞い踊っていた。何があったかは知らないが、たるんだ丸井に真田が激昂し、黒板消しを力一杯投げたらしい(そしてジャッカルに当たったらしい)
その騒がしさが幸いして、教室の片隅で突如敢行された告白は周囲の耳に入らずに済んだ。いや例えテニス部副部長の怒号が響かなくとも、誰も気付きはしなかったかもしれない。
それほどごくごく自然に、当たり前の風景に溶け込んだまま、彼は告げたのだ。

休み時間に入って数分経過した頃、いちいち回収に回らねば集まらないような連中が多い中、律儀な柳生は課題を提出しに席へとやって来た。わざわざ届けてくれてありがとう、と本日の日直であるは笑顔で受け取った。
本当にそれだけの、実にたわいのないやり取りだった。
だが次の瞬間、柳生の口から出たのは、「お付き合いしていただけませんか」。
まるで、いい天気ですねとでも言うかのような平たい声のトーンで。

さん、聞いていますか」
「ご、ごめん、ちょっと驚いて…そんなこと言われたの初めてなんで」
「私もこのようなことを言うのは初めてです」

背筋はしゃんと伸びていて、ネクタイの結び目も普段通り一分の隙もなく整っている。
見かけは完璧だが、果たしてこれは柳生本人だろうか。衝動的で脈絡のないあの言動、常に冷静な彼と同一人物とはにわかに信じがたい。
もしや悪ノリしたパートナーのいたずらかと背後を振り返ってみたが、頬杖をつきながら携帯をいじる仁王が視界に入った途端、その疑いは消えた。ルールを重んじる柳生は、入れ替わっていても決して教室では携帯を開くことはない。
では、ここにいるのは紛れもなく本物なのかと、信じられないような気持ちでは柳生を見上げた。

「軽々しい気持ちではありませんから」

戸惑いと迷いを見透かしたように頭上の男は囁いた。
は、はい、と反射的に裏返った声で応えたはいいものの柳生の表情も真意も読めず、は揃えるほど集まっていない数冊の課題ノートを何度も縦にしたり横にしたりして、視線から逃れようと必死になった。
おぼつかない手つきを嘲るように、ノートの隙間からひらりとプリントが一枚滑り出す。
が、それは床へと落ちる前に素早く拾い上げられ、落ちましたよという紳士的な声と共にの手元へと戻ってきた。
彼の奥に光る感情を、綺麗に覆い隠す曇った二つのレンズ。
いつもはどういう仕組みの眼鏡なのかとただ不思議に思うばかりであったが、今となってはその存在がやけに憎らしい。どのような顔をしてどのようなことを考えているのか、少しもわからない。
そうこうしている内に、休み時間の終了を告げる鐘が高らかに鳴り響いた。
おや、と呟いた柳生は腕時計に視線を落とした後、

「授業が始まりますね。では後ほど」

と、散らばってゆく生徒達の流れに乗って、あっさりと自分も席へと戻って行った。



本場を知る者が話す英語は途切れがなく、流れるように美しい。帰国子女である英語教師の発音は当たり前だが流暢で、授業が始まると教室は日本から遠ざかる。まず耳から学ぶ、という教育方針に乗っ取ってか、授業はいつも彼の朗読で始まった。
声高に英文が読み上げられてゆく中、といえば全く集中出来るわけもなく、相変わらず口は半開きである。
一応発音を拾おうと耳で声を追ってはいるものの、頭には単語の一つも入ってこない。
目の前の授業に集中しようと神経を研ぎ澄ましてみるが、教師の声も、机の上の教科書の文字も、なにもかもが遠い。

クラスメイトが残していった混乱の種は時間の経過と共に沈静するどころか、ますますの中で大きく膨らんでいた。
あれだけはっきりと本人の口から聞いたにも関わらず、未だに現実として受け止めきれない。
真面目が眼鏡をかけて歩いているような男だから言葉に嘘偽りがあろうはずはないが、それでも何かの間違いではないか、幻でも見たのではないかと、数分前の出来事に疑いを抱いてしまう。

後ほどと、去り際に彼は言い残した。
鐘が再び校舎に響けば、柳生は返事をもらいにやって来る。時計を見るとあと一時間もない。いつもは長すぎるとさえ感じる授業時間も、今日は短すぎる猶予に思えた。
大体、なんだってあんなタイミングであんなことを言い出したのか。言うにしても、もっとふさわしい場面というものがあったろう。同級生が駆けずり回っている横で唐突に交際を申し込まれた上、慌しく去られて置き去りにされた自分はどうすれば良いのだ。
教科書の上でノンキに笑いかけているジョニーだかジョーイだかの金髪を、は握ったシャープで塗りつぶした。芯が折れた。
黒髪にイメチェンさせられても尚、『ここはP28で学んだね!』と満面の笑顔のジョニー(もしくはジョーイ)は懐が深い。
そんな彼が誘導にしたがって、P28をなんとなくめくってみた。ポイントに蛍光ペンが引かれ、あちこちに注釈まで書き加えられているそのページは、当時の勉強熱心さが伺える。ラインなど定規を使ってきっちりと真っ直ぐに引かれていた。
この律儀さは自身の性質ではなく、かつて隣にいた男の影響だった。

長い間、と柳生は長らく隣同士の席にいた。
幾度も席替えがあったが、場所が移動しても前後の生徒が入れ替わっても、隣は必ず柳生だった。先に柳生がクジを引いた場合はが左右どちらか隣の番号を引き当て、逆にが先の場合は柳生が引き当てる。が窓際の席を引いた時、当然隣席はひとつだけであったが、やはり吸い寄せられるようにその場所は柳生の席となった。
あなたとは縁があるようですね、と四度目の隣人に番号を見せながら彼は笑った。
しかし五度目の席替えで流石にその縁も尽きたらしく、いま横に柳生の姿は無い。
二つ斜め前の生真面目な後姿を、は視線だけで盗み見た。

その途端、柳生の名を呼ぶ声が響き、動揺のあまりはまたしてもシャープの芯を折った。
気が付けば、周囲はテキストの問題に取り掛かっている。思い出に浸っているうちにヒアリングは終っていたらしく、授業はとうに次の段階に進んでいた。
教師からご指名を受けた柳生は慌てるでもなく、すっくと椅子から立ち上がった。

「私は彼女を恋人にしたい」

芯どころかシャープ本体を折りそうになった。
決して柳生が血迷ったわけではない。ただ問題の英文を訳しただけで、彼に罪など無く、ましてやそこに深い意味などあるはずもない。
わかっている、十分わかってはいるのだが、タイミングが白目を剥くほどに絶妙過ぎた。
いつもは「窓を開けて欲しい」だとか「京都に行ったことがあるか」だとか、当たり障りの無いことばかりのたまっていたというのに、今日に限って何故こんな情熱的な台詞を口走るかジョニーよ!
これが昨日なら、いや、ほんの一時間前ならば、例え「お前を殺して俺も死ぬ」などと狂気に近い愛の訳文を柳生が述べたとしても、何も感じなかっただろう。
しかし今のに聞き流せるだけの余裕はなく、解答と例の発言は当然のようにリンクした。おせっかいな脳があの場面を再現して見せる。
お付き合いしていただけませんか。
思い出した刹那、カッと耳が熱くなった。今頃になって言葉の意味に気付いたように、けたたましく心臓が騒ぎ出す。

いつから。彼はいつから、自分をそんな目で見ていたのだろう。
我ながら情けない話だが、好かれるような要素などまるで見当たらない。
隣の席が当たり前だった頃は忘れた時に教科書や辞書をみせてもらったりして、常に頼り切っていたような気がするし、ノートに書かれた文字は彼の方がよほど丁寧で綺麗だった。席が離れた今でも、が休めば風邪は治りましたか、これは昨日の分ですよ、などと言いながらノートをわざわざ貸しに来てくれる。
ここまで散々世話になっておきながら、お返しらしいことをしたかと言えば特に覚えもなく、せいぜい黒飴をあげたとかカスピ海ヨーグルトのたねを分けたとか、心底どうでもいいようなことしか思い出せない。
考えれば考えるほどに己の美点は見出せず、むしろ彼の魅力ばかりが輝いて見える。本当にいつも柳生は親切だった。時に厳しくもあったが、大抵最後は「仕方ない人ですね」と微笑んでくれた。
変わらぬ彼のその優しさを、は長らく誤解していた。
元隣人に対する抜け切らない習慣と受け取っていた。
だけれども、そこに込められていたのは紳士の嗜みなどではなくて、特別な一人に向けられた、とても特別な何かなんだよ。陽気なジョニーが笑って告げる。
迷いなく伸びた高潔な背筋を眩しそうに見つめ、は静かに赤面した。


「先程の話、考えて頂けましたか」
「う、うん…」

授業ひとつ放棄してまで考え抜いたの後頭部は薄っすらと温まっていた。熱の出所が知恵熱なのか恋のせいなのかは、本人にもわからない。見上げる視線はふらふらと揺れ、力なく発した声は小鹿のように震えている。告白したのは、一体どちらの方なのか。
英語授業45分。小娘の芯を茹で上げるには充分だった。

「でも、あの、柳生君はいったい私の何が良くて」
「いいも悪いも、私にはあなたしか見えなかったんですから答えようがありません」

最後に一発、真っ向からとどめを刺されたに、無駄な抵抗はもう許されない。
湧き起こる周囲のどよめきに少しも動じず、手を差し伸べた柳生はその顔に微笑みを湛えた。

「ほらまた口が開いていますよ、仕方のない人ですね」