咲 い た 咲 い た





司馬懿が熱を出した。
原因は大体わかっている。
今年は冬が過ぎたあたりから気候が不安定で、のどかな日差しに春眠を覚えるどころか、季節外れの冷たい風に怯む日の方がずっと多かった。
そんな手厳しい春に鞭打たれる中、咲いてもいない桜の木の下で花見を敢行したというのだ。
花見とは言っても実際花を愛でることが目的ではないのは暗黙の了解であるし、なにかと理由をつけて宴席を設けたがるのは酒飲みの性であろう。
だが、ただの口実とはいえ花見と称したからには開花を待つべきではなかろうか。この際どのような花でも構わない、桜でなければなどと贅沢は言わない、せめて「花見」の体裁くらいは整えてもらいたい。
つぼみも震えて固く閉じる寒空の下、なんとなく桃色に見えないこともない木の根元に集って宴スタート。
悪い事に、朝の低温に加えその日は稀に見る強風であったという。
それぞれのマントがお互いに絡まったり、どこからともなく洗濯物が吹っ飛んで張り付いたり、数分ごとに転がってゆく匙やら銚子やら扇やら重量の軽い兜やらをみんなでビーチフラッグのごとき瞬発力で追いかけたり引っ掴んだりと、それはそれは一秒たりとも気の抜けない、そして口にする全てがじゃりじゃりした砂混じりの食感という、実に味わい深い宴だったらしい。
残念ながらというか幸いにしてというか、はたまたま城を離れていたのでフライングだよ!花見(がまん)大会には参加しておらず、現場の様子をその目で確かめてはいない。
雪こそ降っていなかったが、やはり身に堪える寒さだったようで、終了した時点で全員鼻を垂らしていたと聞く。
普段から己を律し、日々鍛錬に励む屈強な男達が揃って鼻水である。
普段から寝不足などの不摂生を得意とし、日々机上で脳の鍛錬に励む青白い司馬懿がただで済むわけがない。
翌日、周囲が懸念した通り、彼はドミノ倒しの最後尾のごとき潔さでぶっ倒れた。


、ついて来い」
音もなく現れを驚かせた曹丕は、返事を聞く意志も見せずさっさと踵を返した。
読めもしない指南書を広げてうつらうつらと船をこいでいたは、膝から書を落としながらその背を追いかけた。
うたた寝してたところを急に引っ張り出され、記憶が少し朦朧とする。今日曹丕との予定などなかったような気もするし、前からの約束であったような気もする。
曹丕はすたすたと歩いてゆく。
十歩、二十歩とついていく内に正常な運転をし始めたの思考は、やはりこれが予定にない出来事であると遅まきながら判断を下した。
そうなれば、雛鳥のように黙って後を追うわけにもいかない。逆らう気はないが、進む先の予備知識くらいは得ておきたいではないか。
「曹丕様。来いって、どこへ」
振り向きもせず曹丕は答える。
「仲達の見舞いに行く」
「えっ」
一瞬は足を止めたが、先を行く曹丕がどんどん進むので、慌てて歩きだした。つい駆け足になったため、背中を通り越して真横に並んだ。
「お見舞い?ですか?」
「そう言ったではないか。聞こえなかったか」
見れば、曹丕の手には紙に包まれた手土産のようなものがある。
どうやら本気でお見舞いに向かう気でいるらしい。
スタンプラリーするぞとか、父の魚拓をとるのだ、とかそのあたりの回答を予想していたにとっては予期せぬ言葉だった。
驚いたけれど、これは心地よい驚きだ。
思わず頬をゆるめたが、比例してゆるくなった自分の歩調にハッと気付いて、引き離されまいと速度を上げる。もはや競歩。
「司馬懿様が倒れたのって昨日ですよね」
「そのように聞いている」
「今朝もまだ熱が高いままだったとか」
それがどうした?とでも言いたげな目が一瞥する。
大きく崩れた体調は、よほど頑丈なつくりでもない限り一息に回復することはなく、地道にゆっくりと一晩ごとに上向いてゆく。体力気力に満ちているとは言い難い司馬懿の場合、最低あと一晩は寝込んでいなければ厳しいだろう。
「一日待ちません?明日なら司馬懿様も少し楽になってると思います」
「ふっ、おかしなことを言う。苦しい時にこそ行くものだろう」
余裕ゼロの時の見舞いはありがたい半面とんだ迷惑ではないかと思うものの、「ふっ」などと自信満々に笑っちゃっている曹丕様のルールには当てはまらないらしい。
この後継ぎの教育どうなってんだよという感じではあるが、これから突撃されようとしている病人がその教えを施した本人なのだから、責任を取って多少のことには耐えてもらうのが道理かも知れない。
は引きとめるのを諦めた。同時にぴたりと歩くのをやめた。
デッドヒートを繰り広げていた相手が食らいついてこなくなったので、曹丕は怪訝そうに振り返り、初めてその足を止めた。
「お前も相当軟弱だな。仲達を笑えぬぞ」
は体を二つに折り、肩で息をしていた。迷路のような長い回廊を、膝も外れんばかりの勢いで歩き続ければ疲れもする。
「そ、曹丕様こそ、額の、汗、すんごいです、よ」
「汗ではない結露だ」
端正な面立ちに流れる滝のような汗、否、結露を、曹丕はすました顔で拭った。湿気が多いな……などと小声で弁明までしていた。
は体重を預けていた両膝から手を離し、大きく吐いて息を整えた。
「よし、行くからには、わたしも何かお見舞いを」
「必要ない。私に用意がある」
「そういうわけにはいかないですよ」
悪意はないとは言え、最もしんどいであろう状態と承知で押しかけるのである。物で誤魔化そうというわけではないが、ただでさえ迷惑5つ星の暴挙の上、片方の客が手ぶらではますます心象が悪い。
「ならば取りに戻るとでも?」
不服そうな仁王立ちが、床をひとつ踏みならす。
は返事に窮して、どうしたものかと視線を巡らせた。
お願いしても素直に彼が引き返すとは思えないし、かといって世継ぎに相手にここで待てというのも今更ではあるが甚だ無礼な話である。そもそも戻ったところで気の利いた品がすぐ用意できるかどうか。
行き場もなくふらふら彷徨っていた眼差しが、庭園を撫でたところでふと止まった。


の予想をひと欠片も裏切らず、司馬懿は風邪のピークを迎えていた。
病状変わらず、昨日から寝室にこもったままであるという。
その通された寝室の薄暗いこと。伏している為かと思いきや、普段もそう変わらぬらしい。
日頃から日の光を浴びないから病なんかにつけ込まれるんですよ。案内してくれた年配の女官の、せがれをこきおろす母にも似た遠慮のない口ぶりが面白かった。
部屋に入る際、は気を遣ってそろそろと忍び足だったが、曹丕は廊下の競歩さながらの王者の突進で寝台に近づいた。躊躇のない足音がこれでもかと響き渡った。
司馬懿は眠っていた。
光を拒むかように瞳が固く閉じられていた。
こう表現するのがふさわしいのかどうかわからないが、妙に寝台が似合う。「寝ている」より「同化している」の方がしっくりくるというか、寝台の装飾の一部かと見まごうばかりである。まず本人は喜びそうもない誉め言葉であるので、口に出す機会はなさそうだ。
曹丕はしばらく目覚める気配のない司馬懿をじっと見ていたかと思うと、不意にの方を向いた。
「もうこれ死んでないか」
「なんつうこと言うんですか。縁起でもない」
「生ある者とは思えない静寂さだぞ」
「いやいや息してるでしょう。かろうじて」
ほら、と聞き耳を立てたが身をかがめる。
つられるようにして曹丕も手を添えた耳を近付けた。
「これが呼吸だと?蟻でももう少し音を立てるものよ」
「そりゃさすがに言い過……あ、いま寝息らしきものが」
「……何も聞こえん」
「ちゃんと耳澄まして」
「まだ足りぬというか」
生きてる死んでる息してるいやしてない等と言いあう内に、と曹丕の体はどんどん寝台の方へ折れてゆき、耳は司馬懿の鼻孔付近に寄っていった。微かな物音も拾わんと、全神経が集まって来る。
「曹丕様、しっ」
「む?」
「なんか聞こえる」
「………」
「………」
「………………うるさい」
血走った目がしっかりと開いて、恨みがましく二人を見ていた。
完全に至近距離に迫っていたは肝をつぶしてバネのように身を引いたが、曹丕はなんだやはり生きていたかなどと言ってふてぶてしく笑った。
そう明るくない中にあっても、司馬懿の顔色の悪さは際立っていた。もともと青白い肌が、頭からブルーハワイでも被ったかのように、一段と青さを増している。
「これは、我が君」
一拍遅れで主を認めた司馬懿が、掠れ声で敬意を払う。続いて力なく視線がへと滑り、目が合った。
司馬懿さま、と気遣わしげに囁くと、決まり悪そうに「うん」だか「ぬう」だかよくわからない呻き声を発した。
どう見ても今彼に必要なのは、見舞いではなく休養である。あんまり無理させると本当に死ぬぞこれは。
はあはあと息も絶え絶えの司馬懿は、顔を歪めながら体を起こそうとしている。
「わざわざ、このようなむさくるしい場にお越し頂かなくとも」
「起き上がらずともよい。寝ている方が書きやすい」
「起きます」
いつの間に出したのか、曹丕の手には墨を吸った筆が握られている。咄嗟に司馬懿が跳ね起きたのも無理はない。 
「誰ぞ骨折をした者があると、和尚が体中に寄せ書きしてその者を激励するという話をから聞いたことがある。それをお前に試してやろうというのだ」
「うん、確かにしましたけど、じかに生身には書きませんからね。前お教えした耳なし芳一と混じってますね」
事を荒立てないように、は微笑みを絶やさず筆をそうっと取り上げた。
面白くなさそうではあったが、曹丕は比較的に大人しく没収に従った。これ以上の無体は司馬懿の死相のレベルを上げかねない。
「まあとにかく見舞いに来てやったのだ。予想通り死人のごとき面構えだな」
「身に余る光栄ですな。ありがたさの余り熱がぶり返してきました」
「それは何よりだ。遠慮はいらぬぞ」
どうだ臣下想いだろう。苦しゅうない。と本気で思っている曹丕と、ありがとうございます。帰れ。と全身全霊で訴えている司馬懿の温度差が場を和やかなものから遠ざけている。
食い違う心模様がさらけ出されている主従の会話に、はあさっての方角を見るしかなかった。
しかしこの場合、従側の心理の方が正しいというかごく自然な反応かと思われる。頼むから寝かせろというのが病人としての正当な言い分だろう。
クククハハハクククと不気味な笑いの応酬がしばし続き、のHPはじわじわ削られつつあった。
そこへ、扉の外から控え目な声がした。ほどなく一人の女官がしずしずと歩み寄り、様からでございます、と寝台から見える位置に運んできたものを置いた。
ぼってりした花瓶から、いくつもの花で飾った枝が細く伸びている。花の色は緋色。
司馬懿がぽつりとその名を呼んだ。
「……桃か」
「庭師の方にお願いして頂いて来たんです。この前は肝心の花が咲いてなかったらしいので」
お見舞いに贈りたいと頼むと、初老の庭師は顔をくしゃくしゃにして快く応じ、良い枝を選んでくれた。
ほんの数本だというのに、花の存在感とは大したもので、ほのかな香りと華やかな姿に、部屋が明るくなった気すらした。
「これなら横になったまま眺められるでしょう?早く元気になって下さいね」
寝ている病人を叩き起こしておいて、早く元気になれも何もあったもんじゃないが、もともと自身は回復を願いこそすれ、病を重くしに来たわけではない。こんな時にわざわざ押しかけたという懺悔の思いも含め、(司馬懿から見れば聖母にも思える微笑みで)病床の軍師を精一杯労わった。
「………元気になれと言われて治るものならとっくに出仕してるわ」
なぜか一瞬言葉が遅れた司馬懿は、憎まれ口を叩いて目をそらした。
「仲達、顔面が赤いぞ」
「な…異なことを…っ」
「どうした病気か」
いま病気か病気ではないかを問われたら間違いなく病気ですが。ええ。だから見舞いというイベントが発生して、こうして足を運んで頂いたのではないか思うわけですが」
「何を怒っている。青かったり赤かったり忙しい奴よ」
悪化するぞと言い放って、曹丕は持ち込んだ紙包みをおもむろに開け始めた。
現れたのは砂糖をふんだんに使った色とりどりの菓子で、花や鳥をかたどった細工は目にも美しい。
それらをひとずつ黒塗りの盆に並べると、鮮やかな色が映えて春爛漫の風景に見えた。自然と感嘆の息がもれる。
「これもある意味お花見ですね。すごく綺麗」
「どこかの軍師のように外で風邪を引っかける恐れもないしな」
フフンと鼻で笑いながらも、曹丕は誇らしげに美しいだろうと言った。かつて師だった男は、かつての教え子が持ってきた菓子を見て、はいと素直に頷いた。
ここへ来て初めて心温まるものを感じ、はほのぼのとした気持ちになった。が。
「よし、もう充分見たな」
何故か急に曹丕は、菓子をつまんでぼりぼりと食べ始めてしまった。
、口を開けろ」
「えっ」
何事か言う暇も与えられず、次の瞬間には菓子を押し込まれていた。喋ることもできないので、懸命に口を動かして咀嚼する。あっという間に上品な甘さが味覚を支配した。おいしい。
うまいかと問われて、思わず頷く。そうだろう、甄も大層喜ぶのだ、と曹丕は満足そうな顔をしてまた次々と菓子を口に運んだ。この奔放過ぎる曹丕をたしなめなければならない。もごもごと噛みしめる。おいしい。いやいや違う、持ってきたお前が食ってどうすると強く抗議を。
「そんな顔をするな。元よりこれは私が食すつもりで持ってきたのだぞ」
要するにおやつだ、と最後のひとつをまたもの口に詰め込んだ。
「仲達はこういった類のものは好んで食わぬし、例え食べたとしてもこんなザマではろくに口に出来まい」
来る途中に見舞いの用意があると嘯いていたのは、一体なんだったのか。そう思いながらも、頂いた菓子はしっかり味わう。
司馬懿はすでに魔力が尽きた悪い魔法使いのように横たわっていた。嫌みひとつ吐く覇気もないとみえる。
「さて、そろそろ甄が戻る刻限だな。私は帰る」
そのあたりの布で勝手に手を拭った曹丕はすっくと立ち上がった。強引に押し掛けたかと思えば、去る時も自由気ままである。
「ぼやぼやしていると職がなくなるやもしれんぞ。休養に専念し早く執務に戻れ」
自身がその休養の妨げになっている事実には見向きもせず、曹丕は来た時と同じく勇ましい足音を鳴らして歩きだした。
「あ、待っ、」
置いていかれまいと慌てて席を立ち上がり、すぐさま、はっと寝台へ向き直った。なんだと目で応じる司馬懿に、ひとこと「お大事に」と声をかけて退場するはずが、気付けばは再び椅子の上にぺたんと腰をおろしていた。
振り返ると、背後で両肩を掴んだ曹丕が立っている。を椅子に押し戻したのは彼の仕業だった。
「な、なんですか曹丕様」
面食らいながらもは咄嗟に立ち上がろうとしたが、すかさず曹丕が押さえつけ、またもや椅子に戻された。
「何をしている」
「いやそれはこっちの話で……」
「見舞い品が勝手に動くな」
は?と声を上げたのはばかりではなく、病床の司馬懿も飲みかけていた薬湯を噴いた。
「一番喜びそうなものを選んでやったぞ。仲達、ありがたく思えよ」
偉そうにそう言って身を翻し、今度こそ曹丕は部屋を出て行った。

寝室は、おそろしく静かになった。
気まずさに耐えかねてか、司馬懿は防壁を立てるごとく、に背を向けて寝具を被っている。
いたたまれないのはも同じで、空を行ったり来たりと目が泳いだ。突然お見合いの席に座らされたかのように、身の置き場がない。
「あの、曹丕様はあんなこと言ってましたけど、お邪魔だと思うんで……見つからないようにおいとましましょうか……?」
「え、な、そっ、……ゲホゲホゲホォッ」
がおずおずと申し出ると、司馬懿はガバッと勢いよく振り向き、うろたえたように言葉に詰まったかと思えば、そのまま破裂せんばかりにむせ返った。はこの時、この人死ぬ、と本気で思った。
危機感にかられたに懸命に背を撫でられ、ようやく落ち着いた司馬懿は一心地ついたように息を吐いた。
呼吸が乱れたせいで、青いばかりだった肌に赤みがさしている。
充血した目がちらりと向いて、すぐに逸れた。
「……お前一人くらい居たところで気にもならぬわ」
何を言われたか一瞬わからず、が黙って目をぱちくりと動かすと、司馬懿はますます顔を紅潮させて、追いつめられたようにまくしたてた。
「あ、主の心遣いを無下にするわけにはいかないからなっ。そ、それだけだ。他意はないっブホッ」
興奮しすぎた司馬懿はまたも咳き込んだ。
言外に帰るなと言われていることに気がついたも、ああ、はい、ええ、うん、と実にどぎまぎした返事を連発して、むせそうになった。実際ちょっとむせた。
「………」
「………」
咳のデュエットが落ち着いた途端、またも降りかかって来たのは静寂だった。
もう司馬懿はに背を向けてはいなかったが、彷徨う視線はなかなか交差しない。
ふいに、香りに呼ばれた気がして、は桃の花を目にとめた。こぼれそうな花弁の塊が、春の明りを灯している。
ふっと力が抜けた。
そうするのが当たり前のように、は物柔らかに沈黙をくぐった。
「司馬懿様、具合が良くなったらお花見行きませんか」
「嫌がらせか貴様」
「今度こそ咲いた花の下でやりましょうよ」
「花見など懲り懲りだ」
「でも、私まだ行ってないんです」
「………ふん、天気がよければ考えてやる」
照れくさそうに鼻を鳴らして、ゆっくりと司馬懿のまぶたが閉じられてゆく。
はいとは微笑んで、肩まで布団をかけ直した。








甄姫は泥パックエステに行っていました