陽の匂いが鼻をくすぐるような、暖かい日だった。

 「すっかり春らしくなってきたな」

 鍛錬を終えた体は少し汗ばんでいる。
 このうららかな陽気のせいか。
 戦場で身を守る鎧であるが、今日の天気にはどうも暑すぎたようだ。
 張遼は襟元をゆるめ、自室へと歩き始めた。

 「うん?」

 ふと、張遼が歩みを止めた。
 進む先に何か見慣れぬものがあった。
 廊下の端に、赤い線が引かれている。
 今朝、同じようにここを通ったはずだがあのようなものはなかった。
 遠くからでも目に付くほどである。
 気付かずに通り過ぎたとも考えにくい。
 一体何だ?   
 訝しげに近付いてみると、それは線ではなく赤い紐であった。
 長い長い紐が、壁側に沿ってどこまでも続いている。
 目で追ってゆくと、ご丁寧に曲がり角で紐も一緒に左折していた。
  
 何なんだ本当に
    
 ますます張遼はわからなくなった。
 このまま何も見なかったことにして、とっとと部屋へ戻ってもいいのだが、どうも気になる。
 ここで確かめておかなければ、夜眠れなくなるかも知れない。
    
 そうして張遼は、身をかがめて紐を丁寧に巻き取り始めた。
 疲れてるんだから早く帰ればいいものを。
 どうしてだか妙な使命感を持ってしまった彼は、謎の終着点を目指して走り出してしまった。
  




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 紐は、思ったより長かった。
 グルグルと巻き取ったそれは、かなりの量になっている。
 そろそろ終わってくれないと、体力的にも精神的にもしんどい。
 張遼の顔に疲労の色が浮かび始めた頃、紐は宮廷を飛び出していた。
 中腰で紐を追っていた張遼は、外の風を感じながら顔を上げる。

 季節は春。
 春は桜。
 桜の下には。
 紐の先には。
 腰掛に座って、少女がすやすや眠っていた。
  
 …殿…?   
  
 起こさぬよう静かに近付き、張遼は彼女の細い指に巻きついている赤い紐を認めた。  
 健やかに眠るを見つめながら、そうか、と張遼は納得した。
 これは、殿の迷子紐であったか。

 芸術的センスに秀でた曹操が治めるこの魏国の城は豪華絢爛である。
 そして、やたらと広かった。
 初めて訪れる客は、供なしで歩くことはまず出来ない。
 長くここに住まう者ですら、時々戸惑ってしまうほどである。
 まして現代からやって来たが、簡単に把握できるわけもなく。
 通っていた学校の校舎よりも広いこの宮廷で、彼女はいつも迷っていた。
 そこで考え出されたのが迷子紐である。
 部屋から出た後、帰り道がわからない。
 そういった事を防ぐ為に、一方の端を指へ。
 もう一方の端をの自室の近くの柱に巻きつけておく。
 戻る時はその紐を辿れば、自動的に部屋へと帰ることが出来るという訳だ。

 他に方法はなかったのかと突っ込んでやりたくなるような、阿呆らしい策ではあるが当人達は本気だ。
 朱雀様を迷子にするわけにはいかない。  
 それだけでも充分だろうに、更に曹操は迷子カードをに贈った。


  
  

   
 流石にそれは幼稚園児みたいで恥ずかしいから、とは心から遠慮したのだが、魏将達は皆ひどく心配性であった。
 遭難でもしたらどうする!などと、馬鹿らしいほどに大げさなことを口々に言い、年頃の娘としてきっついであろう迷子カードの携帯を義務付けられてしまった。
 (幼稚園児というより、徘徊癖のある老人のような気がする)
  
 眠る彼女の首に、迷子紐と同じ紐でくくられたその迷子カードがぶら下がっていた。
 時折吹き抜ける風でゆらめいている。 
 律儀にいいつけを守っているに、張遼の口から自然と笑みが漏れた。
 指と首に、赤い紐。
 なんか飼われちゃってる感が無きにしも非ずであるが、はそれが皆の(いきすぎた)好意や思いやりからであることは分かっていた。
 だから、渋々ながらも従っているのだろう。

 特に迷子紐はこの宮廷内を歩き回る際、彼女にとって命綱である。
 以前一度、紐を持たずに出かけたは次の日半泣きで保護されたという苦い過去があるのだ。
 そういえば、と紐の発見場所はの部屋の近くだったことを張遼は思い出した。
 きっと途中で柱からほどけてしまったのだろう。 
 しかし、これを張遼が回収してしまったおかげで、は1人で部屋へ戻れない。
  
 「…致し方ないな」

 迷子紐を巻き取ってしまった責任上、目が覚めた後を部屋まで案内せねばならない。
 言い訳がましく呟いた言葉とは裏腹に、張遼の口元は綻んでいた。
 期せずして手に入った、彼女のそばにいられる口実。
 その嬉しさを隠しきることができなかった。
 ゆっくりと、うたた寝を続ける彼女の横へと張遼が腰掛けたその直後。
        
  

 
ザバーー!!



 目の前の池から、巨大な何かが現れた。

 「な、なんだ魚人か!!?」
 「水の中から、美しく上陸ーーー!!」


 張コウ登場。

 全身から水滴を垂らしながら、すまし顔の蝶は光を浴びて無駄にキラキラしている。
 眩しい。
 比喩ではなく、本当に眩しい。

 「おや?張遼殿ではないですか。こんなところで何を?」

 その台詞をそっくりそのまま返してやりたい。

 「い、いや…いい天気なので日干しでも…」

 とっさに、張遼はを覆い隠していた。
 自分のマントで(光の速さで肩から脱着。さすがは遼来々)

 相手は張コウである。
 こんなところを見られでもしたら、きっと「私のと隠れて逢引ですか!」などと過剰な反応を示すことだろう。
 下手すれば、この光景を好き勝手に脚色されて下世話なゴシップを流されるかも知れない。
 そんな噂を鵜呑みにした紫放射線や大斧や朴刀から、影で命を狙われるなんてまっぴら御免である。  
  
 「マントの日干しですか、それは素敵です。身なりに気を遣うのは良い心がけですよ!」

 張遼の言葉に満足気に頷き、張コウは濡れた長い髪をバサッとなびかせた。
 水滴が飛んできて、非常に迷惑である。

 「張コウ殿は一体何を?」
 「華麗に水浴びです」

 池で?

 「適度なスイミングは美容に大変宜しいですから」

 だからって何も庭の池でやらなくても。
 泳いでいる錦鯉もとんだ災難だ。
  
 「ああ!こうしてはいられません!」

 この後ヨガ教室があるのです、と呟きながら張コウは身を翻す。
 再び、張遼の顔に水しぶきが10滴ほど吹っ飛んできた。

 「それでは私は戻ります!ではまた!」

 再び池へと美しく飛び込み、水の中へと消えていった。

 一体どこへどう戻るつもりだろう。
  
 あっけにとられつつ、嵐の様に去った変態を見送った張遼は隣へと目線をうつした。
 ソロソロと被せていたマントを持ち上げてみる。
 今の騒動で起きてしまったかと心配したが、の瞳は未だ閉じられたままだった。
 安堵の息を吐き、張遼はもう一度彼女の横に腰掛けた。

 柔らかい春の日差しが、体の芯まで包み込んでゆく。
 ひどく心地よい。
 これは確かに眠りたくもなる
 あっさりと眠気に傾きかけている自分のたわいなさに笑みがこぼれた。 
    
 とん。
 ふいに、左肩にわずかな重みを感じた。
 張遼はごく自然に、視線を横へと向ける。

 「!」  
  
 すぐそばに、の顔があった。
 肩に頭をちょこんと乗せて、彼女は張遼にもたれかかっている。
 気持ちよさそうにスヤスヤと眠ったまま。
 驚いて声を上げそうになったが、慌てて手で口をふさいだ。

 彼女が、起きてしまう。
 必死で張遼は言葉を飲み込んだ。  
 この娘は、とても疲れているのだ。
 とても、とても、とても。
 突然変化した生活環境に、慣れない戦の日々。
 小さな体には耐え難いほど、毎日は荒々しく過ぎて行く。
 その負担たるや相当なものだろう。
 だが、そんな素振りを微塵もみせようとしない。
 いつも困ったようにフワフワと笑っているのだ。
 いじらしくてたくましくて、心配になる。
  
 そんな弱くて強い彼女を、こういう時こそ気が済むまで休ませてやりたい。
 そして何より張遼自身が
 「もうしばらくこのままで居たい」
 そう、切に願ってしまった。
     
 ひらり、と花びらが膝に落ちる。
 見上げれば、満開の桜が張遼の視界を覆った。
 春の訪れを祝福するような、なんとも美しい光景である。
 思わず、張遼は瞳を閉じた。
 そして何かを確かめるように、もう一度ゆっくり目を開く。
 視界に広がる風景は、先ほどと寸分変わらない。    

 私は…桃源郷にでもいるのだろうか?
 
 春眠へと誘う穏やかな陽気。
 空からはとめどなく花びらが降り、隣でかすかな彼女の寝息が聞こえる。
 張遼にとってのあらゆる幸いという幸い。
 それが今、すべて形となって束となって彼の元へ訪れている。
 あまりの幸福感に眩暈がしそうだ。  
 夢か現か。
 張遼は、幻術にでもかかったかと己の感覚を疑った。
 都合のいい夢を見ているのではないかと。
 そもそも、始まりからしておとぎ話みたいではないか。
 『紐を追いかけていったら、眠り姫に辿り着きました』
 長く、どこまでも続く赤い紐。
 それは、恋しい娘の白い指へ。 
 そうだ、これではまるで、 

 
 
運命の、




 
赤い、




 「張遼さま…?」

 突然耳を襲った声に張遼はハッと我に返った。
 いつの間にかは目覚めていた。
 起きたばかりの彼女はまだ少し寝ぼけているらしく、ぼんやりとした顔で張遼を見つめている。

 「…良く眠れましたか、殿」

 さっきまで愛に酔った張コウみたいなことを考えてました、ということはおくびにも出さず張遼は子供のように目をこすっているを見て、優しく微笑んだ。
  
 「…うわ!ご、ごめんなさい思いっ切り寄っかかってました…」

 体全体を預けていたことに気付き、瞬時にの意識は戻ったようだ。
 顔を真っ赤にしながら、すいませんと何度も謝った。  
  
 「いえ、謝るのはこちらの方でして。殿のこれを、気付かずに回収してしまいました」  

 申し訳ない、と張遼も頭を下げた。
 張遼の巻き取った紐を見て、は照れたような苦笑いを浮かべる。

 「それ、またほどけてたんですね。前もそうだったんです。その時、なかなか部屋に帰れなくて…」

 はひとつ、溜息を吐いた。
 そして下を向き、紐をぐるぐるといじり出す。
 そんな彼女を眺めながら、何を決意したように張遼は口を開いた。
  
 「…もし宜しければ、」 

 うつむいていたが顔を上げた。   

 「もし…お1人で不安ならば…この張遼が殿の案内役となりましょう」

 紐の代りに。

 「え…いいんですか」
 「お役に立てるのならば喜んで」

 張遼がそう答えると、の顔は柔らかく崩れた。

 「ありがとうございます」

 光が寄り合って出来たような笑顔。
 どうしたらこんな風に笑えるのだろう。
 感謝されている側だというのに、張遼の方からこそ礼を言いたくなってしまう。
  
 「では、紐は今日で卒業なされたらいい」
 「ひ、紐?きょ、今日でですか?」

 ずいぶん急な展開に、は少々驚いた。
 そんな彼女を諭すように張遼は言う。

 「これに頼っていてはいつまでも道を覚えられぬでしょうし、今回のようにまた途中でほどけるやも知れません」

 そうなっては困るのです。
 張遼は独り言のように小声で呟いた。    

 「困るのですよ。運命を力ずくでたぐり寄せる不届き者が、私以外に現れては」

 防御に徹するのは、もうここまで。
 恋を繋ぐ赤い糸。
 これからは自ら引き寄せなければ。
 他の誰かの手に渡る前に。
 
 「うんめい?ふとどきもの?」
  
 張遼の言葉を繰り返す、困惑したようなの声。
 事情が呑み込めない彼女の顔には、疑問符が浮かんでいる。

 「なんでもありませんよ」

 張遼はそう笑って、赤い紐を強く固く、握りしめた。
 春風に乗った花びらが目の前の桃源郷を通り過ぎてゆく。 
 甘い運命は、もう手の中。






 星影様から頂いた100000キリリク、張遼夢でした。